軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

薬師と生姜(後篇)

註文を受け、信之は揚げ油の準備をはじめる。

ああ、としのぶは納得した。

確かに、あの食べ方なら吃驚してもらえるに違いない。

ハンスに指示を出しながら、信之は他の天ぷらの具材も用意していく。せっかくなら他の味も楽しみたいだろうという人情だろう。

「それにしてもまぁ、最近はこの辺りも随分と人が増えたねぇ」

筑前煮を摘まみながら、イングリドが呟くのは、古都の人口増加の話題だ。

言われてみれば、居酒屋のぶで働いているだけのしのぶでも、周りの景気のよさはしばしば耳に入ってくる。

「運河を掘るんでしたっけ」

「そういう触れ込みだね」

運河を掘る、と簡単に言うが、大変なことに違いない。

以前、水運ギルドのラインホルトが説明してくれたところによると、特別な舟を設えて、湿地の泥を浚渫していくのだという。

舟が通れるだけの幅の湿地の泥を、取り除く。

どれだけ大変な作業なのか、しのぶにはちょっと想像もつかない。

冬の間は水が冷たすぎて作業はなかなか進まないようだが、それでも、水を堰き止めたり、土を運んだり、道具を作るための木材を運んできたりと、色々な仕事がある。

仕事にありつけそうだと古都周辺の街や農村から人々が集まりはじめ、宿屋は大盛況だそうだ。

空き家の目立っていた通りにも次々と入居者が決まり、運河近くの物件では庶民が手を出せないほどに値が吊り上げられているという話も聞いた。

いずれ市域が手狭になれば、古都を取り囲む城壁の周りにも家々が立ち並ぶのだろう。

そうなれば、その家を建てるための大工が要るし、店も立ち並ぶようになるに違いない。

都市は、まるで生き物のようだ。

「しかしまぁ、面倒な話じゃないか」

「何がですか?」

「そもそも、古都には海に繋がる河があるんだよ。それなのに、運河をいちいち掘らないといけないっていうのがね」

ああ、としのぶは手を打った。

言われてみればその通りで、ラインホルトの水運ギルド〈金柳の小舟〉から仕入れている蛸も、河を通って海から運ばれてくるのだ。

「なんでそんな面倒なことになっているんでしょう?」

皿を洗いながらカミラと話をしていたエーファが、イングリドに尋ねる。

イングリドはスンと鼻を鳴らすと、長く細い人差し指で、中空に小さく丸を描いた。

「お金だよ。お金。難儀な話さ」

そんな話をしていると、ぴちぴちぴちぴちと揚げ油が美味しい音を奏ではじめる。

「へぇ、生姜を揚げるのかい」

ジョッキに口を付けるイングリドの声には少し驚きの色が混じっていた。

しっかりと水気を取り、先に打ち粉をした紅ショウガを衣にサッと潜らせ、油に入れる。

揚げ油の音が、途端に賑やかになった。

「衣をつけて揚げるとはねぇ……その赤く色がついているのは、ああ、そうか。生姜が傷むのを防ぐために予め漬け込んでいるんだね」

なるほどなるほどと頷きながら、イングリドの目は揚げ鍋から離れない。

生唾を飲むように喉がごくりと動くのを、しのぶは見逃さなかった。

「はい、紅ショウガの天ぷら、お待たせしました」

薄く切った平たい紅ショウガが衣を纏い、串に刺された状態でお目見えする。

しのぶも、これをはじめて目にしたときは驚いたものだ。

「どれどれ。調理法は意表をついてきたけどね、問題は味の方だよ」

小指で銀髪を掻き上げながら、ソースに漬けた紅ショウガの天ぷらをイングリドが一口齧る。

シャクリ。

しのぶも信之もハンスもリオンティーヌもエーファもカミラも、イングリドの反応を窺った。

しかし、無言。

シャクリ。

シャクリ。

そして、ジョッキのビールをグビリ。

「……ダメだね」

ようやく口を突いて出たのは、その一言。

「だ、ダメですか……?」

古都の住人の口には合わなかったのだろうか。

密かな好物だけに、否定されるとしのぶとしても少し悲しい。

「シノブちゃん、ラガーをお代わり。それと、このベニショウガのテンプラ。じゃんじゃん揚げておくれ」

「……へ?」

呆気にとられるしのぶの前でイングリドは、目を細めながら天ぷらをシャクリシャクリと平らげていく。

「ダメだよ。このテンプラ。本当にダメだ。テンプラとラガー、テンプラとラガー、テンプラとテンプラとラガー。無限に食べられるじゃないか……」

ああ、ダメダメと言いながら、嬉しそうに紅ショウガの天ぷらに舌鼓を打つイングリドを、店の中の一同は唖然と見つめるより外ない。

「さぁ、早く揚げておくれよ。それと、ラガーも」

「あ、は、はい!」

パンパンと手を叩いて催促されると、動かないわけにはいかなかった。

しかしまさか、イングリドがこんなに気に入るとは。

「ダメだよ。こんな罪作りな食べ物がこの世の中に存在したなんて……この赤いのは酢とハーブで漬け込んでいるんだろうから、上手くするとうちでも作れるねぇ」

カミラ、来年は研究するよ、とイングリドが串から手を離さずに申し付ける。

真っ赤な天ぷらをおっかなびっくり見つめていた周りの客も、イングリドがあんなに美味しそうに食べているならば、とおずおずと註文の手を挙げはじめた。

シャクリ、シャクリという音が店内に響き、おぉ、というどよめきがそれに続く。

生姜の辛さと、シャキシャキした食感は、確かにビールとは合う。しのぶもそのことはよく知っているが、ここまでの人気になるとは全くの予想外だった。

「しのぶちゃん、どうしよう、紅ショウガがもうないよ……」

当たり前だ。

日持ちするとはいえ、紅ショウガをそんなにたくさん備蓄しているはずがない。

天ぷらを食べた後の口直しに。

ビールのつまみにおやつ感覚で。

あくまで紅しょうがは、天ぷらの中では名脇役の位置にいる。

しのぶにとってみれば、名バイプレイヤーとして密かに贔屓にしていた役者が、突然ブレイクして一躍、時の人となったような不思議な感覚があった。

紅ショウガの天ぷらを、イングリドは幸せそうに頬張っている。

追加で買いに行くか、アイコンタクトで尋ねてくる信之に、しのぶは小さく首を振った。

「ああ、今日はもう打ち止めだね……」

ええっ、とまだありつけていない客たちが不平の声を上げる。

「明日はもう少し多めにご用意いたしますから」

しのぶが頭を下げると不承不承という感じで、他の天ぷらへ註文を切り替えてくれた。

そんなお客でも満足させるのだから、信之の天ぷらの腕は大したものだと思う。

「いや、吃驚したよ。生姜にあんな食べ方があったとはねぇ」

普段よりも多く飲んだイングリドは、カミラに支えられて心地良さげに店を後にする。

これで英気を養って、明日も薬店の営業を頑張ってもらいたい。

そんなことを思うしのぶなのであった。