軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

自分の舌

今から、百年以上昔のお話。

東王国の〈狡知王〉ルイ七世と帝国のアイヒェンブルク公爵〈陰険公〉ルドルフは、政略結婚による小さな領土のやりとりに端を発する小競り合いから、ついに対決を避けられなくなった。

知勇兼備の両雄は一歩も譲らず、戦いは三年と半分の長きに及んだ。

凄惨な内容の手紙と聞くに堪えない罵声を携えた密使が両国の間を行き来し、近隣諸邦は二つの脳髄から生み出される類稀なる罵詈雑言の豊富さと、身の毛もよだつ語彙に恐れを抱きつつ、趨勢を見守ることしかできなかったという。

両者はついに和睦を結ぶこととなった。

〈狡知王〉は羽ペンの持ち過ぎで腱鞘炎となり、〈陰険公〉は三人目の孫娘を可愛がるという崇高な使命の前に、愚かな戦いを継続することが困難になったからだと言われる。

収拾のための会談で会場として選ばれたのは、アイテーリア一番の宿〈四翼の獅子〉亭。

はじめから予期されたように議論は紛糾し、舌戦は四十と七日も続いた。

会議は踊るが、三歩進んで二歩下がる。

後の世に“詈雑言の創世記”、“地獄の悪魔も講義として拝聴した”と伝え語られることとなったこの会談の陰の功労者を一人挙げるなら、それはルイ七世の宰相ド・ルモンでも〈陰険公〉の懐刀である祐筆の〈隻眼〉のギィでもなく、単なる料理人ということになるだろう。

彼の名は、リュービク。

〈四翼の獅子〉亭の初代総料理長にして、古都の誇る〈獅子の四十七皿〉の考案者である。

まだ年若かった初代リュービクは〈狡知王〉と〈陰険公〉の無理難題を全て躱し、巧みな料理と素晴らしい応対で場を和ませ、困難な会談を円滑に進めさせしめたとして史書にその名を刻むこととなった。

「会談を無事に終えることのできた〈狡知王〉は、四十七日もの間、違う美味酒肴で宴を支え続けたリュービクにシェフの称号を与えたという。シェフというのは元々はと言えば軍の隊長とか指揮官とかそういう意味だったのが、この時から帝国でも東王国でも、優れた料理長に授けられる称号にもなったんだ」

シモンの解説に、パトリツィアは凄いんですねぇと慨嘆する。

王だの公爵だの言われてもピンとこないが、偉い人と偉い人が喧嘩して、美味しいご飯を食べて仲直りをさせたのだろうということは何となく把握できた。

二人の間を料理で取り持ったのが、小リュービクのご先祖様である、初代リュービクということになる。

どうして偉大なる初代リュービクの話題になったかと言えば、〈晩餐会〉が迫っているからだ。

古都周辺だけではなく、帝国全土、更には東王国、聖王国、連合王国や大公国からも商人を招くという〈晩餐会〉は大市の少し前に開催されるらしい。

奇妙なことは、誰が旗振り役かさっぱり分からないことだった。

古都の市参事会は突然のことに狼狽し、古くから古都にある商会は外部の商会による侵掠ではないのかと警戒感を隠そうともせず、調停を頼まれたサクヌッセンブルク侯爵家も事態が呑み込めずに右往左往としている。

疑いの目を向けられたのはビッセリンク商会だが、あろうことか古都支社の代表であるロンバウトが眼鏡を売るために近隣を行脚している最中だとかで、関係者は阿鼻叫喚の騒ぎになっていた。

どうしてこんなことをパトリツィアが知っているかと言えば、揃いも揃ってみんなが〈四翼の獅子〉亭で相談事を開陳するからだ。ここにいさえすれば今回の件の大まかな流れは分かってしまうという寸法だった。

「古都の味、と言えば〈獅子の四十七皿〉だ。大リュービク様はもう一線を退いておられるから、この〈晩餐会〉の仕切りは必然的に小リュービク様が担当することになるんだが……」

シモンの言葉が、しりすぼみになる。

原因は、目の前で酔っ払っている料理人だ。

「小リュービク様、大丈夫なんですかね」

「大丈夫だと信じないと……」

深夜の〈四翼の獅子〉亭。その厨房で、パトリツィアとシモンは、酔って眠りこけるなぜか満足げな小リュービクの姿を見て、小さく肩を落とした。

居酒屋ノヴへ通いはじめて、しばらく経った。

リューさんという偽名まで使ったが、小リュービクの正体が露見することはなかったようだ。

この店には、何かがある。

パトリツィアにここを紹介された日から、小リュービクの心はノヴの料理に奪われていた。

古都らしくない、という言い方をするとゲテモノを想像してしまうが、ノヴの料理にはそういった大味さはない。

味に好き好きはあるだろうが、古都の人間が食べても満足のいくものを提供している。

素直に美味い、と言い切れないのは、小リュービクが未だに自分の舌に自信を持てないからだ。

〈神の舌〉と崇められる父に、否定された。

あの日のことは今も、小リュービクの心に寒々とした大穴を抉ったままだ。

何としても、この穴を埋めねばならない。

手がかりがこの店にあるような気がして、小リュービクは足繁くここへ通っているのだ。

ノヴ・タイショーやシノブがどこの出身なのかは杳として知れないが、きっとどこかの街の名のある店で修業したに違いなかった。

食材や調味料、調理方法にも謎があるが、そんなことは些細な問題に過ぎない。

〈四翼の獅子〉亭にも門外不出の材料調達法や調理法があるのだから、他の店にそれがあることを責めるのは愚か者のすることだ。

自分で言うのも烏滸がましいことだが、小リュービクは料理の神に愛されている。

食材と調味料、それに調理器具さえ用意してもらえば、どんな料理だって作ってみせるという自負があった。

そんな小リュービクにとっての一番の関心事は、居酒屋ノヴの料理がいったい何を目指しているのか、ということだ。

料理人の魂、と言ってもいいだろう。

オトーシとして出された小鉢にハシを伸ばす。

今日は柔らかく炊いたダイコンと、鶏肉だ。

鶏肉の方が主役だと思って口に運び、小リュービクは小さく眉を動かした。

違う。この小鉢の主役は、ダイコンだ。鶏の旨みをしっかりと吸ったダイコンは、驚くほどに深みのある味わいを舌の上に残して、蕩ける。

そうかと言って、鶏肉が味を失ったただのガラになっているというわけではない。ひと手間かけて、十分に料理の脇を務められる味に仕上がっているのだ。

前菜(アミューズグール) で、これだ。

味の構築にかけて小リュービクはノヴ・タイショーに引けを取るつもりは、微塵もない。

ダイコンと鶏肉、それに 出汁(フォン) さえ同じ条件なら、これに匹敵する評価を受ける料理をすぐに作ってみせるという確固たる自信がある。

味を重ねる古都の料理と、素材の味を活かすノヴの料理。

この違いは大きいが、参考になる部分はある。あとは、ノヴの魂さえ垣間見ることさえできれば小リュービクは再び胸を張って厨房に立つことができるはずだ。

註文した秋茄子のアゲビタシを口に運びながら、小リュービクは焦りに駆られていた。

〈晩餐会〉。

いつの間にか流布していた食事会の話は、どうやら事実らしい。

食事一切を取り仕切るのが、小リュービク自身だということも、ほぼ間違いのないことだ。

父の差し金だろうか。

いや、それはないだろう。

〈神の舌〉に適わない不肖の息子が〈四翼の獅子〉亭の評判を落とすことを望むほどに薄情な父親ではない。そのはずだ。

いずれにしても、小リュービクは〈晩餐会〉の料理長として臨む覚悟を決めていた。

問題は、それまでに立ち直ることだ。

ノヴの指示で、ハンスがてきぱきと調理補助を務める。

「ああ、違う違う。ハンス、玉子を溶くときは、もっと手首を使うんだ」

いちいち指摘することでもないと思いながら、小リュービクはハンスに昔の自分の姿を重ねてしまう。父である大リュービクの指導は厳しく、手首の角度や、視線の置き方にまで及んだ。

小リュービクが天才であるということが分かってからは過酷な指導こそ鳴りを潜めたが、それでも細かなところにまで気を配る父の指導法が誤りだと思ったことは一度もない。

しかし、ノヴ・タイショーは指導方法について違った考え方を持っているようだ。

概ねのやり方さえ合っていれば、ハンスに口やかましく指摘することはない。

大体合っていれば、最後に味を見て、「これでいい」と「もう一度。今度は少し早めに手を動かして」と簡単な指導をするに留める。

それはそれで一つのやり方なのだろう。

ノヴ自身も、そのように教育されたのかもしれない。

だが、どうしてそこまで自信をもってハンスに「よい」「よくない」と指導できるのか、リュービクには理解ができなかった。

白身魚をカラリと揚げたところに、野菜入りの餡をとろりと掛けてある。

揚げ物だけでもしっかりと美味いものをこういう風に手を尽くしてくるところが、居酒屋ノヴのいいところだ。

サクリとした魚を味わいながら、小リュービクは気が付いた。

以前より、鋭敏に味を感じるようになっている。

薄味に、小リュービクが慣れてきたのだろうか。

そうして漸く分かったが、この店の料理は、古都の濃厚な味付けに慣れた舌では感じ取れない、微細な味わいに舌鼓を打つ料理なのだ。

どちらが優れている、ということではない。

そういう料理なのだ、としか言えない違いが、ここにはある。

小リュービクは、小さく唸った。

一瞬にして、理解したのだ。

舌だ。

ノヴがハンスの指導を細かくしなくていいのも、繊細な料理を次々と出してくる理由も、全ては料理人が自分の舌に絶対の自信を持っているからに違いない。

自分の舌。

そう言えば、小リュービク自身が、自分の舌を信じて料理したことなどあっただろうか。

いつも小リュービクの前には〈神の舌〉である父の背中があり、国内外からの賓客の姿があり、今は亡き母の姿があった。

舌。そう、舌だ。

追加註文したラガーで舌の味を洗い流し、アオネギとカイバシラのスミソアエを頼む。

繊細な味わい。そして、色々な歯触り。

食材すべての、食感と味覚の複合した、美味さ。

父ならどう評するか、と考える前に、「美味い」という言葉が自然と口を突いて出た。

その言葉に驚いたような表情を一瞬だけ浮かべたノヴ・タイショーが目元と口元だけを微かに動かして微笑み、「ありがとうございます」と応じる。

ああ、悔しい。

そうだ、美味いものを作った時、美味いと言われれば、嬉しいのだ。

失敗しなかったという安堵の笑み。

天才という名に泥を付けなかったという安心の笑み。

父に見捨てられなかったという胸を撫でおろす笑み。

そのいずれでもない、客が喜んでくれたという、笑み。

トリアエズナマのジョッキで喉を潤しながら、小リュービクは自分が笑っていることに気が付いた。なんだ、こんなに簡単なことだったんじゃないか。

自分が何もかもを失うかもしれないという恐れではなく、目の前にいるお客を喜ばせたいという純粋な想い。

自分に欠けているのは、それだったのだ。

舌に自信が持てないなどというのは、副次的な話でしかない。

目の前の人間を喜ばせようと思えば、自分の舌しか信じるべきものはないのだ。

手を挙げ、リオンティーヌを呼ぶ。

「すまない、註文だ。ワカドリノカラアゲ、ソースヤキソバ、サバノヘシコ、ニクジャガ、フロフキダイコン、サシミの五種盛りと、真っ赤なソーセージ、ブタニクノテンプラにハンスのアレ、それから……」

矢継ぎ早に註文すると指折り諳んじていたリオンティーヌが慌て出す。

「ちょっとちょっとお客さん、そんなに註文して大丈夫かい? 結構な量だよ?」

「構いやしないよ。支払いなら心配しなくていい。店のみんなで食べるんだ」

思わぬ申し出に店の客たちがおぉっと歓声を上げる。

美味い料理で、舌を喜ばせよう。

客としてとびきり笑顔になって、自分の舌を喜ばせれば、きっと自分もそんな料理を作れるようになるに違いない。

「今夜はオレの奢りだ! みんな、飲むぞ!」

周囲のどよめきは、一瞬で更なる歓声に代わる。

「乾杯!」

どこかの席で誰かと誰かが乾杯と声を上げると、歓呼の声は波のように店内に広がった。

「乾杯!」

「なんだかよく分からんが、めでたい!」

飲み交わし、酒肴を楽しむ。

突然の註文に慌しく動くノヴ・タイショーとハンスを見ながら、小リュービクの頭の中では〈晩餐会〉当日の献立の組み立てがはじまっていた。