作品タイトル不明
ロンバウトの近視(前篇)
陽の落ちるのが、随分と早くなった。
〈馬丁宿〉通りには秋虫の鳴き声がどこからともなく響いている。
世の中には色々な人間がいるものだ。
色々な人間がいる以上、色々な客もいる。
男も女も、貴族も僧侶も平民も、素性のはっきりした者も、そうでない者も。
衛兵をやっていた時から感じていたことだが、居酒屋ノブに勤めるようになって、その思いはますます強くなった。
今日も居酒屋ノブは、多くの客で賑わっている。
オトーシは、 ローストビーフ(リンダー・ブラーテン) 。
ハンスも試食したが、肉汁の溢れ出す赤身の牛肉と添えられたポテトサラダが絶妙の相性で、ついついトリアエズナマが進んでしまう逸品だ。
二切れが小皿に盛られたオトーシだが、もっと食べたいと先刻から注文が引きも切らない。
「これだ、ハンス。肉を焼くというのは”肉汁を閉じ込める”ということなんだ。この火加減を憶えるんだ」
タイショーからの指導ではない。
シノブからの叱責でもない。
カウンター向こうに座る、客からの“助言”だ。
美味そうにローストビーフに舌鼓を打ちながら、肉の削ぎ切りや盛り付けにまで細かく口をはさんでくる。
リューと名乗るその客がノブを訪れるようになったのは、つい最近のことだった。昼営業には滅多に来ず、姿を見せるのは夜がほとんどだ。
恐らく、偽名か何かだろう。この辺りでリューなんていう名前を聞いたことはない。
書き込み時にやって来てはずっと厨房の中を睨むように見つめ、タイショーやハンスに何某かの言葉をかける奇行も、数回続けば気にならなくなる。
はじめこそリオンティーヌが他のお客の迷惑になるからと注意をしていたが、最近では楽しんで耳を傾けることにしたようだ。
悔しいのは、言葉がいちいち的確だということだった。
きっとどこかの店の料理人なのだろうとハンスは睨んでいる。
古都には数えきれないほどの酒場や料理屋、宿屋があり、街に暮らす貴族の中にはお抱えの料理人を抱えている者も少なくない。来客や催し物の時だけ臨時で雇い入れられる料理人の数も合わせれば、ちょっとした数になるはずだ。
ハンスの手際にちょっとした口を挟む以外、その視線は常にタイショーの手元に注がれ、一挙手一投足も見逃すまいとしていることが窺える。
身なりを見れば、それなりの店に勤めているだろうことは分かるが、どこの店かとまでは分からなかった。
こんな時、ニコラウスがいればすぐに教えてくれそうだという気もするのだが、生憎と多忙なようで今宵は顔を見せていない。
リューと名乗るこの男が、どういうわけで居酒屋ノブに毎日通い詰めているのかは分からない。
はじめこそ少し薄気味悪く感じられたものだが、ハンスとしては注意をしてくれる人間がいるというのはありがたいことだ。
タイショーのやり方とリューのやり方が対立するときには、タイショーの方に従う。
それだけ決めてさえおけば、駆け出しのひよっこである自分が色々と教えて貰えるのは喜ぶべきことなのだとハンスは信じることにした。
色々な客、と言えば、テーブル席の三人連れもそうだ。
一人はハンスの兄、フーゴ。
そしてもう一人は、ロンバウト・ビッセリンク。いつも通り、女秘書も一緒だ。
帝国西部に覇を唱える大商会の御曹司だと聞いている。
その「御曹司様」が自分の兄と差し向かいでサイコロステーキ定食を食べているという現実が、ハンスにはいまいちピンと来ない。
思えばあの冬の晩、居酒屋ノブでオデンを食べるまで、ハンスはごく普通の衛兵として暮らしていたのだ。その後のことは、まったく別の世界の出来事に感じることがある。
フーゴとロンバウトが話しているのは、眼鏡のことだ。
硝子職人であるフーゴがレンズを研磨し、それを使った眼鏡をロンバウトが売る。
レンズの研磨技術は秘事とされていて 聖王国(ルプシア) が独占しているから、この商売はうまくいくはずだった。
はずだった、というのは、あまり上手くいっていないということだ。
兄のフーゴにも聞かされているが、眼鏡の売上は完全に頭打ちらしい。
はじめの内こそ順調だった商売はここにきて曲がり角を迎えているという。
ロンバウトと彼の率いるビッセリンク商会の販売力はさすがとしか言いようがないが、そもそも多くの人々は眼鏡をかける習慣がなかった。
「かけてもらいさえすれば、眼鏡の良さは分かってもらえるはずなのだ」
御曹司の言葉が居酒屋の喧騒の中に空しく消える。
難しいことだ。
どれだけ美味しい料理も、食べてもらわなければ評価しようがない。
周囲の人間が一人も眼鏡を持っていない状態では、眼鏡を買ってみようという考え自体が起きないだろう。
「ハンス、その肉を出し終わったら、卵を溶いてくれ」
はい、と答えてから卵の在庫を思い出す。
タイショーは尊敬すべき師匠だが、時々発注をし過ぎてしまう悪癖があった。
修業していた頃からの品切れ恐怖症が原因だというが、そのことでいつもしのぶやエーファに怒られて小さくなっている。
ハンスからすれば贅沢な話だが、店の裏口から繋がる世界はそれほど豊かなのだろうか。
今回は、卵だ。
レーゾーコの中には、タイショーの仕入れた卵がぎっしり詰まっている。
卵を使った一皿といえば色々と思い浮かぶが、タイショーは何を作るつもりなんだろうか。
ボウルに溶いた卵にタイショーが加えたのは、白身魚のすり身だった。
「あ、伊達巻だ!」
シノブが嬉しそうに声を上げる。
ダテマキ。
また聞いたことのない料理の名前が出てきた。
「シノブさん、ダテマキってどういう意味なんですか?」
エーファが尋ねると、しのぶはふふんと鼻を鳴らす。詳しく答えられることが嬉しいらしい。
「伊達巻っていうのは、伊達政宗っていう昔の人の好物だったんだよ。この伊達政宗っていう人は豪華なものが好きで、今でも私たちの故郷では見栄の為に……」
その時、テーブル席に座っていたロンバウトが卒然と立ち上がった。
「それだ!」