軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

親方喧嘩(前篇)

「……美しい」

今日も満席の居酒屋ノブのカウンターで、初老の男がさっきからずっと刺身をじっと見つめている。

ただ見ると言っても普通の見方ではない。皿に盛られた刺身の方に顔をずいと近付け、覗き込むようにして見つめているのだ。

「……実に美しい切り口だ」

男はカウンターの向かいからエーファが不思議そうに見ているのにもまるで気付かぬ風に、まぐろの刺身の切り口を愛でている。

筋骨逞しい肉体を鍛冶職人の服に無理矢理押し込めたような姿のこの男の名は、ホルガー。古都の鍛冶職人ギルドのマイスターだというこの男は、店に来た時からずっとこんな調子で色々な物を褒めている。

「皿洗いの君、君にもこの切れ味の美しさが分かるかね?」

急に問い掛けられ、エーファはふるふると首を横に振った。

切り口が綺麗か綺麗でないかという以前に、エーファはこの店に来るまで生の魚を切った切り口というものを見たことがない。比べられるはずがないのだ。

「そうか、この美しさが分からないのか…… これは素晴らしいものなのに」

「そんなに綺麗なんですか?」

「綺麗という言葉で言い表せるものではない。もちろんこれを切っているタイショーの腕もいいんだろうが、何と言っても包丁だ。包丁が素晴らしい。私も鍛冶で食べ始めて随分になるが、これほど見事な切り口を作り出す包丁は見たことがないね」

横で焼き物の準備をしているタイショーをエーファが見上げると、いつもの締まった表情とは違い、頬の辺りが微かに緩んでいる。道具を褒められて満更でもないのだろう。料理の手付きもどこか楽しげに見える。

「なぁ、タイショー。もう一度だけ頼むんだが、包丁を見せてくれないか。この通りだ」

深々と頭を下げるホルガーに、タイショーはやれやれと小さく笑う。

「分かりました、ちょっとだけですよ」

柄の方を先にして刺身に使う包丁を手渡すと、ホルガーはほとんど触れてしまいそうな距離にまで顔を近づけ、食い入るように観察し始めた。

あまりの熱心さに周りの客も苦笑いしながら遠巻きに見つめている。

「鍛造だということは分かっていたんだが、これはただの打ち方ではない。こんな鋼を見たのは初めてだ……」

ぶつぶつと呟きながら矯めつ眇めつするホルガーの目は、エーファから見ても次第に妙な光を帯びてきた。このまま、包丁を持ち返ってしまいそうな予感がエーファの脳裏を過る。

慌ててエーファはカウンターを出、ホルガーの袖を引っ張り、耳元でそっとお願いをした。

「それが無くなるとタイショーさんがお刺身を造れなくなるので、持って帰らないでください」

縋るエーファの表情からさすがにまずいと思ったのか、ホルガーはタイショーに包丁を返す。やり過ぎだという自覚はあるのか、少し照れくさそうでもある。

「ありがとうお嬢さん、心配しなくても持って帰ったりしないからね。これだけの包丁だ。料理人にとっては魂みたいなもんだろう」

そう言ってエーファの赤毛をくしゃくしゃと撫でる。大きくて力強い手だが、不思議と嫌な感じはしない。

「いや、タイショー。実に良いものを見せて貰った。ありがとう」

「お役に立てたのなら光栄です」

「役に立ったなんてもんじゃないさ。明日から色々と試してみたいことが山のようにできた。感謝するよ」

ホルガーは満足げに頷くとまぐろの刺身を指で摘まみ、わさび醤油につけて口に放り込んだ。

箸になれない客が刺身を食べる時はフォークを使うことが多いが、こうやって食べる客も中にはいる。

二、三度咀嚼してから呑み込むときゅっと目を閉じ、そのままビールで流し込んだ。

「美味い。このサシミというのは実に美味いな」

「ありがとうございます」

タイショーが頭を下げた。

極上のまぐろの赤身を肴に、ホルガーはサケを切子という特別なグラスで飲んでいる。綺麗な模様の入ったグラスで、これだけはまだエーファには洗わせて貰えない。

古都の居酒屋でも最近はノブの味を真似しようとする店が出てきている。なかなか再現できるものでもないとエーファは思うのだが、懲りない連中は多い。

皿を洗っていると、偵察に来ている余所の店の店員らしき奴を見つけることもある。そういう時にエーファはタイショーかシノブにそっと耳打ちをするのだが、二人は苦笑を浮かべるだけで取り合おうとしない。

そんな状況でも、他店が絶対に真似のできない料理が刺身だ。

古都は川や運河が多いが、そこに棲む魚はどれだけ丁寧に水抜きをしても泥臭い。煮ても焼いても臭い魚が生で食べられるわけがないので、刺身の美味さの虜になった客は、ノブに通わざるを得なくなるのである。

「徴税請負人のゲーアノートという男がいてね。まぁそんな仕事を好き好んでしているくらいだから嫌な奴なんだが、舌だけは大した物なんだ」

ホルガーは市の参事会に鍛冶ギルドの代表として席を持っている。

同じく参事会の一員であるゲーアノートとは話をする機会が度々あり、その話の中で名前の出てきたこの店に興味を持ったのだという。

「あの舌の肥えたゲーアノートが絶賛するんだから、一度くらいは行ってみようという話になってね。タイショー、彼のことは覚えているかい?」

「いや、そういう方に料理を出した記憶はないですね」

エーファが皿を洗いながらそっと見ると、何故かシノブがお盆で顔を隠して店の隅に避難している。何かあったのだろうか。

「何にしてもだ。私はここの料理が大変気に入った。タイショーも給仕のシノブちゃんも、皿洗いのエーファちゃんも、大変気に入った。ついでに付け加えるなら、使っている包丁も大変大変気に入った。これからも贔屓にさせて貰うよ」

ありがとうございますとタイショーが応じたその時、新しい客が暖簾を潜って店に入って来た。

「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」

いつも通りの二人の挨拶に、客は機嫌よく手を挙げて応える。ホルガーよりもさらに身体の大きな男だ。こちらも職人風の服に窮屈そうに身体を押し込んでいる。

「すまんが一人、入れるかね」

「カウンターでしたら空いております」

シノブに案内されながらも、新しく来た職人風の客は大層機嫌がいい。

「アンタが噂のシノブちゃんだな。いや、息子から話は聞いているんだ。俺の息子は衛兵をやっているんだが、この店の常連らしくてな……」

そう言ってホルガーの隣に席を下した瞬間、カウンターに突如不穏な空気が立ちこめたのをエーファは感じた。

「……<へたっぴガラス職人>のローレンツじゃないか」

「……<泣き虫>ホルガーが何でこんな所で酒飲んでやがるんだ?」

さっきまでの和やかな雰囲気はどこへやら、カウンターは今にも戦いが始まりそうな雰囲気に包まれている。

それも騎士の馬上試合のようなお行儀の良いものではない。物語の怪物、トロルとトロルのぶつかり合いのような肉弾戦だ。

シノブから「これは高い」と教えられている皿を避難させながら、エーファは今日の営業が無事に終わることを天に祈った。