作品タイトル不明
おもいでの味(終)
皆で飲み明かした翌朝、しのぶは鼻をくすぐる香りに目を醒ました。
カウンターで突っ伏したまま寝ていたらしい。周りの皆も、似たような有様だった。
それにしても、良い香りだ。空腹が刺激される。
嗅ぎ慣れてはいるが、居酒屋のぶでは今まで出したことのない料理の匂いだ。
「あ、起こしちゃった?」
鍋の前に立つ信之は昨日の酒精を一切感じさせない。
しのぶも酒には強い方だが、信之が酔いつぶれる所を見たことがなかった。
「いや、そろそろ起きないと。一度部屋に帰ってシャワーも浴びて来たいし」
「そっか。朝ご飯に食べていく?」
鍋から玉杓子を掲げて見せられると、しのぶの腹がくぅと鳴る。
「……うん、食べて行こうかな」
「遠慮せずにどうぞ。しかし、依田さんの注文がカレーとはね」
連合王国のナ・ガルマンに帰れば、恐らく依田が古都へやって来ることはもうないだろう。
来ることができたとしても、そうそう頻繁に行き来はできない。
近い距離ではないし、路銀も莫迦にはならないからだ。
依田と娘夫婦の家計のほとんどは大豆畑からのもので、醤油工場の方は片商売だという。
本当はもっと生産量を増やせるのだが、売り捌くあてが見つからないという事だった。
ナ・ガルマン独自の調味料として知る人ぞ知る味にはなっているようなのだが、そこから拡がっていないらしい。
売り込みをする人員がいないのだ。今のままではこれ以上の拡大も望み薄だという。
ビッセリンク商会を通じて醤油を仕入れたいと話すと、二つ返事で了承と帰って来た。
だから、餞別になにか特別なご馳走を作ろうと信之が提案したのだが、返ってきた答えは意外なことにカレーだった。
「確かにこちらの世界の材料では作れない料理ではあるんだけどね」
「ちょっと予想外だったなぁ」
依田たっての希望とあれば、作らない訳にはいかない。
確かに、こちらの世界でカレーを作る難易度は高かった。カレーに使う香辛料がほとんど手に入らないのだ。仮に入手できる伝手があっても、価格が高い。
居酒屋のぶでも胡椒をふんだんに使った料理を出すだけで驚かれるほどだった。
どうしても食べたくなって依田も、カレーを自作しようとしたことがあるそうだ。
舶来品の香辛料と色々の代用品。
試行錯誤と妥協の末に完成したそれは、カレーとは程遠いごった煮だったらしい。
より悲しかったのは、家族がそれを美味い美味いと喜んだことだという。
くつくつと鍋から音が立つ。
信之のつくるカレーは、到って普通だ。
男性特有の凝り性で一時期はスパイスを色々と集めたこともあったとしのぶは聞いていたが、いつの間にか止めてしまったらしい。
家庭用のルーを使ったカレー、というのは依田からの要望でもある。
しのぶには不思議な依頼に聞こえたが、信之には腑に落ちる話だったようだ。
「依田さんに食べさせたいのは美味いカレーじゃなくて、思い出の味だからね」
それでも美味しく作るけれど、と笑いながら昨日の晩、酒盛りの途中に信之は裏口からカレーの材料を仕入れに行ったのだ。
入れる肉はビーフでもポークでもなく、チキン。
エーファが食べる分も考えて、鍋は二つ。辛口と、甘口だ。
「はじめて食べるんだから、ハンスやリオンティーヌも甘口がいいかもね」
「そういうしのぶちゃんはもう甘口じゃなくていいの?」
料亭ゆきつなにいた頃、しのぶは頑なに甘口のカレーしか食べなかった。
辛口が食べられないわけではなかったが、甘口の方が好きだったのだ。今でも信之にこのことをからかわれるのが、子ども扱いされているようでしのぶは少し不満だ。
「私はもう克服したから大丈夫なの!」
信之の意地悪な言葉にしのぶが頬を膨らませていると、背後でリオンティーヌがのっそりと起き上がってきた。
「おはよう、お二人さん。朝から仲がいいねぇ」
「おはようございます、リオンティーヌさん。昨日はちょっと飲みすぎました?」
「私としたことが、ちょっとね。このジュウヨンダイってのはなかなか罪作りなサケだよ」
そう言って空になった一升瓶を二本、撫で擦る。
いつの間にかハンスも依田義親子も起き出してきたので、そのまま朝食ということになった。
「これはまた、凄い料理ですね……」
ご飯の上にどろりとかかった茶色いルーに、ハンスが息を呑む。
見慣れていなければ確かに異様な食べ物としか思えないだろう。リオンティーヌやコルムも同様に目が泳いでいる。
嬉しそうにしているのは、依田一人だ。
「あちらへ行った時に食べて来ようかとも思ったんですが、家庭で作るようなカレーと店で出すものは少し味が違いますからね」
言われてみればそうかもしれない。
しのぶはあまり店でカレーを食べることはないが、カレー好きの女友達に言わせれば店のカレーと言うのは随分と奥深いものだという。
「さてと」と依田は自分の荷物の中から、醤油の瓶を取り出した。
「矢澤さん。またしても、すみません」
そう言って、皆の目の前で依田は自分のカレーに醤油をかける。しのぶからするとちょっとびっくりするような量だ。
「よ、依田、さん?」
さすがの信之も戸惑いの声をあげる。
「これが、私の思い出の味なんです」
醤油のかかったカレーを、依田は美味そうに頬張った。
その表情はどこまでも幸せそうで、福々しい。
昔のカレーは今ほど味がよくなかったので、醤油やソースを掛けて食べる人がいたと言うことはしのぶも聞いたことがあったが、実際にそうやって食べる人を見たのは初めてだ。
美味い美味いと食べる依田に気圧されていたハンスとリオンティーヌ、コルムも、勇を奮って一口目を口に運ぶ。
「おぉ」
「へぇ」
「……うぅむ」
三者三様の表情を浮かべるが、感想は述べずに二匙目を掬うところを見ると、口に遭わなかったわけではないようだ。ちなみに三人分は甘口の鍋から盛っている。
特にコルムの食べっぷりは見ていて気持ちがいい。
しのぶも一口食べると、口に懐かしい味が広がった。信之がゆきつな時代に賄いで作ってくれたカレーと、同じ味だ。
「うちの母親はあんまり料理が得意な方じゃありませんでした」
一口一口大切そうに食べながら、依田が昔語りを始める。
「野菜の切り方は雑で、玉ねぎも炒め方が足りない。鳥に火が入ってないこともあったんです。それでも親爺は文句一つ言わずに、醤油をかけて食べていました。だから私もそれを真似て、カレーには醤油をかけるようになったんです」
だから思い出の味、というわけかとしのぶは納得した。
卵かけご飯と、醤油掛けカレー。
依田の食べたかったものはどちらも素朴だが、異世界では決して食べられないものだ。
空腹もそうだが、食べたくても食べられないというのは最高の調味料になる。
「美味い。本当に、本当に美味いなぁ」
大盛りのカレーを綺麗に平らげていく依田の食べっぷりに、信之も誇らしげだ。
「矢澤さん、本当にありがとうございます。これで何も思い残すことなく、ナ・ガルマンへ帰ることができます。ただ……」
「ただ?」
何か拙いことでもあったのかと、信之の表情が曇る。
だが、依田は満面の笑みで頭を下げた。その瞳には微かに涙が滲んでいる。
「矢澤さんのカレー、醤油をかけるには少し美味し過ぎますね」
古都に来た時よりも大荷物を抱えて、依田とコルムはその日の内に連合王国へ帰っていった。
増えた荷物は大豆や農書、調味料と妻子へのお土産だと言う。
「帰るのが遅くなった理由が、奥さんと娘さんへのプレゼントを選ぶのに悩んだからっていうのがなんだか依田さんらしいね」
「年頃の娘さんに何をあげたらいいかなんて、見当もつかないからなぁ」
「心が籠もっていたら何でも嬉しいもんだと思うよ」
時々振り返りながら小さくなっていく二人の背中を、しのぶと信之はいつまでもいつまでも見つめていた。