軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

醤油一瓶(後篇)

「奥さんが、ですか?」

「ええ、お恥ずかしい話ですが」

熱く淹れた玄米茶の温度を確かめるように湯飲みを両の掌で包む依田の表情は、暗くない。

「私がいつか日本へ帰ってしまうと思ったんでしょうね。そんなつもりなんてさっぱり無くなっていたというのに」

「そういうものですか」

信之には、分かるような気も、分からないような気もする話だった。

あまり色恋に精通している方ではない信之には、まるでドラマか映画のような話に聞こえる。

そういう恋の形も、あるものなのだろう。

「ええ、あちらへ帰るつもりなんて、もうなくなりかけていたのに」

茶を啜る依田の“あちら”という言葉が、信之の胸に迫る。

十数年をこちらで暮らすと、日本は“あちら”になるのか。それが無意識に出た言葉のように聞こえるからこそ、重く感じられた。

依田がテーブルの上の醤油の小瓶を弄ぶ。

「生前の父が醤油を作っていた工場の裏口がこちらの世界に通じていると分かった時にはもう、家族は誰もいませんでしたからね。最初からあまり向こうへの執着はなかったんです」

最後の一口を食べ終え依田がご馳走様でしたと手を合わせた。信之もお粗末様でしたと応じる。

「はじめはとても楽しかったですよ。森で怪我をしていた妻を助けて、義父から小さな畑を譲って貰いましてね。小麦は育たないというので、ホームセンターで大豆を仕入れて来て播いてみたり、こちらの世界で醤油作りに挑戦してみたり。小さな事件も大きな事件もありました」

「それで、奥さんと」

「ええ。漫画か何かみたいな話でした。幸せでしたよ。幸せすぎたのかな。だから妻は、出口に火を放ったんです」

お腹に子供がいると分かった夜のことだった、と依田は言った。

いつも通りに二人で夕食を食べた後、不意に家から妻の姿が見えなくなったのだという。

どこへ行ったのかと探し回ると、森の中で工場の裏口が燃えていた。

「火を消すよりもまず、妻を助け出しました。あの時、火を消す方を優先していたら間に合っていたのかもしれません。そんなことはまるで考え付きませんでしたがね」

妻は助かり、日本へは帰れなくなった。

色々と試してみたものの、帰り方が分からない。覚悟はしているつもりだったが、それでも酒に浸る日々が続いた。

立ち直ったのは娘が生まれてからだという依田の言葉を聞いて、信之は腕を組んだ。

こちらへ残る覚悟はしているつもりだったが、本当にそうなのだろうか。

経験者の言葉は、重い。

「それで矢澤さん、こんな話をしておいてなんですが……」

「裏口を通りたい、ということですよね」

ええ、そうなんですと依田は恐縮したような身を縮ませた。

「未練という訳ではないんですけど、一つだけやっておきたいことがありまして」

持ってきた荷物を引き寄せると、依田はその中から昨日の醤油を取り出す。

「墓参りなんです。娘が生まれて、婿を取ったことは報告しない訳にはいきませんからね。それと、この醤油です。十数年かけて、やっと満足の行く醤油ができるようになったんです。これを両親の墓へ供えてやりたくて」

連合王国のナ・ガルマンの旅籠で居酒屋のぶの話を親切な旅人から聞いてすぐに、醤油を持って行かねばならないと思ったのだという。

ああ、と、言葉とも溜息ともつかないものが信之の口から漏れた。

それは確かに報告しなければならない。依田の気持ちは、手に取るように分かった。

食器を流しへ運び、依田を裏口へと案内する。

ただ歩くだけで、依田が緊張していることが分かった。

信之にとっては当たり前の裏口だが、依田にとっては十数年ぶりの日本ということになる。

「変なことを聞きますけど、奥さんは今回のことを……?」

「知っていますよ。きちんと話しました。私が日本へ行くことには大賛成で。あの日のことを今でも負い目に思っていたようで、却ってこっちが申し訳なくなるくらいでしたよ」

「そうでしたか。奥さんはご一緒には?」

依田は小さく首を振った。

「ここの裏口はどうか知りませんが、妻は私の使っていた“道”を通り抜けることはできなかったんですよ。ナ・ガルマンとアイテーリアは結構な距離ですからね。折角連れてきて、故郷をみせられないというのも生殺しのようですし」

それもそうだ、と信之は頷く。

一緒に行くことが必ずしも幸せだとは限らないということもあった。

「あ、そういえば依田さん、お金は大丈夫ですか?」

実は昨日の晩、信之は路銀を封筒に用意しておいた。墓参りに行くとは知らなかったので、ほんの小遣い程度の金額だ。

「お金はね、ちょっと持っているんですよ」

依田が懐から取り出した札入れには、結構な枚数の紙幣が入っていた。これなら日本全国どこへでもいけそうだ。

懐かしの新渡戸稲造や夏目漱石の姿もある。

「虫の報せという訳ではないんですが、妻がああいうことをする前に、預金を幾らか下ろしてこちらに持ってきておいたんです」

そういうこともあるものなのだろう。

裏口のドアノブにそっと手をかけ、開けた。

初夏とは思えない早朝の冷涼な空気が吹き込んでくる。

依田は何も言わず、路地裏の風景を眺め、そっと目元を拭った。

先に信之が表に出て、依田の方を見返り、声を掛ける。

「おかえりなさい」

その挨拶に、依田の口元が緩んだ。

「ただいま……ただ今、戻りました」

小さな一歩だったが、大きな一歩だった。

青みがかった空気が照らされて白く明るくなっていく中を、依田の後姿が遠ざかって行く。

その足取りは、しっかりとしている。

「依田さん、行っちゃったね」

いつの間にかしのぶの自転車が横に止まっていた。

「見送りに来たの? 待っておけばよかったな」

「あ、いや、違うよ。ほら、今日の日替わりとか書いて貼り出さないといけないしね」

下手な言い訳をするしのぶと一緒に、店の中へ入る。

墓参りを終えて戻ってきた依田に、何を食べて貰おうか。

今の信之の頭の中は、そのことでいっぱいだった。

同じ世界にあるとはいえ、古都とナ・ガルマンの距離はかなり遠い。連合王国から船便で帝国の西部に上陸し、そこからは歩いての旅になる。距離もあるし、路銀も馬鹿にはならない。

海から直接古都へ乗り付ける航路があれば良いのだが、それはできないということだった。

何度も行き来できないとなれば、依田の好物を作って食べさせたいと思うのだ人情だ。

色々と考えるが、上手く纏まらない。やはり本人に直接聞いてみるべきだろう。

「ところで大将、依田さんって帰って来るよね?」

「それはそうだろう。奥さんや娘さん夫婦が待っているんだし」

家族思いの良い人だ。必ず、帰ってくる。

だがその晩も、次の日になっても、その次の日も、裏口が敲かれることはなかった。