軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

遠い海から来た男(後篇)

「はい、ここが居酒屋のぶです。いらっしゃいませ」

他の客は帰ってしまったが、まだ店は営業できる。

わざわだ居酒屋ノブを名指しで訪ねて来てくれている客を追い返すようなことはできない。

導かれるように恐る恐る店へ足を踏み入れた客は、ほぅと溜息を吐く。

店内をぐるりと見渡す瞳には言い知れない感情が籠っているように見えた。

カウンター席をシノブが勧めると、男は背の大荷物を脇へ置いてゆっくりと腰を下ろす。

「ご注文は?」

オシボリを渡しながらシノブが尋ねると、男は一瞬だけ躊躇い、それからはっきりとした声で

「取りあえず、生を」と注文した。

オトーシを盛り付けながらハンスがおやと思ったのは、男の発音だ。

トリアエズナマに、訛りがある。いや、訛りというべきではないかもしれない。

それは、シノブとタイショーがトリアエズナマの注文を受ける時の発音と、妙に似ているのだ。

不思議な客だった。

少し白い物の混じった黒い髪に、黒い瞳。この辺りの出身ではないのだろう。

壁に貼り出された品書きを見ながら、何やらもじもじとしている。

何かを言い出そうとして、言い出せない。そういう雰囲気もあった。

「お待たせいたしました。生と、お通しの枝豆です」

トリアエズナマがやってくると、男はハシを手に取り、両の掌を合わせる。

「いただきます」

その言葉を聞いて、タイショーとシノブが顔を見合わせ、小首を傾げた。

「ああ、これが“取りあえず、生”ですか」

男はジョッキを手に取ると、ごっごっごっと豪快に喉を鳴らす。実に美味そうな飲みっぷりだ。

一気に半分も飲み干して、ぷはぁと美味そうな声を上げる。口元を拭う動作も実に満足げだ。

「こんなに美味いビールは久しぶりに飲んだよ」

ビール。

その言葉にハンスは聞き覚えがある。タイショーやシノブが時々、トリアエズナマをエールでもラガーでもなくビールと呼ぶのだ。ということは、この男は。

「お客さんは、もしかして?」

尋ねたのは、シノブではなくタイショーだった。

ぷちりぷちりと枝豆を口に運んでいた男は、ほんの少しだけ戸惑ったような表情を浮かべ、満面の笑みを浮かべて頷く。

「ええ、私も日本からなんですよ。こっちには随分になりますが」

タイショーとシノブの表情は、何とも言えないものだった。まさか同郷の人間と古都で出会うとは思っていなかったのだろう。

「え、あ、えっと、よ、ようこそ居酒屋のぶへ。私は千家しのぶです。こっちは店の大将の矢澤信之です。よろしくお願いします」

シノブも珍しく慌てているらしい。それにしても、タイショーの名前はのぶ・タイショーではなかったのだということをハンスはこの一年半ほどではじめて知った。

二人の挨拶を受け、これはこれはご丁寧にと男が座ったまま会釈を返す。

「よろしくお願いします。私は依田康三郎。連合王国で醤油職人をやっています」

今度はハンスが驚く番だった。

連合王国のナ・ガルマンに住むというショーユ職人。夢にまで見た人物が向こうから古都へやって来てくれたのだ。こんなに嬉しいことはない。

「醤油職人、ですか」

身を乗り出して尋ねるタイショーに、ヨダが微笑む。

「ええ、そうなんです。その辺りは語れば長くなるんですが……その前に、料理の注文を良いですかね? 何せここに来るのが楽しみだったので昼を抜いてしまって。腹が空っぽなんですよ」

「あ、それはすみません。何を作りましょう。材料があれば、何でも作ります」

「何でも、と来ましたか。それは心強いですね。何を頼もうかな」

まるで子供のような笑みを浮かべ、ヨダがぐるりと品書きをもう一巡眺めまわした。

「実は連合王国を出てここに来るまでの間、ずっと何を頼もうか考えていたんですよ。何せ私も随分長い期間こちらへいるものですから、色々と食べたいものはあります。その中でどれを最初に頼むかというのは、なかなか贅沢な悩みでしてね」

「贅沢、ですか?」

「ええ、しのぶさん。考えても見てくださいよ。貴女がアフリカの奥地へでも海外旅行へ出て、日本食と隔絶した生活を十数年も送る。その後で最初に食べるものというのは、一生へ一度の物でしょう? 悩みもしますよ」

「ああ、そうかもしれませんね」

同意するシノブを見て、ハンスは古都へ帰って来たばかりの頃のローレンツを思い出す。

長く旅を続けてきたローレンツは、本当に些細な物にも感動して、フーゴとハンスの兄弟に思い出話を聞かせた物だった。

「しかし悩むなぁ。本当は候補を船の中で幾つかに絞っていたんですよ。でもこの店の引き戸を潜ると、お恥ずかしながら全部消えてしまって……」

ヨダは話すことが嬉しくて堪らないという風に、饒舌に語り続ける。それを聞き相槌を打つタイショーとシノブも嬉しそうだ。

同郷の人間にしか通じ合えないこともあるのだろう。

リオンティーヌは、三人の様子を微笑ましげに見つめている。

エーファも会話に耳を傾けながら、何か思うところがあったのか、カミダナに備えられている水を新しい物へと取り換えていた。

ヨダの注文はまだ決まらないらしいが、言葉は止めどなく溢れてくる。

十数年分の想いだろうから、無理もない。

「こっちに暮らしていると本当に些細な物が手に入らないんですよね。今はもう慣れましたけど、こっちから帰れなくなったばかりの頃は夜中に中華そばが食べたくて眠れない夜もありました。自作をしようにも何をどうすればいいのかなんて一般人の私にはさっぱり分かりませんでしたから、結局は泣き寝入りをするよりほかないんですけどね。十数年も経つとさすがにそんなこともなくなりましたけど」

しかし、十数年。

それだけの間、異郷の地でショーユを作り続けていたのだ。

ヨダの強靭な精神力に、ハンスは内心で感服していた。

幸せな修業の日々を送っている自分が、なんだか恥ずかしいような気がしてきたのだ。

もっと頑張ろう。努力しよう。タイショーの技の全てを身に付けて、恩返しをしよう。

そんなことを考えていると、ヨダが何かに思い当たったように黙り込んだ。

それから、なんとも言い難い、不思議な表情で口を開いた。

「注文したいものが、決まりました」

ヨダの言葉は、重々しい。

「先に、矢澤さんに謝っておきます。本当にすみません」

「いや、何でしょうか。謝られることは何も……」

「この居酒屋、いや、メニューからして多分小料理屋さんともなれば、料理人さんの腕に自信があると思うんです」

「え、ええ、まぁ」

「そんなお店でこんなことをお願いするのは、大変に申し訳ないと思うのですが、私のわがままと思って聞いて頂きたい」

「は、はい。何でしょうか」

店の中が静まり返る。

水道の蛇口から、ぽたりと一滴、しずくが滴り落ちた。

ごくり、と喉が動き、ヨダが、注文する。

「卵かけごはんが、食べたいんです」

「卵かけ、ごはんですか」

拍子抜けしたようにタイショーが答える。

確かに卵かけごはんなら、料理人の腕は必要ない。しかしどうして卵かけごはんなのか。

そこまで考えて、ハンスは理解した。

「生卵が、食べられないんですよ。こっちでは」

ヨダが悲しそうにそう呟く。

言われてみればそうだった。忙しくて時間がない時にハンスも時々タマゴカケゴハンを食べるが、ノブ以外では絶対に生卵を食べることはない。

卵を生では決して食べてはならないということは、この辺りでは子供の頃からきつく教え込まれる常識だった。

それでも、美味い。

最初はハンスも気持ちの悪い物だと思っていた。

いくら美味い物だと聞かされても、長年刷り込まれた感覚というのはなかなか覆せるものではない。色々な場所に旅をして、ゲテモノ食いに理解のあるハンスでさえ、こうなのだ。普通の人ではなかなか難しいだろう。

シノブが美味そうに食べているのを見たり、エーファが半熟卵のふわとろオムソバを食べているのを見たりする内に、次第に嫌悪感が無くなって来た。

今では生卵を食べることに抵抗は全くない。むしろ、好物と言っても良い。

だからこそ、ヨダの注文についてはよく分かる。

他では生で食べられる卵なんて絶対に手に入らない。米も難しいだろう。

タマゴカケゴハンが、食べたい。

ヨダのその言葉は、タイショーの胸に響いたらしい。

「……分かりました」

大ぶりの茶碗に、米をよそう。

卵を入れた器と、殻入れの器。用意するのはそれだけだ。

カウンターに並べられたそれを見てヨダは幸せそうに頷くと、脇に置いていた大きな荷物の中から色の付いた瓶を取り出した。

「それは?」

「矢澤さん、醤油だけは自分で用意したんですよ」

にんまりと笑ってヨダが蓋を開けると、瓶からは確かにショーユの匂いが漂う。

卵を割り、瓶の口を親指で押さえながらヨダは器用にショーユを数滴だけ垂らした。

ハシを握り、掻き回す。

チャカチャカチャカ……

よくよく混ざった卵を米に掛け回し、少しだけ混ぜると、ヨダは茶碗を手に取った。

パクリ。

パクリ、パクリ。

無言で三口食べ、目を閉じる。

眦から一筋、涙が滴った。

「これだよ、これなんだよな……」

掻き込むようにして食べながら、ヨダが嗚咽する。

美味い、美味いと繰り返しながら泣くヨダを見て、シノブもエーファも目頭を押さえた。

リオンティーヌはとうの昔に陥落して、店の隅でハンカチを濡らしている。

食べ終えたヨダがシノブの淹れた茶を啜り、一息吐いた。

「ありがとうございます。本当に美味しい卵かけごはんでした」

「いえ、何もできませんで」

頭を掻くタイショーに、ヨダも笑う。

「それで、〆から頼んで順番もおかしくなってしまったんですが、注文してもいいですかね?」

「はい、大丈夫ですよ」

それでは、とヨダが指を折りはじめた。

「刺身と天ぷら、土手煮とちくわの磯部揚げ、それと鯖のへしこがあればお願いします。焼きそばと肉豆腐とポテトサラダに今の時期ホッケの開きってできますか? 後はシシャモと豚肉の生姜焼きなんかもあると嬉しいですね。それと……」

「ちょ、ちょっと待って下さい。依田さん、それまさか全部食べるんですか?」

「ああ、いや、食べたいものが全部一遍に頭の中に出てきてしまって……」

気持ちは分かるが、それは無理だろうと皆で笑いあう。

「どうですか、依田さん。今日はここの二階で泊まって頂くというのは?」

「いいんですか?」

タイショーの提案に、ヨダは一も二もなく飛びついた。

「ええ、狭い男所帯ですか」

「ありがとうございます。助かります」

「それでゆっくり、食べたいものを食べて頂くということで」

ああ、それはありがたいというヨダの表情は、とても満たされていた。

取りあえず今晩はこれだけ、ということでサシミとテンプラ、それにニギリズシが振る舞われ、お開きとなった。

久方ぶりに故郷の味を堪能するヨダの表情は、料理人冥利に尽きる。

細やかな宴も促されて二階へ上がるヨダの背中を見ながら、ハンスは十数年という月日の長さに想いを馳せていた。

うとうとしはじめたエーファを送る為に店の外へ出ると、滅多に見たことのないほどの星々が満天を埋めている。まるでヨダのことを祝福しているような星穹だった。