軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【閑話】

新街道沿いの<大きな足>亭と言えばこの辺りで知らぬ者はない。

酒場と旅籠を兼ねた小さな店だ。

街道と村とを繋ぐ道の途中にある店は今晩も客でごった返していた。

飯も酒も大して美味いわけではなかったが一つだけ名物がある。この店の裏手から小路を行くと青樺の林があり、そこに温泉が湧いているのだ。

温かい湯の湧いているところを手頃な大きさの石を並べて囲っただけの簡素な浴場だが、泉質が良い。身体と心の疲れが、驚くほど取れるのだ。

温泉で疲れを癒した後に、一杯呷る。

小さな村に一軒だけの酒場だから、大繁盛とはいかなくても客足が途切れることはない。

わざわざ遠方から訪ねてくる者さえいる。その中には当然、素性の知れない者もいた。

「……いったい、何日いるつもりだろうねぇ」

旅籠の女将が木のジョッキを両手に四つずつ持って運びながら肩を竦める。

女将の視線の先には窓際のテーブル席に座る男の姿があった。

この近くで見かけたことはない。

異国風の装いから、恐らくは帝国の出だろうと女将は踏んでいた。金払いは悪くないが、ここにもう二十日以上も長逗留しているとなると、少し気にもなる。

女将は<大きな足>亭を愛しているし自信も持っているが、それほど格式のある宿でないこという身の程も知っていた。

金を持った客は、長く泊まるならもう少し立派な宿を選ぶ。若しくは、二階で女に商売をさせているような宿だ。

<大きな足>亭はあくまでも旅籠で、そう何日も薪代を払うような場所ではない。

それでもここに居続けをするということは、何か事情がある。

「金ぇ払ってる内は客だ。詮索することもねぇ」

女将の入り婿である店主が煮豆の味を見ながら低く呟いた。

余計な詮索をするようになったら旅籠は終わりだというのが口癖の男だ。この点ではいつも女将と喧嘩になる。

旅籠が客の素性など知る必要はないという考え方は、この辺りでは一般的だ。何と言っても、流れ者の多い土地柄だった。そのまま居ついてしまう者も少なくない。

「俺が聞いてこようか」

カウンターの隅で酸っぱいエールを啜っていた男が顔を上げた。

歳は五十絡み。この辺りでは珍しい濃い色の髪と、揃いの目の色をした男だ。名をヨダという。

元は流れ者だったが、この土地に根を張ってもう随分になるはずだ。

「そうかい、すまないね。ヨダさん」

店が直接聞けないのなら、間に人を挟めばいい。女将はそういう考えの持ち主だ。

自分の分ともう一つジョッキを持って、ヨダは例の男の席へ向かった。

「ここ、いいかい?」

「……好きにすればいい」

男はこの辺りの言葉で返事をしたが、帝国風の訛りがある。

差し向かいで座ると、男はヨダより随分と背が低かった。ジョッキを押し出す。中身はエールではなく、蜂蜜酒だ。

<大きな足>亭ではエールとこれの二種類しか酒がない。上等なのは蜂蜜酒の方だ。

無造作にジョッキを受け取ると、男はすぐに口を付けた。既にもう随分と酔っている。

「オレはヨダ。この近くに住んでいる。お前さんは?」

「……ダミアン。海の向こうから来た」

訛りはやはり、帝国のようだ。

しかしそうなると益々わからない。

東王国人ならともかく、帝国の人間がこの地までやって来ることは珍しい。

ナ・ガルマンは落ち着いた良い村だ。とは言え、温泉以外には何もない。海を渡って遥々やってくるような理由は思いつかなかった。

見たところ遍歴商人でもないようだし、どういう素性の人間かは見ただけでは判然としない。

「こんな田舎まで来るところを見ると、湯治かい?」

「ま、そんなところだな」

「帝国には湯治場はないのか?」

「あるということと使えるということは、また別の問題だろう」

窓の外から小雨の降る音が聞こえ始めた。

なるほど、このダミアンという男は罪人か何からしい。帝国にいられなくなって、海を渡ったのだろう。それなら長逗留の合点もいく。

行く宛てのない旅だ。少しでも居心地のいい場所があれば、留まりもするだろう。

気付けばダミアンのジョッキは空になっていた。

女将に手を挙げ、酒を頼む。運ばれてきたのは蜂蜜酒ではなく、エールだった。

ダミアンは何も言わず、ジョッキに口を付ける。

「……不味いエールだな」

「この村ではこれしか手に入らない。飲めるだけ有難いというものさ。最近はラガーというものも出回り始めているらしいから、いつか飲んでみたいがね」

ヨダのラガーという言葉に、ダミアンの表情が少し動いた。

「ダミアンさん、お前さんは飲んだことがあるのかい?」

「……ある」

吐き捨てるように言って、ダミアンはジョッキを干した。

次は何も合図をしなくとも、女将がエールを持ってくる。

「ラガーこそ、オレが今ここにいる原因だ。正確にはシュニッツェルかもしれないが。まぁ、些細な問題だ」

酔眼のまま呟くようにダミアンは語り始めた。それは、不思議な物語だった。

帝国北部の古都に、不思議な居酒屋がある。

その店にまつわる話だ。

ダミアンはその店に恥をかかされ、何度も何度も復讐しようとするという筋立てだった。

小さな村には娯楽が少ない。突然始まった物語に、客たちは喜んで耳を欹てている。どうせ外は雨なのだ。焦って帰る必要はない。

「シュニッツェルを パン(ブロート) に挟む。そんな小細工でオレの主はあの忌々しい店に心を掴まれてしまった。許し難いことだ。確かにカードで遊ぶ時には都合のいい食べ方かもしれないが、金貨をくれてやるほどの工夫ではないとオレは思うのだ」

「なるほどな。そいつは災難だった」

酔っているからか、同じ話が何度も出た。時折ヨダが横から手助けをしてやらないと、パンにはさんだシュニッツェルの話と、ラガーの密輸の話、そして大司教と魔女騒動の顛末を行ったり来たりすることになる。

どれも眉唾の話だが、荒唐無稽さが却って興味深い。

満座の村人たちも、話を聞く限りではダミアンの方が悪いようだということは察しているが、それでも面白いからと聞き続けていた。こういう話は滅多に聞けるものではない。

しかし、聞けば聞くほど妙な話だった。

豊富な食材と奇抜な料理。そして出所の分からないラガー。

まるで、どこか別の世界にでも繋がっているかのような不可思議な話だ。

さすがに十三度も同じ話が繰り返されるに到って、村人たちはダミアンの話に飽いてきた。

恰幅の良い遍歴商人が二階の部屋へ戻ったのを潮に、村人たちも小止みになった夜の闇へと解けるようにして帰っていく。

ただヨダだけは、少し引っ掛かることもあるのでそのまま向かいの席でエールを啜っていた。

あちらからこちらへ、こちらからそちらへ。

縦横無尽に順番を無視して語られる話も、幾度か聞いていると繋がりが分かってくる。

「それで、その“トリアエズナマ”というラガーの出所が怪しい、とオレは睨んだわけだ」

何度目かの同じ話の中で初めてラガーの名前が出た瞬間、ヨダは雷に打たれたようになった。

ダミアンの肩を掴み、揺さぶる。

「おいダミアン、お前さん今、“取りあえず生”と言ったか!」

「ああ、言ったよ。“トリアエズナマ”。それがあの店がどこからか密輸して出していたラガーの名前だ。全く度し難いことだ」

わなわなとヨダの手が震える。

まさか本当にそんなことがあるのだろうか。いや、あるとしか思えない。

「ダミアン、その店はどこにある」

「……聞いてどうする?」

とろりと眠たげな眼で尋ねるダミアンに、ヨダは銀貨を握らせた。

「行く。行って、確かめねばならないことがある」

「ふぅん。まぁ良いだろう。オレにはもう関わり合いのないことだ」

古都の外れ、<馬丁宿>通り。

何度も反芻するようにヨダは住所を口中に繰り返す。

「ありがとうダミアン。恩に着る!」

もう答える気力もないのか、ダミアンはテーブルに突っ伏したままひらひらと手を振った。

居ても立ってもいられない焦りに、ヨダは椅子から立ち上がる。

「ヨダさん、帰るのはいいけど、アンタ支払いがまだだよ」

「先月分の醤油代と相殺しておいてくれ!」

返事も聞かずにヨダは、<大きな足>亭から飛び出した。

まずは家族の説得。

次に、旅支度。

蓄えを切り崩せば路銀は何とかなるだろう。

もし予想が当たっているなら、持って行かねばならないものもある。

トリアエズナマ。

取りあえず、生。

そんな偶然が、この世に有っていいはずがない。

ナ・ガルマン在住のショーユ職人、ヨダ・コーザは森の中の小路を走った。不思議な力に突き動かされてでもいるかのように、足が軽い。

いつもの半分の時間で、家の灯りが見えてきた。妻と娘、それに婿はまだ起きているようだ。

古都へ、居酒屋のぶへ行かねばならない。それも、可及的速やかに。

いつしかヨダ・コーザの顔つきは、依田康三郎の物へと変わっていた。