軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

邂逅(前篇)

また、来てしまった。もう二度と訪れるつもりなどなかったというのに。

ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは何とも言えぬ心持ちで因縁浅からぬ居酒屋ノブのノレンを忌々しげに見上げた。

少し痩せた雌月も中天を過ぎ、夜の<馬丁宿>通りには酔客の姿も少ない。

本当ならもう少し客の多い時間に店を訪ねれば良さそうな物だが、踏ん切りが着かなかったのだ。

何と言っても、居酒屋ノブはジャン=フランソワにとって呪われた店だ。

この店に来るたびに恐ろしい目に遭って命からがら東王国へ逃げ帰る始末だった。

ジャン=フランソワは密偵だ。

王女摂政宮直轄の密偵組織、奇譚拾遺使に奉職している。

問題は組織の長である王女摂政宮セレスティーヌ・ド・オイリアが東王国を裏切って帝国の皇帝コンラート五世に輿入れしてしまったことだ。

困惑したのは奇譚拾遺使だけではない。東王国上層部は混乱の渦に叩き込まれた。

朝出た人事が夕方には改められ、翌朝にはまた違う内示が下される。

翻弄された密偵の一人が、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーだった。

内局か連合王国への部署転換を願い出ていたジャン=フランソワの希望は退けられ、帝国北部への残置密偵を束ねる地位に昇進することになったのだ。

残置密偵と言っても、大した人数はいない。それでも昇進したのだから、重要な情報を手に入れる必要があった。

ここで功績を上げ、東王国へ凱旋する。ジャン=フランソワの今の目標はそれだけだ。

となれば、どこへ潜入するのが一番効果的か。

悩むまでもなく、居酒屋ノブだった。

先日、帝国皇帝と王女摂政宮が見合いをしたのもこの店だという報告もある。やはりジャン=フランソワの見立ては誤っていなかったのだ。この店には、何かある。

店の中から漂い出る香りは、ジャン=フランソワの鼻腔と胃の腑を容赦なく攻め立てていた。

悔しいが、この店の料理をまた食べたいと思っている自分がいる。

意を決して、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは硝子戸を開けた。

「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」

まだ少し肌寒さを感じる古都の夜から一転、居酒屋ノブの店内は不思議な暖かみに溢れている。

ジャン=フランソワは店員の注意を引かないように最善の注意を払いながら、カウンター席の一番壁側に座を占めた。

この時間となると店内はさすがに空いており、常連らしき人々が静かに酒精を楽しんでいる。

客の一人が何やら赤い色をした麺を食べているところを見ると、料理もまだ出るのだろう。

それとなく店内を見回していると女給仕のシノブが近付いてきた。

このシノブは恐るべきことにジャン=フランソワの変装を見破ったこともあるが、今日は安心していい。奇譚拾遺使に伝わる秘伝の技術を使って念には念を入れて変装をしてきたのだ。見破られることはない。

心に余裕を持つことは大切だ。ジャン=フランソワは初めての客を装ってシノブに相対した。

「またいらして下さったんですね!」

「え、あ、いや」

「サラダと串かつのお好きなお客様ですよね。覚えております」

「あ、ああ、そうかい。ありがとう」

オシボリを受け取りながら何か軽く摘まめるものとトリアエズナマを注文する。どうして変装を見抜かれたのか、まるで見当もつかない。細心の注意を払ったというのに、このざまだ。まるで何かの崇りのようでさえある。

運ばれてきたトリアエズナマに口を付けると、心地良い苦味が喉を潤した。

味も良いが、注ぎ方にも工夫があるのかもしれない。

まだ二度しか飲んでいないが、この味はなかなか癖になる。噂では居酒屋ノブを王侯貴族も愛用しているというが、それはこのトリアエズナマのせいかもしれなかった。

肴は春の山菜のテンプラだという。

密偵という仕事は野宿をする事も多いから、山菜も見慣れている。馴染み深い連中が装いも新たに食卓へ並ぶと何だか嬉しくなった。

サクサクに揚がったテンプラを齧ると、苦味がある。

「これこれ、この味……」

その苦味を堪能しながら、トリアエズナマをぐいっと呷るとこれがもう堪らない。

山菜というのはどいつも一癖二癖あるものだが、揚げると多少はまろやかになるらしい。しかしそれがまたトリアエズナマのすっきりとした苦味と合うのだ。犯罪的な出会いだと言っても良い。

出汁から塩に切り替えながら、二杯目のトリアエズナマを頼む。

こうやってこの店で酒を飲んでいると、あれほど帰りたかったはずの東王国が少し遠くに感じられるのが何とも不思議だ。帰らなくても良いとは思わないが、ここはここで良いところだという気もしてくる。

名も知らぬ山菜を、塩で齧った。これはあまり苦くない。

長い間、連合王国で密偵をしていた。漸く東王国へ帰られるかと思えば、次は帝国だ。

悪いこともあったが、良いこともある。家名ばかりで何の恩典もない実家から離れることができたのは、却って身を軽くしてくれた。

故郷へ帰ったところで、家族はいないのだ。それならばもう少しこちらで暮らしてもいいのかもしれない。

どうせこの店で何かを調べようとしたところで、偶然にも調査対象者がやってくるなどということはないのだ。

結婚したばかりの王女摂政宮は早速帝国各地を飛び回っている筈だが、身辺警護が固すぎて今どこにいるのかさえ分からない。

調べようとして調べられることなど何もないのだ。

自分ではあまり動かず、部下たちを上手く指揮して当たり障りのない情報を東王国へ送る。

そういう暮らしは、甘美ではないが平穏ではあるだろうと思えた。最近は詩や文章を捻るという趣味もある。退屈な時間の潰し方は色々あるはずだ。

そんなことを考えながら啜るトリアエズナマもまた、美味い。

明日の朝になればまた考え方が真反対になっているだろう。それでも今はこの空想を弄ぶ自由を手にしていたかった。

静かで柔らかな時間が居酒屋の店内を支配している。

二杯目のジョッキが空になった頃、硝子戸がゆっくりと引き開けられる音がジャン=フランソワを現実に引き戻した。

「いらっしゃいませ!」

「……らっしゃい」

こんな夜更けにも来客があるというのは面白い店だ。

どんな客が来ているのか確かめてやろうと首を伸ばしかけて、ジャン=フランソワ・モーント・ド・ラ・ヴィニーは慌てて引っ込めた。

吹き込む春の夜風を背景に佇んでいたのは、元東王国王女摂政宮にして現帝国皇后セレスティーヌその人だったからだ。