軽量なろうリーダー

その後私を裏切った元婚約者の家庭は完全に崩壊したそうです

作者: 白水那由多

本文

黄金の装飾や磨きあげられた鏡。

色とりどりの服を纏った人々でひしめき合う華やかな舞踏会の会場で、男たちが一斉に視線を向けた。

若いものも、婚約者がいるものも、長年連れ添った妻がいるものも、歳をとっているものも……

彼らの視線の先には、ダイヤモンドのように輝く見事な金髪をアップにし、ミルク色の肌に薔薇色の頬が映える、美貌のラルーヴェスク伯爵夫人がいる。

何を思ったのか彼女は今の恋人にエスコートされながら、こちらの方に向かって人々を惑わすとされる無邪気な笑みを浮かべた。

私は横目でちらりと婚約者のドミニクを見た。

……彼も伯爵夫人に魅入っており、笑顔を向けられたことで、ごくりと息を飲むのを私は見逃さなかった。

「およしなさいな」

私は顔をまっすぐ前に向けたまま、彼にピシャリと言った。

「あの人があなたを相手にする訳ないでしょう。あの人はもう30を超えた大人。あなたはまだ二十歳そこそこ。相手にされるはずはないわ」

私がふん、と少し拗ねた態度を取ると、ドミニクは嫌だな、そんな事は思っていないと慌てふためいた。

でも実際に私が言っていることは本当なのだ。

社交界に出入りしてる者であれば、ラルーヴェスク伯爵夫人の話は有名なのだから。

件のラルーヴェスク伯爵夫人は現在未亡人だが、社交界で数々の浮き名を流しており、やれ何とか将軍、何とか侯爵など、有名人相手に好き放題やっている。

かたやドミニクは、宮廷内では有望視されているがまだまだ新人。

しかも外見だって特別美男子と言うわけでもない。むしろ体の線が細いため、若干頼りなくすら見える。

だから、高身長で逞しい肉体を持つ美男子好きの夫人が、ドミニクに気をかけるなんてあり得ないのだ。

と、私はその手紙を受け取るまで思っていた。

手紙を受け取ったあと、私は嘘でしょう、あり得ない! お父様! お母様! と大騒ぎをした。

なぜなら……

『すまない、セレナ。もう君のことは好きではなくなってしまった。僕はラルーヴェスク伯爵夫人と結婚することになった。だから君との婚約を解消させてもらう』

そのような内容の文面が記載されていたのだ。

当然、私の両親は烈火の如く怒りをみせた。

大事なことを面と向かってではなく、書面で送りつけてくるなど失礼にも程がある!

きちんと説明してもらわなければ話にならない!

ショックを受けて泣き崩れている私を祖母に任せて、あちらに連絡することもせず直ちに彼らは話を聞きにいった。

だがその返答は───

「セレナよ。まさか私たちも彼がそんな人間だとは思わなかった。だがそうなってしまった以上、さすがにお前との結婚を優先しろとは言えない。あとは弁護士の先生に任せて取れるものは取ろう」

父は戻って来てもなお、居間で泣いている私にそう言って、すぐに弁護士に依頼の手紙を書くようにと執事に指示を出した。

果たしてドミニクは一体何をやらかしたのか。

まあ、こんなに急いで結婚するのだから大体予想はついていたのだが。

……結論からいうと、私の予感は大当たりだった。

ラルーヴェスク伯爵夫人を妊娠させてしまったのだ。

その経緯について、もちろん両親は詳細を聞いたそうではあるが、これ以上私を傷つけたくないと細かい事は教えてくれなかった。

けれども私の予想としては、ドミニクがあのような破廉恥な夫人を誘えるほど度胸があるとはとても思えない。

きっと夫人の気まぐれで起きた、お遊びに付き合わされたのだろう。

噂だと彼女は恋人と関係が落ち着いたと思ったら、刺激が欲しくなるのか火遊びをしたがると聞く。

おまけに恋人は怒るどころか、嫉妬心が駆り立てられてますます彼女に夢中になるそうだ。

それに考えたらあの夫人は芸術家や詩人の支援をしており、自宅では音楽会や朗読会をよくやっている。

ドミニクは趣味の楽団でチェロを担当して弾いている。多分彼らはそれで近づいたのだ。

よりによって、なぜドミニクを……

やけに最近態度がそっけないと思ったら、こんな事をしてたなんて……

私は悔しさで唇を噛みながら、居間のテーブルに突っ伏してわんわん泣いていると、急に温かな手が私の背中に触れた。

それは大好きな祖母の手だった。

「おばあさま……」

私が顔を上げて祖母を見ると、彼女はいつもと変わらない優しい笑顔を見せた。

「今は泣けるだけ泣いて、涙を出し切ってしまいなさい」

その言葉に私はますます泣いた。

なぜなら、私の結婚式を一番楽しみにしてくれていたのは、他でもないこの祖母だったのだから。

いつも可愛がってくれる祖母に、私の花嫁姿を見せるのが昔からの夢、そしてまた、祖母も初孫である私の花嫁姿を見るのが夢と言っていたというのに。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

突然祖母の夢を叶えてあげられなくなってしまったため、私は自然とそう口走っていた。

すると祖母は笑顔から急に悲しそうな顔をして、どうしてあなたが謝るの? と問うた。

「あなたが謝ることなんて何もないのよ。誘惑に負けた彼方が完全に悪いんだから」

それにね……と祖母は続ける。

「今は悲しみがあなたを覆っているけれど、じきにそれは怒りへと変わってくるはず。でも、無理にその感情を押し込めたり否定して良い子を演じるのはだめ。そんなことをすれば、余計に辛くなるだけよ」

もし辛い気持ちに耐えられなくなったら、裏庭でバカヤロー! って思い切り叫びながら、要らないお皿でも叩き割ればいいのよ。

祖母はそのジェスチャーをして見せた。

普段はバカヤロー! なんて、決してはしたない言葉を言うはずがない祖母が言ったため、私は微かに笑った。

「ほら。セレナは笑っている方がよく似合う。大事なのはね、怒りや憎しみは否定してはいけないの。それは人間なんだから仕方ないこと。ただ辛いからといって誤魔化すために、他の男性で埋めようとしてはだめよ」

「でも、おばあさま。失恋した時は次の恋で忘れられるって言うじゃない? 私も早く次の人を見つけなきゃ。それに、あの人たちだけが幸せになるのは、やっぱり納得できないわ……」

「あのね、次の恋で幸せになれるのは、好きだった人が自分の心からいなくなっているからなのよ。まだいるのに、他の人に求めても決して幸せにはなれないの。そしてその事が、却って別の人を傷つけること、あるいは自分がもっと傷つくことにもなりかねないわ」

祖母は優しい声のままだが、私に真剣な眼差しを向けた。

「それに良いこと? 相手の女性はあなた以外の他の女性たちも沢山傷つけている。そんな好き勝手にやってる人間はね、いつか思ってもみないところで身の破滅が起きるの。被害者ですら記憶が薄れていたり、忘れていたりする、うんと先の未来だったりしてね」

「身の破滅? そんなのあの人には関係なさそうだけど……」

私にはこの世を謳歌しているラルーヴェスク伯爵夫人に、そんな事が起きるとは到底思えなかった。

彼女は男遊びが激しいと言われる一方で、明るく楽しい人物として知られている。

刺激が大好きな社交界には欠かせない人物なのだ。

実際、他の女性から刺されてもおかしくないのに、彼女は堂々としている。

それに確か……昔、恋人を取られてしまった女性が思い切り彼女の頬を叩いたが、彼女はやり返すどころか、チークの色が今日は足りないと思っていた、色を足してくれてありがとうと言い返した伝説があると聞いたこともある。

そんな自信たっぷりの人間が崩れ去ることなんてあるのだろうか?

正直、私は信じられなかった。

「いいえ。私を信じなさい」

再び祖母は私の目をしっかりと見つめた。

「あなたよりずっと長生きしてる人間なんですもの。色々な事を見てきたわ……私から言えるのは、あなたはあの人たちのように道を外す事なく真っ直ぐ歩きなさい。そうしていれば、きっといつかあなたに相応しい本物の相手が現れるはずよ」

祖母は私の両手を少し強く握ったあと、使用人に何か温かいものを持って来させるわ、と言って居間を出て行った。

◆◆◆

それから7年の歳月が流れた。

私は女の賞味期限と言われる25歳をすでに迎えている。

ドミニクと別れた後、別の男性と何度かお付き合いをした事があったが、結局それは毎回同じようにして終わりを告げた。

原因は私だった。

ドミニクとの件以来、私は疑い深くなってしまい、相手の行動に不安を覚えることがあると、相手を責めて最終的に喧嘩別れに終わったのだ。

また、味方であり、優しかった祖母はもうそばにはいない。

祖母は昨年他界してしまった。

私は祖母の夢を叶えてあげられなかったと失意の中にいた。

そして疲れ切っていた。

両親がもうそろそろ年齢も年齢だし、いい加減結婚相手を決めてくれと言いつつも、どうせ喧嘩別れになるだけだろうという諦めから、私は見合いの話を全て断っているという状況だった。

そんな中、日課である新聞を読んでいると『私の宝物』という題名に目が留まった。

これはこの新聞が"芸術の恋人"として定期的に特集している、芸術家だけではなくその支援者たちにも焦点を当てた、インタビューや寄稿だ。

内容は自分の一人娘が最近ヴァイオリンの発表会に出て、思っていた以上の素晴らしい演奏をして涙が出たというものなのだが……

自分の人生を振り返ると、子供を産んだことで人生観がガラリと変わった。

それまで子供とは、ただ自分の時間を奪うだけの存在、一体何が素晴らしいか理解できないと思っていた。

また伝統に縛られず、自由に生きることが自分の生きる喜びだと思っていたが、そんなものは娘のおかげで全て吹き飛んだ。

そしてその娘の父であり、自分を目一杯愛してくれる年下の夫に感謝している。

妊娠発覚当初、自分だけで子供をどうにかするつもりだったが、夫は僕自身の子供でもあると一人親となる事を反対して、自分に結婚を申し込んだ。

今まで結婚を申し込まれたことは何度もあったが、彼の純粋さ、真っ直ぐさに自分は心を打たれた。

夫は今まで出会ってきた男性たちと全く異なるタイプだが、彼と出会わなければこんな経験はできなかっだろう。

娘が生まれたのを機に都会を離れて、自然豊かなこの地方へと移ったが、休日は娘がヴァイオリンを弾き、夫はチェロを弾く。

派手さはないが、なんて穏やかで幸せな光景。

彼を選んで本当に良かった。

私が読んだ記事には、そう書かれていた。

このような内容は女性向けの冊子などでも割と見かけるので、さほど印象に残るものではない。

だが私は見てしまったのだ。

その寄稿者が、ラルーヴェスク伯爵夫人であるということを。

名前はフルネームで書かれており、ドミニクの苗字で同じであるのと娘の年齢とチェロのことから、間違いなく彼女によるものだった。

途端に私には震えが起き、吐き気まで催した。

確かにあれ以降、彼女の噂は社交界でとんと聞かなくなっていたが……

なんで? どうして? どうして彼女はまだ幸せなの?

どうして私を傷つけた人たちが幸せで、私はまだ暗い水の中にいるままなの?

もう何年も経っているというのに、私の脳裏にはドミニクから手紙を受け取ったときの記憶が鮮明に蘇っていた。

もう過去のことだというのに、悲しい気持ちが一気に蘇り、私はまたあの時のようにわんわん泣いた。

泣いて泣いて泣きまくった。

私はどうやったって、ドミニクたちには敵わないのだ。

彼は私と一緒にいた時、自分はあまり流行にはついていけないし、どちらかというと女性は外見からだけではなく、教養がある人に惹かれやすいと言っていた。

まさにラルーヴェスク伯爵夫人は彼にとって、理想の人そのものだったという訳だ。

そして彼の性格からして、きっと記事の通り今は良き父であり、良き夫として過ごしているのだろう。

私はその時、完全にヤケになっていたんだと今では思う。

祖母からは止めなさいと言われていたが、そうでもしないと、何か状況を変えないと心が耐えられなかった。

居間から飛び出して母の元に行くと、今すぐに結婚したいと言ってくれる人と見合いを組んでくれと頼んだ。

そしてもう、その人と結婚するつもりになっていた。

◆◆◆

私の依頼通り、すぐに見合いの席は組まれた。

相手は離婚歴があるが子供のいない男性で、アルフォンスと名乗った。

年は30代中頃で、貴族ではないがとても有名な事務所で弁護士をやっていると言った。

髪型は黒髪をオールバックにしており、メガネをかけているが顔立ちは悪くはなさそうだ。

一方で私は自分から見合いをしたいと言い出したものの、私は彼と何を話すかまでは全く考えていなかった。

すると、彼の方から口を開いた。

「結婚後はどちらに住みたいと思っていますか? 家の広さはどのくらいあれば足りると思います?」

……は?

私は思いもよらない彼の質問に口をぽかんと開けた。

普通こう言った場合は、今日は暑いですねやら寒いですねと、当たり障りのない話から始めるというのに。

彼はだいぶ端折って話題をねじ込んできたのだ。

「ああ、失礼。こういった場では上辺だけの会話になりやすいので。釣書には書かれていない希望条件から、まず先に伺った方が本音が知れていいのではないかと思いまして」

弁護士だからなのだろうか。とても淡々としている。

人によっては冷たい感じがする、これは見合いというよりも面接なのでは、変わった人だと思って、この時点で心を閉じるに違いない。

けれども私は不思議とこのとき、そう思わなかった。

私は彼に住居地もそうだが、それ以外の希望条件を正直に答えた。

その結果───

おおよそ3ヶ月後に私たちは結婚をしていた。

一番の大きな理由は、お互いの希望条件が違和感なく合ったからである。

全く予兆なく結婚したことで、人柄はどうなのか? 本当に彼で大丈夫なのか? と友人たちからはとても心配されたが、私はアルフォンスに不安を感じる部分が全くなかった。

むしろ、彼に対する期待値がほとんどなかったためか、彼と過ごすうちに私にとって彼は完璧な存在なのでは? と思えるほど、知れば知るほど彼のプラスの面しか私には見えなかった。

もちろん、一番のネックである前妻との離婚理由も、彼が原因ではあるが決して暴力や不倫ではないと、見合い当日に公的な書類をもとにちゃんと説明してくれた。

彼は当時弁護士になりたてで、覚えることが多い上に仕事も多忙。

文字通り帰って寝るだけの生活だったため、夫婦でいる意味がないと不満を持った妻から、ある日いきなり離婚を言い渡された、というものだった。

「彼女へのフォローが足りなかったと猛反省したものの、時すでに遅しでした。彼女は何度も私に警告をしていたのに、私はそれに気づけなかったんです」

そのため彼はあまり遅くならないよう、私との生活では気をつけるようにしているようだ。

仕事についても当時と比べて経験も増えたので余裕が出るようになり、遅くなる事がたまにあっても、普段は夕食時にはちゃんと帰って来てくれている。

「別れた後は気を紛らわすのに尚更仕事に力を入れました。けれども何かが違う。時間が余った分を他に充てようと思っても、どこか満たされない。やはり自分には家族が必要なんだと思った次第です」

そういう訳で再婚を望んでいたらしい。

そして結婚からしばらく経った現在。

私たちは11才と8才の子供がいる夫婦として、なんの問題もなく平和に暮らしている。

普段は子供の世話や教育もそうだが、夫のために社交パーティーを開催したり参加したりで、結婚してからの月日はあっという間に過ぎていった。

アルフォンスは愛してるとか、美しい人とか、私の心とか、そんな甘ったるい言葉を話すようなことはせず、むしろその様な事を言い始めたら確実に浮気を疑いたくなるタイプだ。

けれども、記念日は絶対に忘れないし、休みの日は積極的に子供と関わろうとするし、最低でも毎週一回は私と彼だけで過ごす時間を作っている。

それは私が彼と初めて会った時、ドミニクとの件があったため不安になりやすいと伝えていたことについて、自分は誠実だと証明する彼なりの回答なのだろう。

言葉に出すのは苦手なようでも、ちゃんと行動で私のことを大切にしてくれようとしている。

出会った時には全く想像できなかった、そんな彼の一面のお陰で私は日々幸せを感じている。

きっとこんな調子でこれからも続いていくのだろう。

そう思いながら、過去のことはすっかり過去となっていた。

ところがある日。

予定では遅くなると聞いていなかったのに、子供たちがすでに寝ている時間にアルフォンスは帰ってきた。

表情もどこか浮かない。

「おかえりなさい。どうなさったんですか?」

よほど難しい案件が来たのだろうか。

彼は普段家で仕事の話をそれほどしないのだが、難易度の高い案件が来た時は、そういう表情をしていることが多いのだ。

彼は文字通り飛び込みの案件が来たのだと言った。

「しかも今回の件は、娘を持つ親としてなかなか心が痛くなる話だったんだ。依頼者が落ち着くまで待っていたらこんな時間になってしまった。すまない」

彼は、夕食はスープとパンだけ貰いたいと私に伝えて上着をハンガーにかけたあと、棚から蒸留酒を取り出してグラスに注ぎ、居間の長椅子に腰掛けた。

アルフォンスは小さくため息をつき、それを一口飲んで先ほどまでの出来事を語り出した。

助手と共に事務所をそろそろ閉めようとした瞬間、涙でぼろぼろの若い女性が飛び込んできた。

さすがに追い返すのも不憫に思えたので、彼はとりあえず話を聞く事にした。

彼女によれば、どうしたら親子の縁を切れるのか。

法的に切れるのであれば、お願いだから切って欲しい。

切羽詰まった様子でそのように懇願してきた。

そのような依頼であれば、二つ返事で引き受けるとは言えないので、アルフォンスは女性からさらに事情を詳しく聞いたところ……

ことの発端は、相手側の親族に婚約者として紹介される茶会が行われたあと、急に婚約破棄をされたのだと女性は言った。

理由は相手に好きな女が出来たから、というものではなく、自分の親に問題があるからと言われたそうだ。

自分の母は今でこそ家庭的な母となっているが、実は結婚前は男遊びが激しく、婚約者の父方の叔母も実はそのせいで過去に婚約が破談していた。

最初、自分の幸せを壊した女そっくりな女性の顔立ちに、叔母は他人のそら似かと思ったが、さり気なく彼女の母について聞き出して確信を得たと。

『そのようなだらしのない母を持ち、しかも過去に因縁がある女性の娘とは結婚を許すことはできない』

彼女は婚約者のいない所で、両親からそのように冷たく伝えられたため、そんなの嘘です、母がそんなはずはありません! と反論した。

だが、それは却って相手方の不信感を増幅させるだけに終わった。

『我々が新興貴族だから、そちらの母の顔を知らないと思って息子に近づいたのか? ……それなら尚更とんでもない話だ。そちらの母に傷つけられた、こちらの身内は未だに傷ついている。それに親子なのだから、その性質が伝わっていないとは限らない。息子にはもっと相応しい女性がいる」

しかるべき金銭は用意するので、金輪際、息子には関わらないでほしい。

相手方はそう言って、彼女とそれ以上話す事はないと去っていった。

当然、彼女は自分に直接の原因があった訳ではないので、思い切り母のことを強い口調で責めた。

『お母様のせいよ! 私は彼のためにならヴァイオリンを捨ててもいいとさえ思えた、大好きな人と別れさせられたのよ! なんで私がこんな辛い思いをしなければならないの?! 最低よ! 何でそんな事をしたのよ!』

しかし、母はそんな過去の事をいちいち持ち出す相手の方がおかしい、と反省するどころか彼女の怒りを突っぱねた。

さらに母と応酬をしている最中、自分が生まれてきたのも、彼らが通常の夫婦として自分を授かったのではなく、ほかの女性と婚約中だった父を奪う原因であったことが発覚する。

彼女は心のどこかで、母は決してそんな人間ではない、きっと皆誤解しているのだと信じたかった。

自分にとっての母は、自分も父も愛し、音楽が好きで、ソリストになる夢も応援してくれていた優しい母なのだから。

しかし自分という確かな証拠があることで、母のことは本当だったのだと、どうしようもない絶望感に苛まれた。

都市部ではなく地方に移り住んで育てられたのも、子育てに専念するというより噂好きの社交界から自分を切り離したかっただけなのかもしれない。

疑い出せばキリがない……

そして、苦しんだ末に導き出した結果が親子の縁を切る事だった。

そうするしか自分には道がない。

この先他の人と愛を誓いあっても、母のことが知られてしまえば、破談になってしまうかもしれない。

もうこんな身を裂かれるような思いはしたくない。

そうでしか母の罪は償えない。

自分の幸せを壊しておきならがら平然としている母を絶対に許せない。自分も彼女の被害にあった女なのだから。

また、そんな母親を愛していると言っている父親に対しても、同様に許せなかったそうだ。

彼は彼女に対して、母とのことを反省するどころか、人を好きになる気持ちはどうしようもないのはわかるだろう? それに、君を授かったと聞いた時は驚いたと同時に嬉しかったんだ、だからどうか彼女を責めないでくれないか、と弁護に回ったらしい。

『その瞬間、私の目にはもはや、私を愛してくれる両親ではなく、不気味で真っ黒な怪物にしか見えなくなってしまったんです。あんな人たちと血が繋がっているなんて……悍ましい』

嗚咽を漏らしながら、その女性はそう言ったそうだ。

そこまでの話を聞き、私はドミニクと伯爵夫人の事を思い出していた。

まさかと思い、誰にも言わないからと夫にその娘の苗字を聞けば、やはり彼らの娘である事に間違いなかった。

「それで結局、どうすることになったんですか?」

アルフォンスは私が婚約破棄されたことについては知っているが、相手は誰だったのかまでは知らない。

私は表情を強張らせながら続きを聞いた。

「私も念を押して確認をしたが、彼女の意思は変わらなかった。幸い、彼女はソリストとして成功して仕事を持っているから、家を今すぐに出ても問題はない。だから家を出たら、直ちに親子関係を解消する手続きに入れるようにした。彼女は自分にとってもはや、母の娘であることは恥でしかない、人生の足枷でしかないと言っていた」

そこまでの話をアルフォンスから聞き、私の中には複雑な思いが入り乱れていた。

夫人はかつて自分の娘を宝物だと言っていたが、その宝物に捨てられることになるとは思いもよらないだろう。

それに自分も子供を産んでわかったのだが、親こそ子供から愛情をもらい、子供こそ親に無償の愛を与えてくれる存在なのだというのに。

けれども、そこまで追い込まれてその決断に至った娘は、今どれほど辛い思いを抱えているのか。

私には、その女性の幸運を祈るだけしかできなかった。

◆◆◆

その後。

女性は遠方での仕事のため、しばらく家をあけるという口実で家を出たあと、アルフォンスはすぐに仕事に取り掛かり、無事に親子関係を終了する手続きは済んだそうだ。

とはいえ案の定、トラブルは起きた。

社会的に親子ではなくなったと知ったラルーヴェスク伯爵夫人とドミニクが、これは一体どういうことだとアルフォンスの事務所に乗り込んできたのだ。

その時、彼は外出中だったので対応したのは助手だったそうなのだが、彼女らは喚き散らして警察も呼ぶほどだったらしい。

それについては割とよくあることなので、いつも通りの対応でその場は引き取り願い、なんとかその場は収まったそうだ。

私は子供たちを寝かしつけたあと、居間で彼の晩酌に付き合いながら、トラブルの話を聞いていた。

「助手の話だと、母親は泣き喚くほど取り乱し、父親の方は娘が我々を捨てようとするはずがない、娘は誰かに騙されているのだと叫んでいたそうだ。だから、またしばらく助手たちが交代でこちらに住むようにしていいかな?」

「ええ、もちろんです。承知しました。明日、お部屋を用意するように使用人に伝えますね」

こういうことは今回に限ったことではない。

まれに逆恨みされかねないこともあるので、その場合はアルフォンスが一人きりにならないよう、助手を常につけるようにしているのだ。

ところが。

コンコンコン! と激しく玄関のノックが鳴った。

こんな時間に一体誰?

私たちは同時に怪訝な顔をした。

なんとなく嫌な予感がしたので、彼は使用人とともに玄関の様子を窺いに行き、私はさらに大柄で体力に自信のある使用人たちを大急ぎで呼びに行った。

私がその使用人たちと共に玄関まで行くと、女の叫び声と男の声が聞こえた。

廊下の奥から様子を見ていると、どうやって我が家を知ったのかわからないが、アルフォンスたちと言い争っているのは、ラルーヴェスク伯爵夫人とドミニクだった。

娘を返して! 人でなし! 悪魔! など夫人の方はアルフォンスに向かって酷い罵り声をあげている。

ドミニクの方もラルーヴェスク伯爵夫人を落ち着かせるどころか、あなたはとんでもない事をしてくれたんだ! 今すぐに撤回させろ! とアルフォンスを責めている。

そんな異常事態を察知して、上階から子供達もなあに? おばけなの? 怖い! といって、起きて来てしまった。

もし子供達を見られてしまったら、余計にラルーヴェスク伯爵夫人がヒートアップすることは目に見えている。

私は怯えている子供達に大丈夫、大丈夫よと声を掛けて上に連れていくと同時に、使用人たちには万が一のためにと縄を手渡して、アルフォンスたちに加勢するように頼んだ。

翌朝。

結局、昨日は我が家にも警察を呼ぶ事態となってしまった。

アルフォンスは努めて冷静に相手に帰ってもらおうとしていたのだが、娘には会わせられないの一点張りだったため、ラルーヴェスク伯爵夫人が彼に向かってこう脅して来たのだ。

お前にも子供がいるんだろう! お前の子供を奪い去ってやる! 無事でいられると思うな、後悔しろ! と。

しかし、相手はやり手の弁護士だ。

すでに警察から接近禁止命令が出ているにも関わらず、彼女たちは今度は脅迫をしてきている。

そのため、彼は"身の危険を感じた"として使用人たちにラルーヴェスク伯爵夫人とドミニクを縄で縛るように命じると、警察に突き出すように命じたのだ。

「脅されることはあっても、セレナや子供たちに危害を加えることを私は絶対に許さない。何としてでも刑事事件で訴える事にする。二度と我が家に近寄らせるつもりはない」

朝食を食べながら、少し苛立った様子でアルフォンスは私にそう伝えた。

いつもは冷静だというのに、そんな風にしている彼を見るのは初めてだった。

それから数日して、新聞によってラルーヴェスク伯爵夫人とドミニクが我が家に押し入ったことが報じられた。

しかも押し入った理由は、担当する案件のトラブルとしか書かれていなかったが、ラルーヴェスク伯爵夫人が私たちの子供に危害を加えてやる、と言ったことはしっかり書かれていた。

この国では子供を大切にしている。

子供に非道なことをする人間に対しては、嫌悪感がかなり強い。

子供に対しての犯罪は、極刑を辞さないこともある。

これで彼女らの評判は地に落ちたも同然だろう。

今回、彼女の娘が親子の縁を切ることができたのだって、親のせいで子供に不利益がないようにという配慮が前提にあったからだ。

さらに彼女たちにとっては"不運なこと"に、今の社交界は暇を持て余している状況だ。

退屈した貴族や有力者にとってこのようなスキャンダルは、落とされた甘い焼き菓子に飢えたアリたちがいっせいに群がるようなもの。

アルフォンスは周りに何も言わなくても、ラルーヴェスク伯爵夫人の伝説はまだ一部では生きている。

この一件から、娘から捨てられたと勝手に噂が広がるのは時間の問題だ。

娘は同情が寄せられつつ勇気が讃えられ、まさか娘に見限られるとは、今まで男たちを振ってきたのに、今度は夫人が捨てられる番になったかと大笑いされるに違いない。

しかも、ドミニクが私を裏切った二十年ほど前はラルーヴェスク伯爵夫人が隆盛を極めたように、他の女に盗られる女が悪かった、魅力がなかったのだの振られた方に非があるような言われ方もしていたが、今は時代が違う。

真面目で愛妻家の国王に変わった影響もあるのか、社交界の人間たちは人々の模範となるよう、相手がいれば裏切ってはいけない、相手のある人を欲しがったり盗るのはおかしいという倫理観に変化し、男女ともに貞淑さを求められるようになった。

つまり彼女が再び返り咲きたくなっても、若い時代が忘れられない時代遅れの女と揶揄されるだけに終わるだろう。

『そんな好き勝手にやってる人間はね、いつか思ってもみないところで身の破滅が起きるの。被害者ですら記憶が薄れていたり、忘れていたりする、うんと先の未来だったりしてね』

おばあさまの言っていたことは、本当に正しかったのだ。

「ねえ、あなた」

あの時の言葉を思い出しながら、私は玄関でケープ付きの外套を羽織り、帽子を被ったアルフォンスに声を掛けた。

「もう一度、例の女性と会うのでしょう? 今度会ったら、こう伝えてくださるかしら。女はそこまで弱くない。お父様の元婚約者だって、きっとどこかで幸せに暮らしてるはず。あなたが気に病むことは全くないと思うと」

アルフォンスはこちらを少し見つめて視線を宙に逸らしたあと、目を瞬かせた。

「わかった。ちゃんと伝えておく」

そう返事をして微笑み、扉を開けて外へ出た。

陽は昇り、地上を明るく照らしている。

私はいつものように彼に軽く手を振り、こちらに手を振り返して出勤していく夫を見送った。