作品タイトル不明
第62話 星辰の舞
演武場の喧騒は、新たな段階へと移行しつつあった。
予選での激しい戦いを終え、レオンは控室で短い休息を取っていた。額の汗を拭い、水を一口飲む。体力の消耗は思ったより激しい。
「よくやったな、レオン」
アランが駆け寄ってきた。
「予選突破、おめでとう!」
「ああ、何とか」
レオンは頷いた。予選は厳しかったが、ゴールデンフォームの力で勝ち抜くことができた。男子の部で本戦進出を果たしたのは十六名。その中に、レオンも名を連ねた。
『小僧、無理するなよ』
オグリの声が脳裏に響いた。
『ゴールデンフォームは強力だが、魔力消費も激しい。本戦まで少し時間がある。今のうちに体力を回復しておけ』
(分かっている。だが——エヴィルの試合を見逃すわけにはいかない)
レオンは立ち上がり、控室を出た。女子の部の会場へ向かう。
◆◇◆
「なかなか気骨のある子だな、あのレオンという子は」
カッセルリック侯爵は高台の貴賓席から男子予選が行われた第一演武場を一瞥し、懶そうに笑った。隣に控える壮年の将軍ヴォルフが腕を組んだまま、低く応じた。
「ゴールデンフォーム。二ヶ月前まで魔力値3の出来損ないが、辺境から戻って予選を勝ち上がった。眉唾と見るべきか」
「そう決めつけるものではないよ、ヴォルフ」侯爵は杯を傾けた。「あの子の硬質化は完全に実戦仕様だ。発動に一切の迷いがない。辺境で本物の戦闘をくぐった目をしている。誰かに仕込まれたな」
「師の心当たりは?」
「さあな。辺境にも隠者は多い」侯爵は手を振った。「いずれにせよ本戦で判る。化けの皮ならすぐ剥がれる。本物なら——放っておいても光る」
ヴォルフは頷きかけたが、視線が一瞬、別の方向に動いた。第五演武場の入口に向かって、紫の法衣の少女が静かに歩いていくのが見えた。
侯爵もそれに気づいた。杯を置く手が、僅かに止まった。
「……もう出場か」
「はい。女子の部、第五演武場で、まもなくエヴィル嬢の第一試合です」
侯爵は椅子から身を起こした。「行くぞ。あの子の実戦は、私もまだ見たことがない」
◆◇◆
第五演武場の貴賓席には、各組織の代表がすでに並んでいた。
紅蓮騎士団の白髪の老人が腕を組み、胸元に炎の紋章を光らせている。隣では深緑のローブの森霊会の中年女性が、手元の羊皮紙に何かを書き込んでいた。雷光魔導院、蒼穹学院の代表も席についている。少し離れた位置で、星辰観測所の銀髪の魔導師だけが身じろぎもせず舞台を見つめていた。
カッセルリック侯爵とヴォルフが席に着くと、紅蓮騎士団の老人がすぐに声をかけた。
「侯爵。SSSランクの星相系を、本当に試合に出すおつもりか。暴走でもされたら、結界が保ちませんぞ」
「ご心配なく、団長」侯爵は穏やかに笑った。「あの子は生まれてこのかた、一度も力を暴走させたことがない。制御力だけは私が保証します」
老人は鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。
侯爵は舞台の方に目を向けた。エヴィルが入場口から姿を現し、紫の法衣が風に揺れている。構えすら取っていない。両手を身体の脇に下ろしたまま、自然体で立っている。
侯爵の眉梢が微かに動いた。
「……ヴォルフ、あの子を見てどう思う」
ヴォルフはエヴィルを注視した。暫く黙ってから、慎重に言った。
「面臨大戦——というのに、力みが一切ない。あの年齢であの佇まいは異常です。場に飲まれていないのではなく、場そのものが目に入っていないように見えます」
「うむ」侯爵は頷いた。「あの子にとって、この演武場は散歩道程度のものなのかもしれんな。——ところで対戦相手は?」
「リーゼ・アイスフェルト。操作系の使い手で、三つ星中期。アイスフェルト家の筆頭です」
「リーゼか。悪くない。操作系の精密制御は同年代で随一と聞く。エヴィルの力を引き出すには、弱すぎず強すぎず——ちょうどいい相手だ」
◆◇◆
レオンは観客席の隅に立ち、舞台を見つめた。
従妹の実戦を見るのは、これが初めてだった。七年間、あの子はずっと傍にいてくれた。全ての人間が背を向けた時、エヴィルだけが変わらなかった。だが——レオンはエヴィルの「戦う姿」を知らない。
腰のペンダントの中で、オグリが沈黙している。普段は何かと口を挟む老人が、黙って気配を消している。それ自体が異常だった。
◆◇◆
「ストーンバレット!」
リーゼの怒喝が響いた。蒼い髪を高く結い上げ、切れ長の目には闘志が漲っている。アイスフェルト家の筆頭として、セレストーム本家の直系に一矢報いる——その執念が彼女をここまで勝ち上がらせた。
リーゼの両手が舞台の石畳に向けられた瞬間、床面が軋みを上げた。石畳から六つの石塊が引き剥がされ、拳大に圧縮されながら宙に浮かび上がる。操作系魔法——周囲の物質を魔力で支配し、意のままに操る。六発の石弾が扇状に展開し、一斉にエヴィルに向かって射出された。空気を裂く轟音。しかも六発同時展開——リーゼの制御力の高さが窺えた。
「六発同時か」ヴォルフが低く言った。「やるな、あの子も」
石弾が迫る。あと五歩。三歩。一歩——
エヴィルは、動かなかった。
レオンの拳が、無意識に握られた。
◆◇◆
石弾がエヴィルに到達した——その瞬間。
六発の石弾が同時に軌道を変えた。エヴィルの身体に触れる寸前で、まるで見えない壁に弾かれたかのように全弾が左右に逸れ、石畳に着弾して砕けた破片を撒き散らした。
エヴィル自身には、欠片の一つすら届いていない。髪の毛一本、揺れていなかった。
「なっ——!?」リーゼの顔が驚愕に歪んだ。
ヴォルフが身を僅かに乗り出した。「防御魔法の展開も、詠唱もなかった。手すら動かしていない」
「ええ」侯爵は杯を口元に運びながら、静かに答えた。「だから制御力を保証したのです」
◆◇◆
「まぐれ……! まぐれよ!」
リーゼは歯を食いしばり、両手を突き出した。
「ストーンランス!」
今度は弾丸ではなく、槍だった。舞台の石畳が大きく隆起し、二メートル近い石の槍が形成された。操作系の魔力で極限まで圧縮された石材は鋼鉄に近い硬度を持ち、先端は針のように鋭く研ぎ澄まされている。三つ星中期の全力——アイスフェルト家では最上位に匹敵する一撃。
石槍が唸りを上げてエヴィルに向かって飛んでいく。速度は先ほどの石弾の倍以上。回避は不可能な距離。
エヴィルは——やはり動かなかった。
だが、今度はレオンの目が捉えた。エヴィルの紫色の瞳が、微かに光った。夜空の星が瞬くような、ほんの一瞬の輝き。
◆◇◆
石槍が、エヴィルの一歩手前で——停止した。
空中に、縫い止められたかのように。消えていない。砕けてもいない。ただ——止まっている。エヴィルの顔の前、僅か数寸の位置で微動だにせず浮かんでいる。鋭い先端が、エヴィルの前髪を揺らすほどの距離だった。
場内が、凍りついた。
紅蓮騎士団の老人が椅子の肘掛けを掴んだ。「空間固定だと——!? この年齢で——」
侯爵は答えなかった。黙って舞台を見つめている。
エヴィルの唇が、微かに動いた。次の瞬間——石槍が回転した。くるりと百八十度。鋭い先端が、今度はリーゼの方を向いた。
「——え?」
リーゼの顔から血の気が引いた。自分が操った石槍が——自分の制御を離れ、自分に向かって浮いている。操作系の使い手にとって、自分が操った物質の制御を奪われることは——あり得ないはずだった。
「ステラ・リフレクト」
エヴィルが初めて口を開いた。静かな声だった。怒りも嘲りもない。ただ事実を告げるような、穏やかな声。
だがその声が落ちた瞬間——石槍が弾丸のような速度でリーゼに向かって飛んだ。
「きゃあああ——!」
リーゼは咄嗟に横に飛んだ。石槍は彼女の右肩を掠め、背後の結界壁に激突して粉砕された。轟音と共に石の破片が飛び散り、衝撃波が舞台全体を揺るがした。
リーゼの右肩から血が滲んでいた。自分が操った石で、自分が傷ついた。
ヴォルフが息を呑んだ。「反射——しかも威力が——」
「上がっている」侯爵が静かに頷いた。「あの子は反射する際に、星辰の力を上乗せしている。返された魔法は元より速く、重くなる。自分の全力が増幅されて返ってくる——相手にとっては、これ以上ない悪夢だ」
侯爵はそこで一度言葉を切り、舞台のリーゼに目を向けた。
「だが、リーゼも見どころがある。あの子はまだ折れていない」
◆◇◆
リーゼは肩の傷を押さえながら立ち上がった。顔は蒼白だが、目にはまだ闘志が残っている。
「くっ……まだよ……!」
両手を大きく広げ、舞台全体に向けて魔力を解放した。
「グラビティフィールド!」
操作系の奥義——領域展開。リーゼの魔力が舞台全体に浸透し、石畳の一枚一枚が彼女の支配下に入った。床面が波打つように隆起し、舞台のあらゆる場所から石塊が浮かび上がる。空中に漂う無数の石片が、リーゼの意志に従って旋回を始めた。
単発を反射されるなら——舞台そのものを武器にする。操作系魔法の真髄、領域掌握。あらゆる場所から、あらゆる角度で同時に攻撃を仕掛ける。リーゼの最後の切り札だった。
浮遊する石片の群れが、一斉にエヴィルに向かって殺到した。あらゆる方向から串刺しにするように。数は二十を超えている。全方位攻撃——回避は不可能。反射するにも数が多すぎる。
「いい判断だ」ヴォルフが唸った。「単発を反射されるなら、領域ごと呑み込む。理に適っている」
侯爵は首を振った。「理に適っているが——足りない」
「終わりよ!」
リーゼが叫んだ。
◆◇◆
石片の嵐の中で——紫の光が、静かに灯った。
小さな光だった。蝋燭の炎ほどの、頼りない輝き。
だが次の瞬間——その光が、爆発的に膨張した。
紫の光がエヴィルを中心に同心円状に広がっていく。光が触れた石が次々と砕けていった。浮遊していた石片が粉々になり、隆起した床面が元に押し戻され、リーゼの魔力の支配が、一枚一枚剥がされていく。
リーゼが築き上げたグラビティフィールドが——根こそぎ、消し飛ばされていく。
「そんな……私のグラビティフィールドが……」
リーゼは呆然と立ち尽くした。
◆◇◆
塵が晴れた時——エヴィルが、そこに立っていた。
紫の法衣が風にたなびく。その周囲に淡い紫色の光の粒子が漂っていた。まるで夜空の星を纏っているかのように、無数の光点がゆっくりと回転している。
星の衣。
星相系魔導師だけが到達できる領域——自身の周囲に星辰の力場を展開し、あらゆる魔法干渉を無効化する絶対防御。
貴賓席が完全に静まり返った。紅蓮騎士団の老人は腕を組んだまま微動だにしない。森霊会の女性は羊皮紙を膝の上に置き、書く手を止めていた。雷光魔導院の痩身の男が、初めて椅子の背から身を起こした。
エヴィルの紫の瞳がリーゼを見つめた。
その目には敵意がなかった。嘲りも、優越感もない。ただ——静かな、透明な意志だけがあった。
「もう十分です。これ以上続ければ、あなたが傷つきます」
エヴィルの声は穏やかだった。戦闘中とは思えないほど柔らかい声。だがその言葉の奥にある力は——有無を言わせなかった。
リーゼは唇を噛んだ。悔しさが顔に滲んでいる。だが——わかっていた。これ以上戦っても、勝てない。最初から、次元が違った。
「……降参します」
搾り出すような声だった。
「勝者——エヴィル・セレストーム!」
五長老が勝者を告げた。
◆◇◆
場内は短い静寂の後に沸いたが、先ほどの予選のような気軽な歓声ではなかった。拍手の中に混じる沈黙が、畏怖を物語っていた。
星辰観測所の銀髪の魔導師が席を立った。他の代表者たちより先に、足早に貴賓席を降りようとしている。侯爵の前を通りがかった時、足を止めた。
「あの子を、お預けいただけませんか」
侯爵は微笑んだ。「お気持ちは光栄だが——まだ早い」
銀髪の魔導師はそれ以上言わず、去っていった。
ヴォルフが低く言った。「……恐ろしい子です。全ての攻撃が効かなかった。一発も当たっていない。しかも戦闘後の消耗が微塵も見えない」
「うむ」侯爵はエヴィルが舞台を降りていく姿を見つめた。紫の光の粒子が余韻のように彼女の周囲で揺れている。階段を降りる足取りは軽く、戦闘の疲労など微塵も感じさせなかった。
「リーゼは良い戦いをした」侯爵が静かに言った。「領域展開で対抗しようとしたのは、正しい選択だった。ただ——」
「相手が悪かった」
「そうだ」侯爵は頷いた。「あの子にとって、今の試合は——」
ヴォルフは答えを待ったが、侯爵はそれ以上言わなかった。杯の残りを飲み干し、視線を舞台から離しただけだった。
◆◇◆
レオンは動けなかった。
観客席の隅に立ったまま、エヴィルの戦いの全てを見ていた。一瞬も見逃すまいと目を凝らし続けた。
だが——正直に言えば、半分も理解できなかった。
ゴールデンフォームは自分の魔力を硬質化させる。攻撃も防御も原理はシンプルだ。拳で殴り、盾で受け、剣で斬る。力と力のぶつかり合い。
だがエヴィルの戦い方は根本が違った。相手の力そのものを支配している。軌道を曲げ、空間に縫い止め、反転させて返す。操作系の使い手から「操作」そのものを奪い取った——まるで、相手の魔法は最初からエヴィルの掌の上で踊っていたかのように。
(あれが……星相系……)
レオンは自分の掌を見下ろした。
◆◇◆
腰のペンダントから、オグリの声が響いた。長い沈黙を破る、低い声だった。
『……見たか』
(ああ。見た)
『お前の従妹……とんでもない化け物だぞ、あれは』
オグリの声に珍しく畏敬の色が混じっていた。この老人が他者をこう評するのは、初めてのことだった。
『あの年齢で、あれだけの術を実戦で使いこなすとは。しかも全て無詠唱に近い。あの子は星辰の力を呼吸するように使っている』
(……あの子は、昔からああだったのかもしれない。俺が知らなかっただけで)
◆◇◆
舞台を降りたエヴィルは控室へは向かわず、観客席の通路を歩いていた。周囲の人間が道を開ける。だがエヴィルはそれらを一切気にせず——真っ直ぐ、レオンの方へ歩いてきた。
「レオン兄様」
エヴィルはレオンの前で足を止めた。紫の瞳が嬉しそうに輝いている。さっきまで舞台で見せていた超然とした雰囲気とは打って変わって、年相応の少女の顔だった。
「来てくださったんですね! 見ていてくださいましたか?」
「ああ、見ていた」
レオンは頷いた。
「すごかったぞ、エヴィル」
「そんな……兄様の方こそ」
エヴィルが微笑んだ。あの日と同じ、穏やかな笑み。
「兄様の試合も見ていましたよ。予選突破、おめでとうございます。ゴールデンフォーム、とても綺麗でした」
「……俺のことはいい」
レオンは小さく笑った。
「お前、いつの間にあんなに——」
「兄様こそ」エヴィルが首を傾げた。「二ヶ月前まで魔力値3だった方が、今日予選を勝ち抜いて本戦に進出している。私の方こそ、驚いています」
レオンは言葉に詰まった。
「兄様はご自分の道を見つけられましたね。あの日、私が信じていた通りに」
あの日——鑑定儀式の後、レオンが辺境への追放を告げられた日。エヴィルが最後に言った言葉。
『私は信じています。兄様はきっと、ご自分の道を見つけられると』
(この子は——本当に、信じていたんだな)
レオンは目を伏せ、小さく笑った。自嘲ではない。久しぶりに、心の底から湧き上がった温かい笑みだった。
「……ありがとう、エヴィル」
「何がですか?」
「いや——何でもない」
レオンは首を振った。
「本戦はもうすぐ始まる。男子は十六名、女子は八名が残った。俺も、お前も、まだ戦いは終わっていない」
「はい」
エヴィルは頷いた。
「兄様、頑張ってくださいね。本戦で、どこまで行けるか……楽しみにしています」
「お前もな」
エヴィルは小さく頭を下げ、踵を返した。紫の法衣の裾が翻る。
だが三歩ほど歩いたところで足を止めた。振り返らずに言った。
「兄様。いつか、兄様と手合わせしてみたいです」
「……何?」
「ゴールデンフォームと星相系。どちらが強いか——試してみたくないですか?」
レオンは一瞬目を見開いた。
エヴィルは振り返った。微笑んでいた。だがその紫の瞳の奥に——舞台の上で見せたのと同じ、静かな光が宿っていた。
そのまま何も言わず、人混みの中へ消えていった。
◆◇◆
高台の貴賓席で、カッセルリック侯爵はまだ席に残っていた。
ヴォルフが低く言った。「侯爵。先ほどのレオン殿のゴールデンフォームと、エヴィル嬢の星相系——もし二人が戦えば、どちらが」
侯爵は観客席の隅を見下ろした。エヴィルがレオンの前を去っていくところだった。二人の会話は聞こえなかったが、レオンの横顔に浮かんだ表情は——侯爵にも、見覚えのあるものだった。
「ヴォルフ」侯爵は静かに言った。「あの子たちは、いずれ自分で答えを出すだろう。我々が先回りする必要はない」
侯爵は席を立ち、背を向けた。
「面白い時代になった」