軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第109話 心撫の灯

クラウスは地面に倒れたまま、動けなかった。

大の字に仰向けになり、荒い呼吸を繰り返している。目は虚ろで、焦点が合っていない。魔力を大半吸い取られた体は、指一本動かすことすら億劫だった。口元から一筋の血が伝い、顎には蹴りの痕が青黒く浮かんでいる。腹部は内臓を直接殴られた衝撃が未だに残り、断続的に痙攣していた。

三つ星中期のクラウス・フォン・ベルクマンが——まるで、嵐の後の難破船のようだった。

隊員の二人がクラウスのもとに駆け寄り、体を起こそうとした。だがクラウスの体には力が入らず、腕を掴んで引き上げても、膝が何度も折れた。

「ベルクマン、しっかりしろ」

「……ぅ……」

クラウスの目に、ようやく光が戻った。だがそこにあるのは覇気ではなく——虚脱だった。三つ星中期の誇りも、ヘレネへの見栄も、全てが空になっていた。

魔力を吸い取られるという体験は、想像を絶するものだった。体の中を流れていた温かな奔流が、一滴残らず引き抜かれていく感覚。自分という器から中身だけが消えていく恐怖。サーキットが空になった今、身体強化もスキルも使えない。ただの、体格だけが大きい十七歳の少年に過ぎなかった。

回復には少なくとも数週間はかかるだろう。遺跡探索において、これは致命的だった。

「自業自得だ」

隊員の一人が小声で呟いた。誰も反論しなかった。

◆◇◆

隊列が再び動き出した。

クラウスは隊員二人に肩を支えられ、辛うじて歩いていた。その姿を見る者の目には、同情よりも呆れが浮かんでいた。

レオンとクラウスの決闘は、隊内で最大の話題になっていた。

「三つ星中期が、三つ星前期の錬金系魔法師に一方的にやられた」

「しかも終始素手だ。武器すら抜いていない」

「最後のあれ……触れただけで魔力を吸い取ったぞ」

「あんなスキル、聞いたことがない」

隊員たちは声をひそめて囁き合っていたが、その視線は何度もレオンに向いた。

前日までの「出来損ない」という評価は、もはや完全に消えていた。代わりに生まれたのは——底が知れない、という畏怖だった。

◆◇◆

レオンは隊列の中を、いつもと変わらない様子で歩いていた。

その横に、ヘレネが並んだ。

「さっきの戦い、見ていた」

「ああ」

「あなたの近接技術。あれは独学じゃないわね」

「……さあ」

レオンは曖昧に流した。バルトン副団長の鍛錬のことは、まだ誰にも明かすつもりはなかった。

ヘレネはそれ以上追及しなかった。代わりに、少し間を置いてから言った。

「昨日の夜、あなたの修練を少し離れた場所から見ていた」

「知っていた」

「……気づいていたの」

「匂いで」

ヘレネはわずかに目を見開いた。だがすぐに表情を戻した。

「あなたには、興味がある」

ヘレネの声のトーンが、微かに変わった。

それまでの実務的な平坦さが消え、少しだけ柔らかくなった。——いや、柔らかいという表現は正確ではない。甘い、というほうが近い。

「遺跡の中で組む以上、あなたのことをもっと知っておきたい。今夜の野営で、少し話をしないか——二人で」

ヘレネの深緑の瞳が、レオンを真っ直ぐに見つめていた。

その瞳の奥で——極めて微かに、青白い光が明滅した。

◆◇◆

レオンの脳裏に、かすかな違和感が走った。

ヘレネの声を聞いた瞬間、胸の奥に妙な温かさが生まれた。心地よい。もっとこの声を聞いていたい。この瞳に見つめられていたい。ヘレネの提案を断る理由が、何も思い浮かばない——。

——おかしい。

レオンは即座に気づいた。

この感情は、自分のものではない。

前世を含めた長い人生で、レオンは自分の感情の動きを精密に把握する術を身につけていた。今、胸の中に生まれたこの温かさは、外部から注入されたものだ。自然な感情の流れとは、微妙にリズムが違う。

(魅惑系のスキル——)

レオンの思考が加速した。

ヘレネの瞳の奥で明滅している青白い光。あれは電流だ。極めて微弱な電流を瞳から放射し、相手の視神経を通じて脳に直接干渉している。

前世の知識が即座に答えを弾き出した。

(電磁パルス。極低周波の電磁波を視覚経路から送り込み、脳の辺縁系——感情を司る領域に直接作用する。人為的にオキシトシンの分泌を促し、親密感と信頼感を植え付ける。原理としては——経頭蓋磁気刺激に近い)

この世界の魔法師たちは、これを「魅惑」と呼ぶ。だがその本質は、電磁波による脳の直接操作だ。神秘でも何でもない。物理法則に従った、極めて精緻なスキルだった。

(ハルトマン伯爵家のエレクトロサーキット——戦闘用の電流操作だけじゃない。こういう応用もあるのか。なるほど、ヘレネが誰に対しても「等距離」でいられるのは、自分の意思でこのスキルのオン・オフを切り替えられるからだ。普段は感情干渉を完全に遮断している。そして必要な時だけ、逆に相手に干渉する)

感心すると同時に——対処法も、既に見えていた。

原理がわかれば、防ぐのは難しくない。

レオンはサーキット内の魔力の流れをわずかに変えた。脳に向かう電磁パルスの経路に、微弱な逆位相の魔力波を生成する。打ち消し干渉——ノイズキャンセリングと同じ原理だ。

外部から注入されていた温かな感情が、すっと消えた。

胸の中に残ったのは、いつも通りの静かな思考だけだった。

◆◇◆

全ての過程は、一瞬だった。

レオンの表情は何一つ変わっていなかった。

ヘレネは真っ直ぐにレオンを見つめ続けていた。この距離で、この強度の電磁パルスを受ければ、同年代の男子なら例外なく心を乱す。顔を赤くし、言葉を詰まらせ、何でも言うことを聞くようになる。それがハルトマン家の「もう一つの技術」だった。

だがレオンは——。

「今夜の野営で話をするのは構わない。遺跡の構造について、事前に共有しておくべきことがある」

平坦な声だった。

感情の揺れが、一切ない。

ヘレネの瞳の中の青白い光が、消えた。

(……効いていない?)

ヘレネは内心で動揺していた。表情には出さなかったが。

エレクトロサーキットの魅惑応用は、ハルトマン伯爵家でも限られた者だけが習得する高等技術だ。ヘレネはこれまで、このスキルが効かなかった相手に出会ったことがなかった。四つ星以上の熟練魔法師ですら、一瞬は心を揺らされる。

それが——三つ星前期の、十五歳の少年に通じなかった。

しかもレオンは、スキルを使われたこと自体に気づいていないように見える。無意識に弾いたのか。それとも——気づいた上で、何事もなかったように振る舞っているのか。

後者だとしたら。

(この男——私のスキルの本質を、見抜いている?)

ヘレネの背筋に、微かな寒気が走った。

それは恐怖ではなかった。もっと別の——言葉にしがたい感覚だった。

だがレオンは次の瞬間、何気ない口調で言った。

「エレクトロサーキット——電磁系のスキル体系か。ハルトマン伯爵家は面白いものを受け継いでいるな」

ヘレネの足が止まった。

「……あなた、今のが何だったか、わかっているの」

「電磁パルスを視覚経路から送り込んで、感情中枢に干渉するスキルだろう。精度は高い。四つ星級の魔法師でも気づかないんじゃないか」

ヘレネは凍りついた。

表情を崩さないことには慣れている。だが、今この瞬間——ヘレネの内心は嵐だった。

スキルが効かなかっただけではない。原理まで看破された。しかも「電磁パルス」「視覚経路」「感情中枢」——ヘレネ自身が師から教わった時ですら、ここまで明確に言語化されたことはなかった。ハルトマン家ではこのスキルを「心撫の灯」と呼び、秘伝として口伝でのみ受け継いできた。その本質を、一度見ただけで解体した。

「……あなたは」ヘレネの声が、わずかに震えた。「錬金系の魔法師が、なぜ電磁系のスキルの原理をそこまで——」

「錬金系は物質の本質を扱う。物質の振る舞いを支配する法則を学ぶのは、当然のことだ」

嘘ではなかった。だが全てでもなかった。

この知識の本当の源泉は、前世で学んだ「物理学」という、この世界には存在しない体系だ。

ヘレネには、それを知る必要はない。

「一つだけ言っておく」レオンは前を向いたまま、静かに言った。「お前のスキルは俺には効かない。だが、それとは関係なく——お前と組む判断は変わらない。遺跡の中では、俺はお前の背中を守る」

ヘレネは数歩の間、無言だった。

それから——極めて小さく、息を吐いた。

「……恐ろしい人間ね、あなたは」

「褒め言葉として受け取っておく」

「褒めていない」

「そうか」

二人は並んで歩き続けた。

ヘレネの胸の中に、魅惑スキルとは無関係の——自然な、小さな関心が芽生えていた。

ハルトマン家の秘伝を一目で看破し、原理を言語化し、その上で何事もなかったように組む約束を守ると言い切った少年。

このような人間に出会ったのは、生まれて初めてだった。

(この遠征が終わった後も——この男のことを、忘れられない気がする)

ヘレネはその予感に、自分でも少し驚いていた。

◆◇◆

エヴィルは少し後ろを歩きながら、ヘレネとレオンが並んで歩く姿を見ていた。

ヘレネがレオンに何か話しかけた時、一瞬だけ——ヘレネの瞳の奥に青白い光が見えた気がした。

エヴィルはハルトマン伯爵家のスキル体系について、噂程度には知っていた。電磁系の魅惑応用。対象の感情を操作する技術。

(……あの子、レオンに魅惑を使った?)

エヴィルの目が僅かに鋭くなった。

だがレオンの様子は何も変わらなかった。いつも通りの平坦な声で、いつも通りの淡々とした態度で、ヘレネと会話している。

(効いていない……)

安堵した。それは確かだった。

だが同時に、ヘレネがレオンに対してそのスキルを使ったという事実自体が、エヴィルの胸に小さな棘を残した。

ヘレネ・フォン・ハルトマンは、誰に対しても等距離の女だ。興味のない相手に、あのスキルをわざわざ使うことはない。

つまり——ヘレネはレオンに、本気で興味を持っている。

エヴィルは前を向いた。

胸の奥の棘が、また少しだけ深くなった。

エヴィルはその感情に、今日もまた名前をつけなかった。

◆◇◆

隊列は森の奥へと進み続けていた。

木々の間から差し込む光が少なくなり、空気が重くなっていく。旧帝国の遺跡が近い。

レオンは歩きながら、吸収したクラウスの魔力を自身のサーキットの中で静かに精製していた。荒い魔力が浄化され、レオンの回路に馴染んでいく。

容量がわずかに広がった感覚がある。

(悪くない。この調子なら、遺跡に入る前にもう少し拡張できる)

レオンは前を見据えた。

遺跡の中には、テラフォーマーがある。

それが、この遠征における本当の目的だ。