軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

9.歪められた救済 side王太子

side 王太子

「……美しかったな」

風が、薄いカーテンをわずかに揺らす。

そのかすかな音だけが、広い執務室に虚しく響いていた。

私は重厚な椅子に深く身を沈め、机上に積み上げられた報告書の山を見下ろす。だが、一枚一枚に目を通す気力など湧かないし、そこに書かれた文字は、何一つ頭に入ってこない。

視線は紙面に落ちているのに、意識は別の場所を彷徨っている。そう、頭の中では、どうしようもなく一人の面影が揺らめいていた。

――ルシアーナ。

冷静で、慎み深く、感情を表に出さぬ女。

それが、私の中で固定された彼女の像だった。

賢しいが、華はない。有能だが、男を惹きつける類の女ではない。

ずっと、そう信じて疑わなかった。

だが――。

彼女が、あの場で、ベールを取った瞬間。その認識は、音を立てて崩れ落ちた。

陽光を受け、惜しげもなく流れ落ちる金の髪。淡く光を湛えた瞳は、水晶のように澄み渡り、ただ見つめられただけで、心の奥を覗き込まれるような錯覚を覚えた。

引き結ばれた唇が、ほんのわずかに弧を描く。

その微笑には、媚びも、怯えも、期待もない。

ただ、凛とした気高さと、侵しがたい清らかさだけがあった。

――あれほどの女だったとは。

呼吸をしていたかどうかすら、定かではない。

気づけば、私は周囲のざわめきも、儀式の進行も、すべてを忘れ、ただ彼女だけを目で追っていた。

誰かが何かを言っていたはずだ。だが、耳に入らなかった。

世界は、彼女を中心に回っていた。

「……どうして、今まで気づかなかったのだろうな」

呟きは、自嘲を帯びていた。

いや、違う。気づかなかったのではない。気づこうと、しなかったのだ。

彼女は、私の婚約者だった。

いつでも隣にいて、当然の存在だった。

だからこそ、その価値を測ろうともしなかった。胸の奥で、悔恨が軋む。彼女の姿は脳裏に焼きつき、離れようとしない。

「……惜しいことをした」

胸の奥が、ぎり、と軋む。

美というのは、気づいた者だけが手にできる。

それを、私は自ら手放した。

そして彼女は、魔方陣の光に包まれ、消えた。――ユリウスを伴って。

その光景を思い出すだけで、胸の奥が焼けるように痛む。

ユリウス。

宰相補佐として有能で、常に穏やかな微笑を浮かべる男。いつの間にか、彼女の隣にいるのが当たり前になっていた存在。

以前は、ただの便利な部下だと思っていた。

自分の仕事を増やしてまで、ルシアーナを、他人を支える、酔狂な男だと。

だが今は違う。

あの男が、ルシアーナの微笑を独占していた。そう思うだけで、理性が黒く濁る。あの美しいルシアーナの隣に、あの男がいたという事実だけで、胸が締めつけられる。

「……なぜ、あいつなんだ」

理解は、している。

彼は彼女を助け、支え、共に働いていた。

だが、それでいいはずがない。

彼女の隣に立つ資格があるのは、王太子である私だ。

ただの引き抜き。それでもルシアーナの微笑を受け、手を取ったのだと思うと、どうしても納得がいかない。

ふたりが手をつなぎ、光の中へ消えていった光景。

その残像は何度振り払っても消えない。

「……隣に立つべきは、私だった」

拳を机に叩きつける。

鈍い音が響き、書類の山がわずかに崩れた。

婚約を解消したのは、私自身だ。だが、それが永遠の別れを意味するとは限らない。

――まだ、終わってはいない。

「もし……もう一度、機会があるなら」

視線を落とした先で、別の名が、ふと胸をよぎる。

「……いや。サラも、だ」

異世界から来た少女。

黒髪に、黒に近い深い茶の瞳。

この世界には存在しない色彩。だからこそ、特別で、愛おしい。

素直で、感情が分かりやすく、扱いやすい。

ルシアーナのように、何を考えているのか分からぬ不安もない。

だが――。

私は、よく理解していた。

彼女は、王妃の器ではない。

国の儀式も、社交の駆け引きも、政治の重みも知らぬ。努力はしているが、幼い。

王妃として隣に立たせるには、あまりにも不安定だ。何とかなるだろう、母上もそうだからと目を背けていた。

しかし、それに比べ、ルシアーナは違う。生まれながらに、王妃として育てられた女。

ならば。

答えは、ひとつしかない。

――ルシアーナもサラも両方を、手に入れればいい。

思考がそこに至った瞬間、不思議なほど、心が澄んだ。

ルシアーナを正妃に据え、国の象徴とする。

サラには、形式に縛られぬ立場を与え、私の傍に置く。

誰も損をしない。国も、私も、そして彼女たちも。

「……これが、最も合理的だ」

父王の反対は、予想できる。だが、筋書きはある。

ルシアーナを“異端”として捕え、そして、私が赦す。

悔い改めた女神の使徒を救う王太子。

これ以上ない、美談だ。

「女神ですら、否とは言うまい」

口元が、自然と歪む。

すべては、掌の中にある。そう信じて疑わなかった。

「父上に願い出よう。女神の使徒を国に戻し、私の妃とする、と」

立ち上がると、足取りは軽い。

脳裏には、二人の女が並んでいる。

凛としたルシアーナ。

柔らかく微笑むサラ。

――ああ、なんと、完璧な調和だろう。

「やはり私は、選ばれし者なのだな」

執務室を出ると、石造りの廊下はひんやりと静まり返っていた。

足音が高く反響する。完璧な計画に思わずにやける。

――落ち着け。

私は表情を整え、歩調を緩める。

そのとき、廊下の向こうから、軽やかな足音が近づいてきた。

「あ! 殿下」

聞き慣れた声。顔を上げると、そこに立っていたのはサラだった。

淡い色のドレス。

この国の流行にはまだ馴染みきらないが、それがかえって彼女の愛らしさを際立たせている。

少し緊張したように、けれど嬉しそうに微笑むその顔を見て、私は瞬時に“王太子の仮面”を被った。

「サラ。探していたよ」

声の調子を落とし、柔らかく。彼女の存在だけが、今の私を癒しているかのように。

彼女は驚いたように目を瞬かせ、すぐに頬を緩めた。

「本当ですか? お忙しいと思って……」

「忙しくても、君の顔を見る時間くらいはある」

そう言って、そっと距離を詰める。

周囲に人がいないことを、さりげなく確認しながら。大事にしていると思わせるには、十分だ。

「疲れていないか? 最近、覚えることも多いだろう」

「はい……でも、大丈夫です。殿下が、いつも気にかけてくださるから」

ああ、そうだ。彼女は、私を信じている。

しかし、これからしようとすることは“裏切り”ではない。最善だ。

私は彼女の手を取った。包み込むように、やさしく。

「無理はしなくていい。君は、そのままでいればいいんだ」

「……そのまま、ですか?」

サラは小さく首を傾げる。その仕草すら、愛らしい。

だが――。

彼女の瞳が、ほんの一瞬だけ、私の顔を探るように揺れた。

「殿下……」

何かを言いかけて、言葉を飲み込む。

「どうした?」

「いえ……」

彼女は曖昧に笑った。だが、その笑みは、どこかぎこちない。

「……なんだか、今日の殿下、少し違う気がして」

――まずい。顔に出たか?

「そうか? 気のせいだろう」

即座に否定し、微笑みを深くする。

「ただ、いろいろ考えることがあってね。君のことも、これからのことも」

“君のこと”。その言葉に、サラはほっとしたように息をついた。

「よかった……私、何か悪いことをしたのかと思って」

「そんなはずがない。サラ。君は、私にとって大切な存在だ。それは、これからも変わらない」

嘘ではない。大切な存在が増えるだけだ。

彼女は嬉しそうに微笑んだ。

だが、その奥に、わずかな陰りが残っているのを、私は見逃さなかった。

「……はい。ありがとうございます。でも……やっぱり……」

「ん?」

「いえ、なんでもありません」

彼女は首を振り、笑顔を作った。けれど、その笑みは、どこか無理をしているようにも見えた。

――気づいているのか?

いや、違う。

サラは聡いが、政治の匂いを嗅ぎ取れるほどではない。

これは、ただの不安だ。異世界に放り込まれた少女が抱く、漠然とした恐れ。

「心配しなくていい」

私は彼女の頭に、そっと手を置いた。

「君は、私が守る」

サラは小さく頷いた。

「はい。殿下」

その声は、かすかに震えていた。

何の震えか、私はその意味に気づかないふりをして、微笑みを崩さなかった。