軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

百三十六話 〝明日への光〟

* * * *

「────〝 終わりなき日々を(ラスティングピリオド) 〟が【匣】に向かっただあ!?」

ところ変わって、迷宮都市フィーゼルに位置するギルドの中。

満身創痍のロキやガネーシャがタソガレの魔法で転移をしてきたのを見つけるや否や、ギルドマスターであるレヴィエルはその事情を聞く羽目になっていた。

どうして、見慣れない人間────ヴァネサがいるのか。

ガネーシャを連れ戻しに向かったアレク達がどうしていないのか。

殆ど半壊状態で、下手をすれば地図から消えても何らおかしくなかったメイヤードで一体何があったのか。根掘り葉掘り聞こうとするレヴィエルであったが、真っ先に口にされた【匣】の言葉にレヴィエルは頭を抱える他なかった。

「……カルラ・アンナベルの失踪やら、色々言いてえ事はあるが、【匣】はいくら何でもマズイだろ」

なんで、てめえら止めなかった。

満身創痍の様子から、それは無理だったと察しながらも責めずにはいられなかったのだろう。言葉にこそされなかったが、視線が口ほどに物を言っていた。

「タソガレが介入してきたんだよ。それでも僕だって一応止めたさ。でもあれは無理だった」

ロキが言う。

〝大陸十強〟に数えられる研究者。

通称、〝毒王〟タソガレが介入していた時点で、止める事はほぼ不可能であった。

「……だとしても、ダメ過ぎるだろ。百歩譲って、ただの【特区】なら良かった。だが、【匣】は話がちげえ。そもそもあれは、形式上、【特区】と呼んでるが、オレに言わせりゃあんなもん、【特区】でも何でもねえよ。モノホンの〝禁足地〟だ。他の場所とは訳がちげえ」

ロキと一緒になって執務室に引き摺り込まれていたガネーシャが片眉を跳ねさせる。

ここまで近づくな危険と言われてしまうと特別な何かも眠っていると捉えたのだろう。

期待の色を瞳の奥に湛えたあたりで、レヴィエルが露骨に呆れてみせた。

「死にたくねえなら迂闊に近付かねえこった。あの場所で得れるもんなんざなにもねえよ。とはいえ、【匣】だけは足を踏み入れようとしてもどうにもならねえが」

「……それは、どういう事だ? 【特区】は基本的に、ギルドの管轄だろう」

だから、フィーゼルのギルドマスターであるレヴィエルや、〝夜のない街〟レッドローグの責任者であるローザに許可を得れば立ち入る事くらいは出来るのではないかと。

しかし、ガネーシャの言い分は他の【特区】にのみ適応される言い分であった。

「だから何度も言ってんだろ。【匣】だけは訳がちげえって。ギルドの管轄になってこそいるが、アレは創設者のリヴェット・アウバを始めとした一部の人間にしか権限が与えられてねえ」

ちなみに、リヴェットを除いて誰に権限が与えられているのか、オレですら全く知らん。

と、【匣】の異質さをレヴィエルは露呈する。

「それだけ秘匿されてるなら、人員も少ないだろう。寧ろ、他の【特区】よりも余程出入りしやすいように思えるが」

「普通はそう思うよな。だが、【匣】には奇妙な噂があってだな」

気まずそうにレヴィエルは頬を掻く。

半信半疑だったのだろう。

複雑な表情が内心を物語っていたが、それでも彼の中で無視できない根拠が一抹でもあったのか、一応信じているようだった。

「それが本当ならやっぱり立ち入るのはナシだと思うぜ」

「……奇妙な噂ぁ?」

「…………」

得体の知れない噂がある程度で引き下がってくれる連中じゃねえよな、と分かっていた事実に目を細めながらレヴィエルは聞き返すロキに打ち明ける事にする。

「……およそ百年前に行われた【匣】の攻略。そこに参加していた当時の連中の一部が実は生き残っていて、管理に携わってるっつー噂だよ」

一瞬、ロキはレヴィエルの頭がおかしくなったのかと呆れるあまり、ぽかんと目を皿にした。

「……頭、大丈夫?」

「大丈夫だ。オレ自身も全面的に信じてる訳じゃねえ」

「……だとしても、百年前の冒険者だろ?」

レヴィエルの言い分は、半信半疑に近いものだ。つまり、半分は信じているということ。

突拍子のない明らかなホラ話を信じる要素がどこにあるのだと、ロキはレヴィエルの正気を疑った。

「ロキの疑問は尤もだ。オレだって信じてねえ。百年前だぞ? 一部の〝大陸十強〟のような化物共は兎も角、万が一、百年も生きてりゃ今頃ヨボヨボのジジババだ。そんな連中に【匣】を管理出来るとは思わねえ。普通に考えて、隠れ蓑だろうよ」

不都合な事実を隠すために気味の悪い噂を誰かが意図的に流したのだろう。

普通はそう考える。

レヴィエルもそう捉えた。

「だが、切って捨てるには不可解な点が残り過ぎてるのも事実なんだわ」

「不可解?」

「おうよ。ちなみにだが、お前さんらは〝 明日への光(スペス) 〟っつー冒険者パーティーを知ってるか?」

「知らないな。駆け出しのパーティーか何かか?」

「いいや、全く。でも、そうだよな。 知らねえ(、、、、) よな。オレだって、冒険者をしてた頃はそんなパーティー聞いた事もなかった」

「……何が言いたいんだよ、レヴィエル」

要領を得ないレヴィエルの言葉に、ロキは不機嫌を隠そうともせず口を尖らせる。

「〝 明日への光(スペス) 〟はな、百年前に〝最高傑作〟と名高かったパーティーの名前だ」

百年も前の話である。

ロキはおろか、レヴィエルですら生まれていない昔の話。それがどうしたのだと本来ならば笑い飛ばせば良かった。

けれど、今レヴィエルが話題に出した理由。

加えて、〝最高傑作〟と名高かったという情報を前に、真っ先にロキの表情が曇った。

あまりに、おかしいのだ。

どうして────百年前に〝最高傑作〟と呼ばれていた筈のパーティーの名前を、ロキは一切知らないのだろうか。たった一度として聞いた覚えもないのだろうか。

「……気づいたか」

表情を読んで、レヴィエルは話を続ける。

「そうだ。【匣】の攻略に参加して、【匣】で命を落としていたとしても、そいつらの実績が消える訳じゃねえ。なのに、〝 明日への光(スペス) 〟だけじゃねえ。百年前に【匣】の攻略に参加した連中の事を、誰も知らねえ。異様だよな。間違いなく、誰かの手によって情報が消されてやがった」

考えられる可能性は二つ。

【匣】の攻略の最中に、冒険者の間で表に出せない何かが起こり、冒険者の悪評を防ぐために秘匿したか。

もしくは、彼らの名前を残したままだと不都合な事実が今現在もなお、続いているのか。

そこに、先の突拍子のない噂を踏まえると、愉快な可能性が一つ浮上するのだ。

「オマケに、【匣】は現存する唯一の、攻略失敗【アルカナダンジョン】でもある。その出来事を境に、創設者であるリヴェット・アウバも姿を消した。だから言ってんだ。【匣】にだけは近づくなってな」

不用意に近付けば、呆気なく命を落とす羽目になるだろう。

そうでなくとも、ただでさえ【匣】に関しては謎が多過ぎる。とレヴィエルは締め括る。

「……だから、否定しきれなくて信じてるってか。その頭の悪い噂が真実な可能性を」

「仮に噂が本当だったとして────そいつらがちゃんと人間である可能性すら、オレは怪しいと思ってるぜ」

とどのつまりそれは、屍のような状態で、何かしらの意思によって突き動かされている、とか。

「だとすると、名前を消したのも納得がいくだろ。これまでのそいつらの名誉を想って、名前を消した、とかな」

考えれば考えるほど、悪い予感を真実だと仮定すると辻褄が合っちまうんだよとレヴィエルは渋面を見せながら吐き捨てる。

「兎にも角にも、【匣】の情報がねえし、シュトレアはここからじゃ遠過ぎる」

どれだけ急いでも、数日はかかる距離にフィーゼルは位置していた。

馬鹿正直に向かった場合、到着した時には既に全部が終わってしまった後。という可能性だってあり得てしまう。

「……だから、見捨てるとでも言うのか」

並べられる言葉は出来ない理由ばかり。

正当化した上で、仕方がなかったと見捨てる為の布石とも思えたが、「んなアホな」とガネーシャの言葉をレヴィエルは一蹴する。

「【匣】絡みってなると、切れる手札は限られてくる。〝天旋〟には声を掛けるとして」

アレク達の元担任教師。

ローザ・アルハティアの二つ名を口にしながら、自由が利きそうでかつ、【匣】絡みだろうが、アレク達の救出なら動いてくれそうな戦力を探る。

やがて、たどり着く鬼札。

「……随分と早くはあったが、借りを返して貰う時が来たな」

「借り?」

「おうよ。ちっとばかし前に、地下闘技場を半ば強引に使いやがったアホタレがいてだなあ? その借りを、返して貰うしかねえな」

「……ちょっ、と待とうかレヴィエル? その借り、ってまさか」

「そのまさかに決まってんだろ」

フィーゼルに滞在していたロキは、借りの一部始終を知っている。

その借りが、そこまで意味をなさない事も。

それこそ、本当にギリギリ借りとして認識されるかもしれない程度のものである事も。

「ロキ。今からアイファの下に向かって────ガルダナに連絡を飛ばせ。んで、一字一句間違わずにこう伝えろ」

副ギルドマスターの名前を呼びながら、苦渋の選択をレヴィエルは下す。

「お前さんらの落とし前のために巻き込まれたあの時の借りを返せってな────!」

* * * *

「────ノベレット・アンデイズ。うーん。その名前、僕の記憶が正しければやっぱりどこかで聞いた事がある名前な気がするんですよねえ」

〝匣〟の外への案内役を買って出た、もとい、協力せざるを得ない言質を取られていた骸骨が唸る。

「……別に、〝先生〟の正体なんざ、今更気にしてねえよ。昔は暴いてやろうと躍起にすらなってたが、今はそういうもンだと思ってる」

重大な秘密を隠していたとしても、過ごした時間に嘘はない。

オーネストにとって、ノベレット・アンデイズが何者であろうと〝先生〟である事に変わりはない。その事実さえ確かであれば十分だと言い切る。

「それよりも、てめえの話だろ。もうそういうもンだと受け入れつつあるが、なんで骸骨が当たり前のように喋ってンだよ」

足を止めて、骸骨は肩越しに振り返る。

「あン?」と不思議そうに見詰めるオーネストと見合わせ、やがて骸骨は数秒の黙考の末、気まずい沈黙の中、首を傾げた。

「…………なんでなんですかね?」

「こっちが聞いてンだよ!?」

嘘をついている様子もなく、本当に知らないようだった。

ならば、目の前の骸骨は生まれた時からずっと骸骨で、変異した結果、人間の言葉を理解出来るようになったのだろうか。

一瞬そう思いはしたが、それにしてはこの骸骨が人間臭すぎた。

「僕にも、どうしてこうなったのか未だによく分かってないんですよねえ。記憶も色々と混濁してますし、百年前に【アルカナ】の攻略に参加したところまでは覚えてるんですけど、その前後の記憶が何故か思い出せなくて。気付いたらこの通り、喋る骸骨になってましたねえ」

他人事のように告げられた言葉に空気が凍る。

しかし、骸骨はそんなものもお構いなしに、「じゃなきゃ、こんな【特区】を彷徨いてませんって」などと冗談めいた様子で笑っていた。

だが、俺達の内心は気が気でなかった。

先の発言を真実と捉える理由は殆どないのだが、嘘をついている様子はない。

聞き流してくれと言わんばかりにさらっと口にされたせいで、余計に真実味があった。

「…………百年前の【アルカナ】の参加者だと」

「どうして未だに生きているのかも、骸骨になったのかも、全く分からないんですけどねえ。ただ、この姿で人里に戻る訳にもいかなくて。仕方なく【匣】で活動してるって訳です」

筋は、通っていた。

確かめようのない内容ではあるが、ここは【アルカナダンジョン】。

常識なんてものを頑迷に信じた人間から足を掬われる場所である事を考えるに、そのくらいの奇想天外な出来事はあっても何らおかしくないようにも思える。

「……あんたみたいな奴が、他にもいるのか」

「可能性としては十分あるでしょうねえ。でも、僕は一度として出会った事はありませんが。似たようなところで言うと、〝瘴魔〟には偶に出会しますがそのくらいですね」

思い出す。

骸骨と出会った時、彼は〝瘴魔〟に襲われたんじゃないか。そう言っていた。

あの時は気にも留めなかったが、一体、〝瘴魔〟とは何なのだろうか。

「〝瘴魔〟って言うのは」

質問が意外だったのか。

若干の驚きを滲ませながら、骸骨は答える。

【アルカナ】に足を踏み入れる上で、〝瘴魔〟の知識は必要不可欠なものだったのやもしれない。

「〝瘴魔〟は、【アルカナ】の〝瘴気〟に犯された人間の事で────分かりやすく言うなら、〝魔人〟のなり損ないですかね」

ダンジョン特有の病〝迷宮病〟。

発症したが最後、殺すしかないその病のなり損ないという説明は、嫌になるくらい分かりやすいものであった。

「〝瘴魔〟は、緩やかに進行する〝迷宮病〟に罹患した人間の呼称です。発症したが最後、次第に身体の一部が〝魔人〟に近づいて行き、最後は理性すら失い〝魔人〟と同じ化物になる」

ならば、対処法はやはり殺すしかないのだろうか。そう早合点しようとした俺達に向けて骸骨は言葉を続ける。

「ですが、〝魔人〟とは異なり、〝瘴魔〟には進行を食い止める方法があります。彼らは〝人間〟であって〝魔人〟ではありません。けれど、周囲がその理解を示してくれる事は殆どない」

【特区】への悪感情。

〝魔人〟に対する恐怖。

それらを助長するギルドの対応。

「結果、爪弾き者にされ、ギルドが指定した禁足地である【特区】に押し込められる。そして症状は悪化し〝魔人〟に成り果てる。負の連鎖です。だから、僕はこんなナリですし、【匣】攻略に参加した者として、なけなしの義務感で〝瘴魔〟をどうにかしてるって訳です」

「……聞く限り、筋は通ってるな」

「だって僕、嘘言ってませんから……!!」

骸骨でも、痛覚は何故か生きてるので殴られると痛いんですよ……!!

と、先程までの折檻役のオーネストを物凄い形相で見詰め、必死に潔白を訴える。

「……そんな訳で、どんな事情で、どういう手段で【匣】にやって来たのかは存じ上げませんけど、出来る事なら────【匣】には戻らない事をおすすめしますね」

それが、難しい願いだという事を承知の上で、ダメ元で骸骨は口にしていた。

どんな理由があれ、【匣】に足を踏み入れている者が真面な訳がない。

己自身がそうであるからこそ、余計に分かり切っていたのだろう。

「……考えとくよ」

うわべだけの言葉と理解して尚、骸骨はそれ以上の言葉を重ねる事はなかった。

俺達が【匣】にやって来たのは────やってこれたのはタソガレの助力があったからこそだ。

口約束で、破ったとして何かペナルティが即座に発生する訳ではない。

だが、あの場においてタソガレが無意味な依頼をする訳もなく、その上、俺達はギルドの創設者であるリヴェット・アウバや〝スカー〟で知られるルナディアに会わなくてはならない。

エルダスとカルラ。グランの安否の確認の為にも、無駄に出来る時間など一時もなかった。

とどのつまり、どうあっても俺達は【匣】から逃げる選択肢がないのだ。

やがて気まずい沈黙の中、歩き続ける事十数分。漸く変化が生まれた景色を前に、骸骨が立ち止まる。

「この先を行けば、シュトレアの外れに位置する村の近くに出る筈です。湖畔のそばにあるのですぐに分かると思います」

案内はここまでという事なのだろう。

見た目の関係上、喋る骸骨が人里に向かうと混乱を招くのは必然であった。

「そういうわけで、それでは────」

「アレク・ユグレット」

「?」

踵を返そうとする骸骨を、俺が引き止める。

唐突に名前を名乗るものだから、思わず疑問符を浮かべていた。

「あんたに忠告されはしたけど、きっと俺達はまた【匣】に向かうと思う。もう一度会った時も、骸骨呼ばわりするのも失礼だろ」

迷惑を掛けられこそしたが、その謝罪は受け取り、道の案内まで請け負ってくれた。

話す限り、悪人でない事も分かった。

もう一度会う機会があれば、また言葉を交わす機会もあるだろう。

そんな相手を、骸骨と呼ぶのは気が引けると言った俺に、彼は笑った。

「……アッシュです。僕は、 確か(、、) そう呼ばれてました」

やや悩んだ上で、骸骨────アッシュは答える。

言いたくなかったというより、先の間は必死に思い出そうと試みていた事で生まれた沈黙のように思えた。

「分かった。迷惑も掛けられたが、助かったよアッシュ。あんたは会いたくないだろうが、また会う機会があればまた道を案内してくれると助かる」

「ええ、そのくらいなら構いませんよ」

【匣】に立ち入る事はつまり、〝瘴魔〟に成り果てる可能性が生まれるという事。

特別嫌っている相手でもない限り、誰であってもそれを望む事はないだろう。

やがて、最後の最後まで胡散臭いものを見る目をやめなかったオーネストが足早に歩き出す。見覚えのある道だったのやもしれない。

俺はその背中を見失わないよう、大声で礼を口にするヨルハとオーネストを慌てて追いかけるクラシアと共にアッシュに背を向け別れる事になった。

「────嗚呼、そうだ。やっと思い出した」

アレク達と別れて数分ほど後。

喉に刺さった小骨のように煩わしく頭に残り続けていた疑問が漸く氷解する。

骸骨────アッシュの脳裏にあるパーティーの姿が浮かんだ。

誰も彼もの顔が靄がかっている。

記憶に残るやり取りも、全てノイズがかっている。その中で、唯一思い出せた事実。

アッシュが人間だった頃、強く憧れたパーティーがあった。

当時、誰もが強い信頼を寄せていたパーティーがあった。

幽かに残る確かにあった強い感情が、虫食いの記憶ながら思い起こさせてくれた。

衒いのない人柄で、当時は知らない人間など一人としていなかったパーティー。

血の繋がりがないにもかかわらず誰もが同じファミリーネームを使っていた伝説のチーム。

「ノベレットまでは思い出せませんでしたが────〝アンデイズ〟。〝 明日への光(スペス) 〟のファミリーネームが、確かそんな名前でしたね」

手垢まみれの言葉であったが、アッシュは彼らを間違いなく〝伝説〟だと思っていた。

眼球のない眼窩でかつてを懐かしみながら、アッシュは振り返る。

思い出すのが少し遅かったからだろう。

アレク達の姿はやはりない。

〝アンデイズ〟の件は、彼らが【匣】に戻ってくるならば、会う機会もあるだろう。

その時に話せばいいだろう。そう思い、思考を打ち切ってアッシュは歩を進める。黄昏が砕け、微細な光が暗闇に覆われ始めた時間帯。

「いやまったく、睡眠を必要としない身体は便利ですが、記憶力が貧弱過ぎて困ったものですねえ」

疲労も殆ど感じない。

眠気も、食欲も、何もかもが欠落している。

人間としてあるべき筈のものが、殆ど感じられない。痛覚こそ、存在してはいるが、生きているという言葉を使う事が烏滸がましく感じてしまうほどに何もなかった。

それでも歩き続けている理由は、たった一つ。どうしても思い出せない過去に囚われているからだ。

「……本当に、いつになったら思い出せるんですかね。どうして生き残ったのが僕だったのか」

アッシュは空を見上げる。

生きているという表現が正しいかすら分からない状態。しかしアッシュの意思は確かにここにある。

今、ここにいたのが〝アンデイズ〟の人間だったならば────もう少し、【匣】の現状もマシだったのではないのか。

もう幾度繰り返したか分からない口癖のような呟き。答えはもちろん、返ってこない。

随分と慣れてしまった寂寥感に浸りながら慣れ親しんだ道を歩く。

程なく、アッシュは【匣】の中に姿を消した。