軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第154話 斬れなかった影•前編

黒い樹皮の奥で、俺の顔が笑った。

濡れた石のような幹に映ったそいつは、俺と同じ黒髪で、俺と同じ目をしているのに、口元だけがひどく歪んでいた。

足元では俺の影が、踏みつけたはずの地面から剥がれ、黒い樹液みたいに根へ流れ込み、足首からふくらはぎへ、冷えた泥を巻きつけてくる。

俺はアストラルフレイムの柄を握り直したが、指の腹が滑り、掌の汗を吸った革の感触だけがやけに生々しく残った。

「……ふざけんな」

声は喉の奥で割れた。

目の前の巨木は、森の中心に一本だけ立っていた。高すぎる枝は霧の上へ消え、葉の一枚一枚が黒い硝子みたいに光を弾き、根は大地を割って、鏡面の水を吸い上げている。

禍々しい。

なのに、踏み込んだ足裏に伝わる震えは、神殿で剣を握った時に似ていた。

穢れたものを前にしているはずなのに、膝をつけと言われているような圧がある。祈りの場に立たされたみたいに、呼吸の仕方まで奪われる。

幹を覆う黒い樹脂は、ただの樹液じゃなかった。夜を煮詰めて磨いた鏡みたいに、俺の顔も、肩も、剣の先も、歪ませながら映し返してくる。

その奥に、もう一人の俺がいた。

俺が瞬きをするより先に、そいつが笑う。

俺が息を吸うより先に、そいつの肩が揺れる。

俺の体から剥がれた影が、足元でぬるりと首をもたげた。輪郭のない黒いものが、地面に貼りついたまま背を伸ばし、俺と同じ形になっていく。

「パパ……?」

ジュリアの声が、背中の遠いところで震えた。

振り返ろうとした。

首が動かなかった。

肩の骨に、根が食い込んだみたいだった。腕を上げようとしても、肘から先が水の中に沈められたように重い。アストラルフレイムの切っ先が黒い地面を引っかき、甲高い音を立てた。

「パパ、うごかないで! ぼくがいく!」

「アイン、だめ!」

ミユウの声が、風を切って近づいた。

白い羽の気配が背後で膨らみ、次の瞬間、黒い幹が低く鳴った。鐘の音ではない。獣の喉でもない。大地の底で巨大な扉が開くような、腹の奥に響く音だった。

「あなた!」

ミユウの手が俺の肩に触れる寸前、幹から細い黒枝が何本も走った。

「っ……!」

振り返れないまま、白い羽が視界の端を横切った。

弾かれた音がした。

柔らかいものが石を転がる音。羽が地面を擦る音。ジュリアの息を呑む音。

「ママ!」

「ママ、だいじょうぶ!?」

俺は奥歯を噛んだ。

首の後ろに熱が走る。剣を持つ手に力を込める。なのに、足元の影が俺の意思を吸い取るみたいに根へ溶けていく。

幹の中の俺が、口を開いた。

声は聞こえない。

それでも、何を言ったのか分かった。

――斬ればいい。

黒い鏡面に映る俺は、血のついていない顔で笑っていた。

その足元には、折れた枝でも、砕けた石でもないものが散らばっている。俺がこれまで剣を向けてきた敵の影。守るために斬ったもの。迷わず踏み越えたもの。

それだけじゃない。

映った俺の背後で、白い羽が黒く濡れていた。

「……やめろ」

喉から出た声は、自分のものとは思えないほど低かった。

黒い俺は、白い羽へ手を伸ばす。

俺は剣を振り上げようとした。

腕が動かない。

黒い樹液が手首に絡み、皮膚の上を這い、袖の内側へ入り込んでくる。冷たい。ぬるい。どちらともつかない感触が、血管に沿って上がってくる。

「あなた、聞こえる!?」

ミユウの声がした。

今度は少し離れている。息が乱れて、羽を畳む音が地面に擦れている。

「こっちを見て。あなたは、そこにいるものじゃない」

俺は唇を開いた。

返事をしようとした。

舌が重い。

幹の中の俺が、俺より先に口を動かした。

――本当に?

黒い鏡面に、別の景色が滲んだ。

アルカヌム島の森が消え、足元に赤黒い光が広がる。剣の刃が焼け、腕が震え、俺の前に倒れている影があった。

顔は見えない。見えないのに、俺の手が斬ったものだと、掌だけが覚えていた。

守るために振った剣。

それでも、刃は刃だ。

アストラルフレイムは俺の手の中で小さく軋み、青白い光を放った。いつもなら背中を押してくれる熱が、今は指の骨を責めるみたいに食い込む。

俺の影が、足元から完全に立ち上がった。

真っ黒な俺。

顔のない俺。

輪郭だけが同じで、剣を持たない手がゆっくりと胸に伸びる。

その指が、俺の心臓の位置に触れた。

息が止まる。

冷たい手ではなかった。

そこにあったのは、俺自身の体温だった。

「……っ」

膝が折れかける。

地面に剣を突き立て、肩で息をした。黒い根が剣身を舐め、アストラルフレイムの光を飲もうとする。火のような刃が、一瞬だけ細く震えた。

「パパ!」

ジュリアの声が近づいた。

小さな足音が、濡れた鏡面を叩く。

「ジュリア、まって! パパのところ、くろいのがある!」

「でも、パパが……!」

「ふたりとも、来ないで!」

ミユウの声が鋭く飛んだ。

その声に、子どもたちの足音が止まる。

俺はそこでようやく、ほんの少しだけ首を動かせた。

視界の端に、ミユウが膝をついていた。片方の羽が地面に触れ、白い羽根の先が黒い水に濡れている。立ち上がろうとして、腕で体を支え、唇を噛んでいる。

アインはジュリアの前に立ち、小さな腕を横に広げていた。

ジュリアはその服を両手で握りしめ、俺を見ていた。

その目を見た瞬間、胸の奥で何かが裂けた。

黒い影の手が、俺の胸に沈む。

幹の中の俺が笑う。

――守りたいなら、これも持っていけ。

黒い鏡に、俺の手が映った。

ミユウの手を引く手。

アインの頭を撫でる手。

ジュリアを抱き上げる手。

それから、敵の喉元へ刃を突きつける手。

全部、俺の手だった。

どれか一つだけを選び、残りを捨てることはできない。そんなことは、頭では分かっている。分かっているはずなのに、黒い鏡面に映る刃の角度が、俺の喉を内側から締めつけた。

俺の中に、こんなものがある。

守るためなら斬る。

奪われる前に奪う。

失うくらいなら、先に壊す。

考えたこともないはずの形が、幹の中で俺の顔をして立っている。

「違う……」

呟いた瞬間、黒い根が足首を締めた。

「俺は、そんな……」

言い切れなかった。

黒い俺が、俺と同じ形の口で笑う。

――違わない。

幹の奥で、白い羽がまた黒く濡れた。

ミユウがこちらへ手を伸ばす。

「あなた、違うと言わなくていい」

俺の喉が詰まった。

ミユウの声は、強くも弱くもない。ただ、俺の体に届く場所を探すみたいに、ひとつずつ言葉を置いてくる。

「見えているものから逃げないで。あなたが斬ってきたものも、抱えてきたものも、あなたの手に残ってる」

俺は剣を握った指に力を入れた。

柄の革が軋む。

「そんなものまで、受け入れろっていうのか」

声が掠れた。

「俺が……あんな顔で笑うやつだって?」

黒い巨木の葉が一斉に揺れた。

風はない。

なのに、森全体が俺の返事を待つみたいに、黒い葉を鳴らしている。

ミユウが立ち上がる音がした。衣擦れ。羽根が地面を払う音。足を引きずるわずかな響き。

「あなたが笑ったんじゃない。木が、あなたの一部だけを大きく映している」

「一部なら、あるってことだろ」

言葉が刃みたいに出た。

出した瞬間、舌の根に苦いものが残った。

ミユウは止まらなかった。

黒い枝がまた幹から伸びる。今度はさっきより太い。蛇のように地面を走り、ミユウの足元へ向かう。

「来るな!」

俺は叫び、動かない腕を無理やり引き上げた。

肩の中で何かが裂ける感触がした。剣が半分だけ持ち上がり、アストラルフレイムの刃が黒枝をかすめる。青白い火花が散り、枝の先が焦げた。

けれど、次の枝がミユウの前に立ちはだかった。

「あなた!」

ミユウが両手を広げた。

白い光が羽からこぼれる。神殿で何度も見た癒しの光。傷口を塞ぎ、熱を引き、命をつなぎ止める光。

その光が、黒い幹に触れた。

巨木が低く唸った。

白い光は樹脂の鏡面を伝い、少しだけ奥へ染み込んだ。幹の中の黒い俺が、その光へ顔を向ける。

次の瞬間、鏡面が割れたように黒が跳ねた。

「きゃっ……!」

ミユウの体が後ろへ弾かれた。

羽が大きく開き、白い羽根が数枚、空中で裂けるように舞う。ミユウは背中から倒れかけ、片膝をつき、地面を掌で受け止めた。黒い水が跳ね、白い袖を汚す。

「ママ!」

ジュリアが泣きそうな声で叫び、アインが歯を食いしばって前に出た。

「ぼくが、パパをたすける!」

「アイン、だめ! 根に触れないで!」

「でも!」

「お願い、そこでジュリアを守って!」

ミユウの声に、アインの足が止まった。

小さな背中が震えている。

ジュリアはアインの後ろで両手を握り、俺に向かって口を開いた。

「パパ、かえってきて……」

その声が、黒い樹液より深く胸に落ちた。

俺は息を吸った。

肺に入った空気は冷たく、喉の内側を削った。

戻りたい。

今すぐ、あの子たちのところへ戻りたい。

ミユウの腕を掴み、アインとジュリアを抱えて、この気味の悪い木から離れたい。

それなのに、足元の影は根の中へ流れ続け、俺の体は幹へ引き寄せられていた。背中に硬いものが触れる。黒い樹脂の冷たい面が、肩甲骨に貼りつく。

「くそっ……!」

剣を突き立てて踏ん張る。

刃が地面に食い込み、黒い鏡面に亀裂が走った。亀裂の中から黒い光が漏れ、そこにまた俺の顔が映る。

黒い俺は、もう笑っていなかった。

ただ、俺を見ていた。

剣を持つ俺。

守るものを背にした俺。

受け入れられず、拒みきれず、立ち尽くす俺。

幹の内側から、声にならない声が這ってくる。

――斬ったことがある。

――憎んだことがある。

――消えろと思ったことがある。

俺は歯を食いしばった。

頭の奥に、誰かの悲鳴が残っている。剣を振った後の骨の響き。血の匂い。ミユウの羽を守るために踏み込んだ足の熱。アインとジュリアを守るため、迷う暇もなく前に出た瞬間の視界。

どれも、俺の中にある。

でも、認めたら。

その瞬間、俺はあの黒い俺と同じになる気がした。

「あなた!」

ミユウがまた立ち上がった。

「もう来るな!」

俺は叫んだ。

声が森にぶつかり、黒い葉が震える。

ミユウの足が止まった。

俺は振り返れないまま、言葉を絞った。

「俺がこれを受け入れたら……俺は、あいつになる」

黒い幹の奥で、俺の顔がまた歪む。

「ミユウを守るためって言いながら、いつか、何でも斬る」

アストラルフレイムの光が弱まった。

青白い火が、黒い樹液に舐められて細くなる。

「アインとジュリアの前で、俺は……」

そこから先が出なかった。

ジュリアの小さな手。アインのまっすぐな目。俺を「パパ」と呼ぶ声。

その前に、黒い俺を置けない。

置きたくない。

ミユウが息を呑む音がした。

「あなたは、そうならない」

「分からないだろ」

「分かる」

短い言葉だった。

でも、その一言が、黒い根の締めつけより強く胸を打った。

「あなたは、剣を抜く前に必ず見る。誰が後ろにいるのか、誰を守るのか、必ず見る。だから、あなたは剣を持てる」

俺は目を閉じかけた。

閉じたら、根が一気に飲み込む気がして、瞼をこじ開ける。

黒い樹脂の中の俺が、こちらへ手を伸ばした。

影の分身も、同じ動きをした。

黒い手が、俺の胸の奥を掴む。

痛みはない。

ただ、体の中心から重さが抜けていく。

影がない。

足元を見れば、俺の影はもうほとんど残っていなかった。黒い根の中へ吸い込まれ、幹の奥で濃くなり、鏡面の向こうの俺を形作っている。

「返せ……」

俺は剣を握り、幹へ向けて振ろうとした。

腕が動かない。

黒い樹脂が背中から肩を包み、肘を飲み、手首まで固める。冷たく硬いはずなのに、皮膚に貼りついた部分だけは、脈を打つ肉みたいにぬるかった。

「パパ!」

アインの声が割れた。

「パパ、まけないで!」

ジュリアも叫んだ。

「パパ、ここにいるよ! ジュリア、ここにいるよ!」

俺の喉が震えた。

「……分かってる」

声はかすれ、風に削られた。

「そこに、いろ」

アインが一歩出そうとして、ミユウの羽が前に伸びた。

「だめ。今、近づいたら根に捕まる」

「でも、パパが!」

「アイン」

ミユウの声が低くなった。

「ジュリアを守って」

アインの肩が跳ねた。

小さな手が、ジュリアの前で握られる。

「……うん」

その返事を聞いて、俺は一瞬だけ息を吐いた。

その隙を、巨木は待っていた。

背中の樹脂が一気に広がった。

肩を飲み、胸を締め、腹へ回り、両足を地面ごと幹へ縫いつける。黒い根がアストラルフレイムの刃へ絡み、俺の手から剣を引き剥がそうとした。

「ぐっ……!」

掌の皮が裂れる感触がした。

それでも離さない。

剣だけは離さない。

アストラルフレイムの柄を握る指に、黒い樹液が入り込む。爪の隙間、指の関節、手首の骨の周り。冷たいのに、火傷みたいに疼く。

幹の中の黒い俺が、目の前まで近づいていた。

鏡の向こうにいたはずの顔が、樹脂一枚を隔てて俺と重なる。

同じ目。

同じ傷。

同じ剣を持とうとした手。

俺はそいつを睨みつけた。

「俺は、お前じゃない」

黒い俺の口が動く。

――じゃあ、何を捨てる?

足元の根が、さらに締まる。

視界の端で、ミユウが羽を広げた。

「あなた!」

白い光が、もう一度溢れた。

さっきより弱い。羽の先が震え、地面に落ちた羽根が黒い水に沈む。それでもミユウは手を伸ばし、俺へ向かって歩いた。

一歩。

黒枝が走る。

二歩。

白い光が裂ける。

三歩。

ミユウの膝が沈む。

「来るなって言ってるだろ!」

俺の叫びと同時に、幹から伸びた黒枝がミユウの胸元を打った。

鈍い音。

ミユウの体が後ろへ跳ね、羽が大きく乱れた。

「ママ!」

ジュリアが泣き声を上げる。

アインが飛び出そうとした。

「アイン!」

ミユウが倒れたまま叫ぶ。

その声に、アインの足が止まる。

俺の中で、何かが燃えた。

黒い樹脂が胸まで上がっている。

呼吸が浅くなる。

なのに、指先だけが熱い。

アストラルフレイムが、握った掌の中で細く脈を打った。

「……ミユウに」

俺は歯の間から声を押し出した。

「触るな」

黒い幹が笑った。

音ではない。

根が震え、葉が鳴り、鏡面の樹脂が波打った。

俺の胸元から、黒い俺の腕が突き出した。

鏡の向こうにいたはずの影が、樹脂を破るようにこちらへ伸び、俺の手ごとアストラルフレイムの柄を握る。

重なる。

黒い手と俺の手が重なり、刃の向きが変わる。

剣先が、幹ではなく、俺自身の影へ向いた。

――斬れ。

声は、俺の内側でした。

黒い影を斬れば、楽になる。

見たくないものを切り離せる。

あの顔を消せる。

俺は剣を握り締めた。

刃が震える。

影の分身は、俺の胸に手を沈めたまま、逃げない。顔もない。目もない。ただ、俺の形をして、俺の体温で、そこにいる。

「斬れば……」

言葉が漏れた。

ミユウが地面に手をつき、顔を上げた。

「あなた、斬らないで!」

俺の腕が止まった。

黒い根が一斉に軋む。

「それを斬ったら、あなたが戻れなくなる!」

アストラルフレイムの光が、刃の根元で震えた。

俺は黒い影を見た。

剣を向けられても、影は動かない。

抵抗もしない。

ただ、俺の胸に触れ、俺の中にあるものを、俺に返そうとしている。

黒い巨木は、神聖なほどまっすぐに立っていた。

俺を裁くためでも、壊すためでもなく、俺が目を逸らしたものを、ただそこに映している。

そんな考えが、喉元まで上がった。

けれど、目の前でミユウの羽が黒く濡れている。

アインとジュリアが俺を呼んでいる。

俺は今、ここから戻らなければならない。

それ以外を考える余地なんてない。

「……俺は」

黒い樹脂が鎖骨まで上がった。

声が出にくい。

「俺は、お前を受け入れたくない」

幹の奥の俺が、わずかに目を細めた。

「お前が俺の中にあるなんて、認めたくない」

影の分身の指が、俺の胸の奥を掴む。

温かい。

俺の手と同じ温度。

その感触に、吐き気に似たものが込み上げた。

「でも」

ミユウの息が止まる音がした。

アインとジュリアの声が途切れる。

俺は剣を下ろそうとした。

下ろす。

ただ、それだけの動きが、山を押すみたいに重い。

黒い根が剣を引き上げようとする。斬れと命じるみたいに、俺の腕を操る。影を切り離せと、見たくないものを消せと、幹の奥の俺が笑う。

「俺は……」

掌の裂けたところから血が滲み、柄の革に染みた。

その熱が、指先を戻してくる。

「お前を、なかったことにはしない」

言った瞬間、黒い巨木が震えた。

森全体の空気が重く沈み、足元の鏡面に無数の亀裂が走る。黒い葉が散り、空を覆う枝の間から、白とも青ともつかない光が落ちた。

影の分身が、初めて顔を上げた。

顔はない。

なのに、俺を見た。

俺は剣を離さず、刃を自分の影から外した。

「けど、俺の全部を、お前に渡す気もない」

黒い樹脂が喉元まで来た。

息を吸うたび、樹脂の冷たさが皮膚の下へ入ってくる。

幹の奥の俺が、口を開いた。

――遅い。

背中が幹に沈んだ。

「あなた!」

ミユウの叫びが、黒い膜の向こうで歪む。

アインとジュリアの声も重なった。

「パパ!」

「パパ、やだ!」

俺は足を踏ん張ろうとした。

足がない。

膝の感覚が消えている。

腰から下が黒い樹脂に溶け、幹の中へ引き込まれていた。アストラルフレイムを握る右手だけが外に残り、左腕は肩まで黒に沈んでいる。

視界の半分が黒い鏡面に覆われた。

その内側には、俺の顔がいくつも映っていた。

ミユウを守る俺。

子どもたちを抱く俺。

剣を振る俺。

歯を食いしばる俺。

笑う俺。

泣かない俺。

認めたくない俺。

全部が、黒い樹脂の奥で重なっていく。

「……くそ」

声が潰れた。

ミユウが這うように近づいてくる。

白い羽が地面を擦り、羽根の先が裂けても止まらない。黒枝が彼女の前に壁を作る。ミユウはその枝に手を伸ばし、白い光を灯した。

「返して」

黒枝が焦げる。

「その人を、返して」

黒い巨木が鳴った。

白い光が枝を少しだけ溶かす。

ミユウの手が、その隙間から俺へ伸びた。

あと少し。

指先が届きそうだった。

俺も右手を伸ばそうとした。

アストラルフレイムを握ったまま、指を開く。

でも、黒い樹脂が手首を包み、腕を引いた。

「ミユウ……!」

俺の声はそこで千切れた。

ミユウの指先が空を掴む。

次の瞬間、幹の内側から伸びた黒い腕が、俺の胸を背中から貫くように抱き込んだ。

痛みはない。

ただ、息が完全に奪われた。

視界が黒く閉じる。

最後に見えたのは、アインがジュリアを抱きしめる小さな背中と、ミユウの白い羽が黒い枝の前で震える姿だった。

俺はアストラルフレイムを握ったまま、闇の巨木の中へ沈んだ。