軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百十話 運命が二人を別つとも

ヨトゥン伯爵家からの使者が、アースガルド子爵邸に滞在してから3日目の朝。

穏やかな春の陽気に包まれる中で、クレインにとって待望の時がきた。

「総員、敬礼!」

クレインは屋敷の前に連なる車列を、どこか茫洋とした心持ちで眺めていた。しかしハンスの号令で我に返り、己がやるべきことを思い返していく。

彼は何度もシミュレートした流れを頭に浮かべながら、馬車から降りてきた伴侶を出迎えた。

「お待ちしていました。私がクレイン・フォン・アースガルドです」

「お出迎えありがとうございます」

彼の前に現れたのは、ヨトゥン伯爵家からやって来た令嬢だ。腰まで伸びる銀のプラチナブロンドの髪と、透き通るような青い瞳が印象に残る少女だった。

クレインが出迎えの言葉を掛けると、神秘性を伺わせる容姿の令嬢も、静々と礼を取る。

「アストリ・フォン・アルメル・ヨトゥンと申します」

上品にカーテシーをする彼女は、在りし日と何も変わらない姿だ。

しかし彼女本人に変わりがなくとも、領地の事情や輿入れの時期が変わり、マリーとも既に結婚しているのが現状だった。

以前に何も起こらなかったとは言え、今回も問題なく進むとは限らない。だからクレインは過去よりも、かなり綿密に受け入れの計画を立てている。

例えば粗が目立った家臣団には、整列の訓練や礼儀作法などの教育を施してあり、日々の細々した問題にも、予め解消する目途を立ててからこの場に臨んでいた。

「式の用意は滞りなく進んでいますが、まずは快適な生活ができるように――」

彼は過去と同じく、これから屋敷を新しくするので、アストリや使用人の意見も聞かせてほしいと続けるつもりだった。

今となっては領内の宿も充実しているが、今日から屋敷に迎えたいと伝えるつもりでもあった。

しかし事前に想定していた内容は、何一つとして出てこない。

彼の考えは一向にまとまる気配がなく、告げるべき事柄が次々と浮かんでは、口を突く前に霧消していった。

「クレイン様?」

途中で言葉を止めたことを不思議に思い、アストリは心配そうに顔を覗き込んだ。

しかし二人の視線が交差して数秒が経つと、クレインの様子に異変が起きる。

「……あれ?」

不意に視界が滲んだ次の瞬間。冷たい雫が彼の頬を伝い、服の胸元を濡らした。

クレインの目元からは、とめどなく溢れた涙が静かに流れ落ちている。

しかし前触れや嗚咽はなく、彼は拭ってから初めて、自分が落涙していると気づいた。

「あ、はは、おかしいな。どうしてだろう」

辛い事件や悲しい過去を乗り越えて、命を失う感覚まで麻痺させながら進んできたのだ。クレインはもう、自分が感傷に揺れることはないと思っていた。

人間らしさを捨てるなと注意される機会が増えて、目標達成のためならば、倫理観や善悪を差し置くことも増えた。

個人的な感情や人情は薄れて、涙もとうに枯れ果てたはずだ。

その自認があったからこそ、彼は制御できない感情に戸惑っていた。

「駄目だな。どうにも、止まりそうにない」

「だ、大丈夫ですか?」

彼がこれまでの道程を思い返すと、二度目の人生から結婚するまでの間では、数えきれないほど命を落としてきた。

結ばれてからは幸福な時間を過ごしたが、やがて離れ離れになり、再会までの月日が流れる中でも幾度となく死亡している。

どんなに手を伸ばしても離れていった人が、目の前に立っているのだ。

アストリの姿を間近で再認識したクレインは、覚束ない足取りで彼女に歩み寄った。

「思えば苦難の道だった。だけど、ようやく会えたんだ」

時代の流れに拒まれるかの如く、再会を阻む難題が降り注ぎ続けた。

結ばれるのが許されない定めかのように、仲が引き裂かれ続けた。

しかし運命が二人を別つとも、この日を夢見て手を伸ばし続けたからこそ、再び巡り合えたのだ。

障害の全てを乗り越えて、死に別れてから5年間という歳月を経て、再び結ばれることになった。

だがこの瞬間に至るまで、彼にはこの光景が現実だと信じきれなかった。気が遠くなるほどの長きに亘って隔絶されていたことに、言いしれない不安を抱いていたからだ。

目を離した次の瞬間には、溶けて消える幻なのではないか。そんな錯覚に身を包まれたクレインの手足からは、感覚が薄れていった。

実感を求めた彼は、震える右手をそっと伸ばして、アストリの頬に触れる。

「君はここにいるんだ。間違いなく」

「はい、私はここに」

何が起きているのかは、アストリには理解できていない。だから夫となる人物が感極まっている姿を見て、彼女は涙の理由を考える。

だがクレインの感情が揺れる理由など、すぐに思いついた。東伯との戦いは綱渡りの連続であり、彼自身が命を落としそうな場面も珍しくはなかったからだ。

それを考えれば、自分がここに現れたのは生き延びた証左となるだろう。

緊張の糸が切れるのも当然かと、ここまではアストリなりの解釈で納得できた。

しかしそこから行きつく結論は一つしかなく、顔を伏せた彼女は寂しげな顔で、謝罪の言葉を口にした。

「申し訳ありません。私のせいで貴方と、領地を……戦いに巻き込んでしまいました」

「いいんだ。そんなことはもう、どうだっていい」

クレインが否定しようとも、婚約までの流れを知っているアストリには罪の意識がある。

アストリに触れたことで地に足が着いたクレインは、過去に気づけなかった不安の払拭も課題になると、今後のことを考えられる程度には冷静になった。

それと同時に、使者や家臣が見ている前で涙を流しながら、輿入れしてきた女性の頬に手を触れているのは、流石にやり過ぎだとも気づいた。

「……やり直しが確実なら、いいよな」

クレインの行為は伯爵家への無礼に当たり、アストリ本人にも戸惑いを感じさせる行為だ。醜聞とも言える有様のため、出会いをやり直すことは確定した。

しかしだからこそ、クレインにはどうしても言っておきたい言葉がある。

この瞬間が無かったことになるとしても――無かったことになるからこそ――彼にはやるべきことがあった。

過日に破れた約束を果たすために、彼はもう一歩踏み込んで、アストリを抱き留めながら呟く。

「ただいま。今、帰ってきたよ」

帰郷の言葉は、この場に似つかわしくないものだ。

クレインとしても告げるつもりはなく、今後も抱えて生きていくつもりだった。

しかし状況が許すならば真っ先に言いたかった言葉であり、クレインにとっては重荷を下ろすための懺悔や、贖罪の言葉でもある。

次の言葉を吐き出すまでにかかった時間は、数秒か、数分か。

その感覚すらも朧気な中で、彼は静かに心中を吐露した。

「……ずっと、会いたかった。もう会えない気がしていて、不安だったんだ」

クレインは動乱の中心地である王都から、必ず無事に帰ると約束を交わした。

しかしあの時、あの瞬間の彼が領地に帰ることはなかったのだ。

戦乱への苦悩を抱えた日々を過ごし、派閥の人間も旗頭も裏切って、 暗澹(あんたん) とした心で過ごしていた時期を支えてくれた女性。そんなアストリとの約束を、果たせないままに5年の歳月が流れている。

時間を巻き戻せば、全ては無かったことになるだろう。そんな 欺瞞(ぎまん) で覆い切れない罪悪感は、月日と共に膨れ上がりながら、彼の心底に降り積もっていた。

「許しを請うべき相手は、今ここにいる君ではないとしても。……今度こそ」

アストリには夫婦であった頃の記憶が無く、彼女にとってクレインは初対面の人間だ。

謝るべき相手はもうどこにもおらず、この行為は自己満足でしかない。

それでも積年の思いが成就した彼は、妻となる女性の目を見て、改めて誓いを立てた。

「今度こそ必ず、君を幸せにする」

もう一度、死が二人を別つと決まったからこそ、クレインは過去のアストリに向けた言葉を告げられた。

しかし目の前にいる彼女には、この言葉の意味も、自分から向けられている感情も、どれ一つとして分からないままだろう。

そう思いながらクレインは涙を拭い、ぎこちなく笑いながらアストリを解放した。

すると彼女は目を瞬かせてから、彼にとって予想外の返答をする。

「有難いお言葉ですが、ご遠慮させていただきます」

「……えっ?」

驚きで動きを止めたクレインの前には、年相応の笑顔を浮かべた少女がいる。

初めて口づけを交した時と同じように、頬を染めた彼女は恥じらいながら言った。

「幸せは、夫婦で作っていくものですから」

「そうか……うん、その通りだ」

苦笑しながら彼は思う。やはり彼女には敵わないと。そして過去とは違い、今回はアストリから手を携えて、二人は歩み始めた。

屋敷に向けて歩く中で、出会いの最後に告げられたものは、慎ましやかな提案だ。

「幸せな家庭を、築きましょうね」

艱難辛苦(かんなんしんく) を乗り越えて、長きに亘る断絶も乗り越えて、待望の再会を迎えたのだ。傍らで穏やかに笑うアストリを見て、クレインの胸中に熱い思いが込み上げた。

彼の胸に再来したのは、幸福な未来を拓くという決意だ。

そしてそれは、自分一人の努力で成就させるものではなく、共に歩む伴侶と支え合いながら築いていくものだとも自覚した。

平穏な未来を夢想したクレインは、思いを新たにして呟く。

「ああ。そうだ……今度こそ。今度こそは」

もう二度と離れないと誓いながら、クレインは出迎えをやり直すタイミングを探した。

アストリに理解できない言葉の数々と、対外的な無礼を考えれば当然のことだ。

しかしこの精神状態で出迎えをやり直しても、すぐに情緒が不安定になると思い、彼は自害までに多少の間を置くと決めた。

クレインはアストリを客室に案内した後、ノルベルトと使者から交互に叱られながら、気持ちを落ち着けていく。

そうして頭を冷やし、気持ちを切り替えた彼は、やがて二度目の再会から人生を始める。