軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

81.道化師の素顔

静寂が戻った奈落の森に、ジュリアンの悲痛な絶叫がいつまでも木霊していた。

むせ返るような腐葉土の匂いと、先刻まで吹き荒れていた魔力の焦げ臭さが混ざり合い、森の空気はひどく澱んでいる。見上げれば、完成したばかりの結界樹が青白い光を放ち、雄大な魔力の波動を周囲に広げていた。

だが、その奇跡の装置を作り上げた神域の杖職人、ソフィア・クラフトの姿はどこにもない。

「あのアホンダラァッ」

沈黙を破ったのは、人間の姿をした竜の賢者、ファフニールの激怒の咆哮であった。

彼女の全身から、空間を軋ませるほどの凄まじい白銀の魔力が間欠泉のように噴き上がる。周囲の木々がその余波だけでメキメキと音を立ててひび割れ、地面の土が爆発したように巻き上がった。

ファフニールの怒りの矛先は、誰かに当たり散らすようなものではない。ただ純粋に、自らの油断を利用し、愛らしい少女を連れ去った道化師への烈火の如き憎悪であった。

「地の果てまで追い詰めて、そのふざけた面を消し炭にしてくれるわっ」

ファフニールはそう吐き捨てるなり、巨大な銀竜の姿へと変じた。

凄まじい暴風を巻き起こして天空へと飛び立ち、あてのない虚空へと消えていく。その背中には、冷静な判断力など欠片も残されていなかった。

一方、地上に取り残されたジュリアンは、泥に塗れた地面に膝をついたまま動けずにいた。

完璧な兄であろうと努めてきた彼にとって、今回の失態はあまりにも重すぎる。自分がジョーカーの助太刀を安易に受け入れ、大事な妹の背中を他人に預けてしまったからだ。

自分のせいで、愛する妹が魔族の手に落ちてしまった。その事実が、鋭い刃となってジュリアンの胸を何度も何度も抉り続ける。

「状況証拠だけで判断するのは、早計というものだ」

静まり返った森に、ギルバートの冷ややかな声が響いた。

「あのジョーカーという男がソフィアを連れ去ったと確定したわけではない。奴の目的も、魔族との関係性も、まだ確たる証拠がないのだ。まずは冷静になり、帝都にいる二人の賢者に報告し、指揮系統を立て直すのが最優先だ」

軍人としての徹底した合理性。

事実、何の足取りも掴めないまま森を飛び出したファフニールの行動は、ただの無謀である。怒りに身を任せてしまえば、真実の糸口を見落とし、ソフィアを救出する機会を永遠に失いかねない。

だが、そのあまりにも理路整然とした言葉は、後悔に打ちひしがれるジュリアンの神経を逆撫でするには十分すぎた。

「君はっ」

ジュリアンは弾かれたように立ち上がり、ギルバートの軍服の胸ぐらを両手で乱暴に掴み上げた。

「誰がどう見ても、あの狂人がフィアを拉致したのだろうがっ。君は、自分の愛した女が連れ去られたというのに、心配ではないのかっ。取り乱しもしないのかっ」

商会のトップとして常に冷静沈着であったはずのジュリアンが、血走った目で怒りを露わにする。

ギルバートは抵抗することなく、ただ静かにジュリアンの双眸を見つめ返した。

「離せ、ジュリアン」

ギルバートの声は、地の底から這い出るように低く、そして恐ろしく冷たかった。

パキ、パキパキパキッ。

不気味な音が鳴ったかと思うと、ジュリアンが立っている周囲の石畳や草木が、一瞬にして真っ白な霜に覆われ、完全に凍てついてしまった。

「なっ」

ジュリアンの指先から、肌を刺すような極寒の冷気が伝わってくる。

ギルバートの体温は異常なまでに低下し、その瞳の奥には、氷の奥底で燃え盛る蒼い炎のような、凄絶な殺意が渦巻いていた。

彼は全く心配していないわけではない。怒っていないわけでもない。

誰よりも深くソフィアを愛しているからこそ、その身を裂かれるような怒りと焦燥を、軍人としての強靭な精神力で無理やりに押さえ込んでいるだけなのだ。少しでも気を抜けば、ファフニール以上に暴走して森すべてを焼き尽くしてしまうことを、彼自身が一番理解していた。

「だとしても、なぜそこまで冷静でいられる」

胸ぐらから手を離し、ジュリアンが一歩後ずさって問う。

ギルバートは短く息を吐き、周囲の冷気をゆっくりと収束させた。

そして、ふっと口角を上げ、どこか誇らしげな笑みを浮かべる。

「決まっている。俺の愛する緋色の妖精は、誰よりも強いからだ」

魔力を持たないただの少女。しかし彼女の魂は、どんな絶望にも屈しない強靭さを持っている。ギルバートは、ソフィアの精神力を誰よりも信じ抜いていた。

同じ頃、帝都の最高級ホテルの一室。

ガンダールヴルとラーズスヴィズの二人の老賢者は、豪華な調度品に囲まれた部屋で、奈落の森からの報告を今か今かと待ちわびていた。

淹れたての紅茶の香りが漂う中、暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが、静かな部屋に響いている。

突如として、部屋の空気が微かに震えた。

「む」

ガンダールヴルが鋭い視線を虚空へ向ける。

空間がグニャリと歪み、極めて高度な『投影魔法』によって、三人の人物の立体的な幻影が部屋の中央に浮かび上がったのだ。

「ソフィアっ」

ラーズスヴィズが椅子を蹴立てて立ち上がる。

投影された映像の中には、分厚い石壁に囲まれた薄暗い牢獄のような場所で、椅子に縛り付けられているソフィアの姿があった。

そして彼女の背後には、不気味な仮面を被った魔族の男と、トランプを弄びながらニヤニヤと笑う道化師、ジョーカーが立っている。

「なんじゃとっ。貴様ら、うちの可愛い孫に何をしておるかっ」

ラーズスヴィズは怒り心頭に発し、腰に帯びていた長剣を抜くや否や、ジョーカーの幻影に向かって凄まじい剣撃を放った。

空気を切り裂く鋭い風切り音が鳴り響く。しかし、剣の刃はホログラムのような幻影を虚しくすり抜け、豪華な絨毯を切り裂くだけに終わった。

「無駄じゃ、ラーズスヴィズ。それはただの映像じゃ」

ガンダールヴルが苦渋に満ちた声で制止する。

老婆の剣鬼は舌打ちをし、憎々しげに幻影のジョーカーを睨みつけた。

「この高度な幻影魔法。そして、あの光の魔法の残滓。お主、ただの暗殺者ではないな」

ラーズスヴィズの鋭い指摘に、ジョーカーは肩をすくめて大げさな身振りをした。

そして、顔の上半分を覆っていた道化師の仮面を、ゆっくりと剥ぎ取る。

「ひひひっ。やっと気づいたかぁ、親父どの」

仮面の下から現れたのは、ひどく歪んだ笑みを浮かべる青年の素顔であった。

その顔立ちには、若き日のガンダールヴルの面影が色濃く残っている。

「そうさ、ボクだよ、父さん。あんたの出来損ないの息子、リヒトさ」

「リヒト……」

ガンダールヴルの手から、愛用の杖がカランと音を立てて床に転がり落ちた。

老賢者の顔から血の気が引き、刻まれた深い皺が苦痛に歪む。

「なぜじゃ。なぜ、我が息子であるお主が、魔族などに手を貸すような愚かな真似をするっ」

絞り出すようなガンダールヴルの問いかけに対し、リヒトの隣に立つ仮面の魔族が、地の底から響くような声で嘲笑った。

「決まっているだろう。復讐さ」

魔族の言葉に、ガンダールヴルは息を呑んだ。

脳裏に、数十年前の忌まわしい記憶が鮮明に蘇る。

妻を流行り病で亡くし、失意のどん底にあった若き日のガンダールヴルは、残された一人息子のリヒトを立派な魔法使いに育て上げようと躍起になっていた。

次代の賢者としての重圧。光の魔法を極めるための、血を吐くような過酷な修練。彼は親としての愛情の方向を間違え、ただひたすらに厳しく、狂気的なまでに息子を追い詰めてしまったのだ。

「だが、ボクにはあんたほどの光魔法の才能はなかった」

リヒトは憎悪に満ちた目で、父親の幻影を睨みつける。

「あんたはボクを見限って、ギルバートとかいう他の余所者のガキを育て始めた。期待を裏切ったボクを、ゴミのように捨てたんだ。許せるわけないだろ、父さん」

「リヒト、それは違うっ。わしは、お主を愛しておったからこそっ」

「黙れっ。だからボクは闇に堕ちて、魔族に手を貸すようになったんだよ。ボクがこの重要な試験を滅茶苦茶にして、あんたの愛する人間たちを絶望させれば、親であるあんたに最高の迷惑をかけられる。ひひっ、いい気味だ」

狂気に満ちた笑い声を上げる実の息子を前に、ガンダールヴルは崩れ落ちるように膝をついた。

「ひゃはははっ。傑作だな、光の賢者よ」

仮面の魔族が、リヒトの狂気を後押しするように醜悪な笑い声を上げる。

人間界の最高戦力である賢者が、実の息子によって絶望に叩き落とされる様は、彼らにとって至上の娯楽であった。

「わしが悪かった」

ガンダールヴルの震える声が、ホテルの部屋に響く。

帝国の重鎮であり、世界最高峰の魔法使いとして君臨してきた老爺が、その高貴なプライドをすべて投げ捨て、床に額を擦り付けて土下座をしたのである。

「おい、ガンダールヴル。何ふざけたことをしておるかっ」

ラーズスヴィズが驚愕し、老賢者の肩を掴んで引き起こそうとする。

「ふざけてなどおらぬ」

ガンダールヴルは老婆の腕を振り払い、床から顔を上げることなく続けた。

「どのみち、この責任は取らねばならん。世界を危機に陥らせた魔族の協力者が、他ならぬわしの実の息子なのだから。親として、その罪を背負う義務がある」

その言葉は、賢者としての責務を超えた、一人の不器用な父親としての深い後悔と贖罪の重みに満ちていた。

「ソフィア嬢を返してくれ。彼女は関係ない」

ガンダールヴルは、絞り出すような声で魔族に懇願する。

「なんでもする。わしの持つ魔法技術のすべてを提供してもいい」

「なんでも、だと?」

魔族が面白そうに聞き返す。

「ああ。望むなら、この老いぼれの命を差し出そう」

その申し出に、ラーズスヴィズが息を呑み、リヒトの笑い声がピタリと止まった。

「いいだろう」

魔族は歓喜に震える声で承諾する。

「我ら魔族の目的は、人間界の勢力を削ること。光の賢者が死ねば、帝国は大きく揺らぎ、優秀な魔導士が育たなくなる。貴様の命と、この小娘の命を交換してやろう」

魔族がそう宣言した直後、投影魔法の光がノイズにまみれて点滅し始めた。

「取引の場所と時間は、追って連絡する。せいぜい、首を洗って待っていることだな」

醜悪な笑い声を残し、空間の歪みがシュンッと音を立てて消滅する。

豪華なホテルの部屋には、土下座をしたまま動かないガンダールヴルと、沈痛な面持ちで立ち尽くすラーズスヴィズだけが残された。

帝都から遠く離れた、結界で完全に隔離された地下の牢獄。

壁には緑色のカビがびっしりと繁殖し、鼻を突くような腐臭と、肌を刺すような冷たい湿気が充満している。

天井から吊るされたわずかな魔力光だけが、石造りの部屋を薄暗く照らし出していた。

「ひひっ、親父のあの顔。最高傑作だったなぁ」

ガンダールヴルへの投影魔法を終えたリヒトは、腹を抱えて愉快そうに笑い転げている。

仮面の魔族は「油断するなよ」とだけ言い残し、次の準備のために牢獄の重い鉄扉を開けて部屋の外へと出て行った。

牢獄の中には、硬い木の椅子に魔力縄で縛り付けられたソフィアと、彼女を見張るリヒトだけが残された。

「さてと。嬢ちゃんには、親父との取引の材料として、せいぜい大人しくしててもらわないとねぇ」

リヒトはトランプを指先で器用にシャッフルしながら、ソフィアの顔を覗き込んだ。

怯えて泣き叫ぶか、絶望に顔を歪めているだろうと期待していたのだ。

しかし。

ソフィアの美しい緋色の瞳には、恐怖の欠片も浮かんでいなかった。

ただ静かに、そして真っ直ぐに、リヒトの顔を見つめ返している。

その透き通った瞳の奥には、彼のような闇の人間を蔑む色もなければ、命を乞うような弱さもない。まるで、リヒトの魂の底の底までを静かに観察しているかのような、底知れない凪があった。

「なんだよ、その目は」

リヒトは苛立ちを隠せずに舌打ちをした。

自分は冷酷な暗殺者であり、魔族に加担する悪党である。こんな小娘一人、いつでも殺せるのだ。怯えるのが当然である。

「どうして、悪者の演技なんてしているんですか?」

静寂を破り、ソフィアの透き通るような声が牢獄に響いた。

リヒトはピタリと動きを止め、怪訝な顔でソフィアを見下ろす。

「はぁ? 演技だぁ? ボクは親父への復讐のために、本当に魔族に魂を売ったんだよ。ボクのこの禍々しい魔力が見えないのか」

「見えますよ。わたしの『虚無の魔眼』には、あなたの体内の魔力の流れがすべて視えていますから」

ソフィアは拘束されたまま、ゆっくりと首を傾げた。

「表面上は、魔族の瘴気のような黒い魔力を纏っています。でも、あなたの魂の奥底、魔力の源流には、ガンダールヴル様と同じ、とても優しくて温かい『光の魔力』がちゃんと流れているじゃないですか」

「ッ」

リヒトの顔から、ヘラヘラとした道化の笑みが完全に消え去った。

「あなた、本当は魔族になんて加担したくないはずです。その黒い魔力も、無理やりに自分を汚して、周りを欺くための偽装ですよね」

「黙れっ。お前に何がわかるっ」

リヒトは激昂し、ソフィアの首元に鋭い短剣を突きつけた。

冷たい刃の感触が肌に伝わっても、ソフィアは瞬き一つせずに言葉を紡ぐ。

「わかります。あなたの心が、すごく悲しい音を立てて泣いているから」

ソフィアの言葉は、鋭い刃となってリヒトの心の最奥に隠していた急所を正確に突き刺した。

「親を憎む気持ちだけじゃない。本当は、お父様のことが大好きで、自分のことを見てほしい、認めてほしいって気持ちでいっぱいなんですよね」

「ッ……」

図星を突かれたリヒトの瞳孔が限界まで見開き、短剣を握る手がカタカタと激しく震え始める。

闇の暗殺者として完璧に塗り固めてきたはずの己の精神が、魔力を持たないただの少女の言葉によって、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。