軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

31. 迷える料理人

「……はぁ。素晴らしいです……」

ため息のような、熱っぽい吐息が漏れる。

ラインハルトが休息のために退室した後。

応接室に残ったソフィアは、許可を得て神杖『リスタルテ』のメンテナンスに没頭していた。

最高級のクロスで軸を磨き、黄金の装飾の溝を綿棒でなぞる。

その瞳は潤み、頬は興奮で上気していた。

「見てくださいギルバートさん。この魔導回路の継ぎ目、全く無駄がありません。数百年前に、これほどの技術があったなんて……。ああ、一生触っていたいです」

「あ、ああ。……そうだな」

うっとりと杖を見つめるソフィアを、これまたうっとりと見つめる男が一人。

ギルバートである。

彼はソフィアが楽しそうにしているだけで幸せなのだ。

(ああ、ソフィ。君はいつも素敵だが、杖を前にした時の君は、より一層輝いて見える……)

そんな二人(と一本)の様子を、ソファの向かい側からメルティアが冷めた目で見つめていた。

「……ねえギル」

「…………」

「ちょっと、いつまで見惚れてるのよ」

「はっ、も、申し訳ない」

「はぁ……まったく、あんた、それでいいの?」

「何がでしょうか、殿下」

ギルバートは姿勢を正し、恭しく答えた。

どれだけ親しい間柄でも、相手は皇女、自分は一介の軍人である。その線引きを崩さないのが、彼の流儀だ。

「進展よ、進展。こないだ良い雰囲気だったじゃない」

デリックの一件でのこと、そして病室でのことを言っているのだろう。

メルティアは何度もソフィアの見舞いに来ていた。

無論、ギルバートも暇な時間をすべて、ソフィアの傍で過ごしていたわけだが。

「で? どこまで行ったの?」

(皇女らしかぬ下世話な言動は昔からだが……友人ができてからは、さらに明るくなられたな)

心の中で苦笑しつつ、ギルバートは答える。

おそらくは、この二人の仲が進まないことに、気を揉んでいるのだろう。

「ご心配には及びません」

ギルバートは不敵に口角を上げた。

「俺たちは確実に進展しております。俺は彼女を『ソフィ』という愛称で呼び、彼女は俺を『ギルバートさん』と呼ぶ。……いかがでしょう」

「…………は?」

メルティアは扇子で顔を仰ぎ、深いため息をついた。

ドヤ顔を決めているが、要するに「あだ名で呼んだだけ」である。学生の交換日記レベルだ。

「あのねぇ……。あんた、完全に『杖』に負けてんのよ? 危機感を持ちなさい」

「負けている? お、俺が……ですか?」

「ええ。今のソフィアの目を見てみなさい。あんたに向けて欲しい熱視線を、全部その木の棒に注いでるじゃない」

言われてみれば、ソフィアはギルバートの方など見向きもせず、「可愛いですねぇ」と杖に頬ずりしそうな勢いだ。

その熱い眼差しは、まるで愛する男に向けるそれであり……ギルバートには一度だって向けられたことのないものだった。

ギルバートの端正な顔が、さぁっと青ざめる。

「……ま、負けている……俺が、杖に……?」

(た、確かに彼女の杖への熱意に、そう易々と敵うわけはない。しかし、杖と人では別腹……。いやしかし、ああも熱く、甘い眼差しで、俺が見つめられたことはない……!)

外から見ても、ソフィアの脳内天秤は杖に傾いていた。

なんとも重そうで、動く気配はない。

「自覚した? なら、挽回しなさい」

メルティアはビッと、扇子の先をギルバートに向けた。

「命令よ。来週の『建国祭』、仕事を休んでソフィアをデートに誘いなさい」

建国祭。

それは初代皇帝ノアール・ディ・マデューカスがこの国を興した日を祝う、一年で最も盛大な祝祭だ。

国内外から多くの人が集まり、夜にはパレードや花火が行われる。恋人たちにとっては定番のデートイベントでもある。

「で、デート……!? し、しかし、その日は警備の指揮がありまして……」

人が多く集まるということは、それだけ警備も厳重になるということだ。

軍の指揮官として、そう易々と休むわけにはいかない。

「あんた! 仕事とソフィア、どっちが大切なのっ!」

……かつての破壊神なら、迷わず「仕事」と答えただろう。

しかし、今の彼は違った。

「ソフィ……」

「でしょ? なら、これは『皇女命令』よ。ギルバート・フォン・ヴォルグ。拒否権はないわ」

有無を言わせぬ皇族の圧力。

(殿下なりの気遣いだろう。ありがたく、受け取らせていただくか)

ギルバートは一瞬たじろいだが、すぐに踵を揃えて頭を下げた。

「……御意」

確かに仕事も大事だ。ないがしろには絶対にしたくない。

しかしそれと同じくらい、大切な人が彼にはできたのだ。

あの仕事人間が、一年で一番忙しい時期に休みを取る決断をするほどに。

「まあ、あんた一人いなくたって大丈夫よ。建国祭で何も起こるわけないし」

「失礼いたします。お茶菓子をお持ちしました」

タイミングよく、宮廷の給仕がお茶とケーキを運んできた。

皿に載っているのは、旬の果物をふんだんに使ったタルトだ。

宝石のように輝くフルーツと、繊細な飴細工。見た目も香りも、一級品である。

「わあ、美味しそう……」

「あら、良い香りね。ギル、あんたも食べなさい」

「は。恐縮です」

ソフィアはようやく杖から手を離し、ギルバートも勧められてフォークを手に取った。

一口、頬張る。

濃厚なカスタードの甘みと、果実の酸味が口いっぱいに広がる。

「んっ、美味しい……!」

「うむ。さすがは宮廷パティシエの仕事だな。甘さも控えめで上品だ」

「ええ。文句なしの味ね」

三人が舌鼓を打つ。

誰もが絶賛する味。

しかし、ソフィアの手は二口目でぴたりと止まった。

じっと、ケーキの断面を見つめ、考え込んでしまう。

「どうしたの、ソフィア? お口に合わなかった?」

メルティアが小首を傾げる。

ソフィアは慌てて首を横に振った。

「あ、いえ。そういうことじゃなくて……とても美味しいんです。ただ……」

「ただ?」

「……あの、できれば、このお菓子を作った方と、お話しすることはできますか?」

遠慮がちな、しかし芯の通った瞳でソフィアが問う。

その様子を見て、ギルバートはふっと表情を緩めた。

(また、見過ごせないのだな)

ソフィアは、ケーキの中に「誰かの困っている気配」を感じ取ったのだろう。

かつて彼女を縛っていた「役に立たなければ愛されない」という強迫観念は、もうない。

今の彼女を動かしているのは、純粋な「優しさ」だ。

困っている人がいれば、たとえそれがケーキ越しの気配であっても、手を差し伸べずにはいられない。

「ソフィ。また、誰かの悩みを拾ったのか?」

「……はい。余計なお世話かとは思ったのですが、どうしても気になってしまって」

「いいや。困っている人を見捨てられない、そういうところが君の美徳だ」

ギルバートは、愛おしそうに彼女を見つめる。

「俺は、君のそういうところが……とても素敵だと思う」

「ギルバートさん……」

ソフィアが頬を染め、二人の間に甘やかな空気が流れる。

その様子を、メルティアが口を半開きにして見ていた。

「……ねえ。それで付き合ってないとか、嘘でしょ?」

すぐに厨房から、一人の若い男性シェフが連れてこられる。

彼はガチガチに緊張し、顔面蒼白で深々と頭を下げた。

「も、申し訳ございません! 何か粗相がございましたでしょうか!?」

「いえ、謝らないでください。とても美味しいです」

「は……?」

「ただ……このケーキから、何か『迷い』を感じまして」

ソフィアの指摘に、シェフが息を呑んだ。

「迷い? そんなものが分かるのか? 本人を見ずとも」

「はい。優れた作品には、作り手の魂――魔力が籠もります」

ソフィアは、視えているものを指先でなぞるように説明した。

「このタルトは技術的に完璧です。ですが、魔力の波長が乱れています。まるで、アクセルを踏みながらブレーキをかけているような……『自分を出したい』という欲求と、『抑えなければ』という恐怖が喧嘩をしているのです」

それは、魔力を視る目と、同じ職人としての感性を持つ彼女だからこそ気づける違和感だった。

図星を突かれたのか、シェフはその場に膝をついた。

「……おっしゃる通りです」

「やはり、何かお悩みですか?」

「はい……。実は、独立して自分の店を持ちたいと考えていまして……」

彼は、宮廷という安定した地位を捨てることへの恐怖と、自分の味を追求したいという夢の間で揺れ動いていたのだ。

その迷いが、無意識のうちに魔力のノイズとなって、ケーキに乗ってしまっていたのである。

「怖いですよね。外に出るのは」

ソフィアは優しく声をかけた。

「私も以前、お世話になった場所を離れて、独立しました。最初はとても怖かったです。自分なんかに務まるのかと」

「そ、そうなんですか……?」

「はい。でも、外に出たことで、新しい出会いがたくさんありました。今の仲間たちに出会えたのも、一歩踏み出したからです」

ソフィアは隣のギルバートを一瞬だけ見つめ、シェフに向き直った。

「貴方の腕は確かです。外に出ることは、決してマイナスにはなりません。……その熱意があれば、きっと貴方だけの味で、誰かを笑顔にできますよ」

その言葉は、何よりも重みのあるエールだった。

シェフの瞳に、力が戻る。

「……ありがとうございます。目が覚めました」

「ふふ、頑張ってくださいね」

「あの! もう一度……作り直してきても、よろしいでしょうか!」

「え?」

「今の迷いを捨てて、全力で作ります! 最高の状態を食べていただきたいんです!」

メルティアが「いいわよ」と許可を出すと、彼は脱兎のごとく厨房へ走っていった。

数十分後。

再び運ばれてきたタルトは、先ほどとは別物のように輝いていた。

一口食べた瞬間、弾けるような果実の香りと、突き抜けるような爽やかな甘さが広がる。

「……っ! 全然、違います!」

「ああ。雑味が消えて、味が澄んでいるな」

ソフィアが絶賛すると、シェフは涙ぐんで喜んだ。

「ありがとうございます! 俺、自信がつきました! すぐに辞表を出して、独立します!」

「はい、応援しています」

「そこで、相談なのですが!」

鼻息を荒くして、シェフが詰め寄る。

「新しい店の名前……貴方の二つ名をお借りしてもよろしいでしょうか!?」

「はい?」

「『お菓子の家・緋色の妖精』! これで行きます!」

「ええええええっ!?」

ソフィアは素っ頓狂な声を上げた。

「そ、そそ、そんな! 恥ずかしすぎます! やめてください」

「いえ! 貴方は私の恩人であり、ミューズです! 必ず流行らせてみせます!」

「だ、駄目ですってばぁ……!」

顔を真っ赤にして否定するソフィアと、燃え上がるシェフ。

その様子を見て、メルティアは腹を抱えて笑うのだった。