作品タイトル不明
17. いつかの記憶とあなたの温もり
「ハル、まだ起きてはいけません」
扉に寄りかかるハルの姿に反射的に身を起こしたユフィが、彼のもとへと歩み寄った。
リベリカと共に治療を終えたとはいえ、瀕死の重傷を負っていた患者だ。いくら危機を脱したからといって、このように動き回ってはならない。
「肩を貸します。病室に戻りましょう」
「病室にはすぐ戻る。その前に、私が知る情報をあなたに渡しておきたい」
「駄目です。治療が終わってから一時間も経っていないのですよ。安静にしていなければ……」
「ユフィ。そのくらいなら大丈夫よ」
ユフィはハルを強引に病室へ連れ戻そうとしたが、続いたリベリカの言葉に行動を止め、師匠を振り返った。どういうつもりなのかと問うユフィの視線を受け、リベリカはユフィの代わりにハルへと手招きしながら言葉を続けた。
「彼はロンカエトの軍人出身でしょう? 私たちの中で最も多くの情報を持っているのだから、活用しなくちゃ」
「師匠、彼は患者ですよ」
「この事件を早く解決したいのは、他の誰でもないユフィ、あなたじゃない? 情報があり、味方がいるのに、それを活用しないのは愚かな行為よ」
リベリカの答えに、ユフィは理解できないという表情を浮かべた。リベリカは何よりも患者の健康を厳格に重んじる。ハルが軍人であり、重要な情報を持っているとしても、彼の身体がこれほど悪ければ、決して病室の外へは出さなかったはずだ。
何より、彼はユフィの味方ですらない。
(一体何を考えていらっしゃるの?)
分からない。リベリカが容易にハルへ席を譲るということは、ユフィの予想以上に彼の体調が良いという意味なのだろうか。
(そんなはずはないわ)
もちろん魔力輸血を施したため、当面の間は多少の無理をしても死に至るようなことはないだろう。それほどまでにユフィの力は強大なのだから。
しかし一般人にとって、魔力はどこまでも回復を早める手助けをし、気力を補うだけのお手頃な栄養剤に過ぎない。劇的に身体が治るわけでも、痛みが和らぐわけでもないのだ。
現に、ただ立っているだけだというのに彼の顔色は青白く、吐き出す息も整っていなかった。言葉を発する際も、呼吸を整えるための間が長かった。
微かに震える身体は、今にも倒れてしまいそうなほど危ういというのに。
どう考えても病室へ戻すのが正しい。決意したユフィが顔を上げてハルを見つめた。
ユフィの表情からその思考を読み取ったハルもまた彼女を見下ろしていたため、刹那の間、互いの視線が真っ向から交錯した。
心配を孕んだ、しかしどこか厳格さを感じさせるその視線に、刹那の瞬間、心の奥底に伏せて忘れたはずの古い記憶が呼び覚まされた。
遥か、遥か昔。彼からこのような視線を向けられたことがあった。まだ幼かったユフィにとって、公爵家での生活はあまりにも見知らぬものであり、部隊を支えるほどの薬を納品することは酷く荷が重い仕事だった。
薬が期日通りに届かなければ、数多くの人々が命を落とす。夫が、ラハルト様が死んでしまうかもしれない。その恐怖から、ユフィは自身を鞭打ち、夜明け前から薬を作り、また作り続けた。
自分の身体を顧みないことが、どれほど愚かな行為であるかを知りながらも。愚かだった少女は、誰も望まないであろう役目を、ただひたむきに全うしてきた。
ユフィが倒れるのは当然の帰結だった。混沌とした世界の中で再び目を覚ましたとき。自分の手を固く握りしめていた、大きな手の温もりを覚えていた。
戦場にいるはずの彼が自分の傍らにいてくれたと知ったとき、あの安堵感を今でも覚えている。
『私があなたに望むのは、その身を削って作る薬などではない。あなたが笑っていなければ、何の意味もないのだ』
不器用だが優しく、厳格であっても温かく感じられた。この人となら、生涯を共にできると信じていた。だからこそ、次第に失われていった体温が虚しく切なく、最後には何も感じなくなってしまったのだ。
(……本当に、余計なことまで思い出させるのね)
忘却と喪失は違うと言うべきか。時の流れの中に消え去っていた古い感情が、波に押し流されて湧き上がるように心を濡らし、そして再び静かに引いていった。
微いため息を漏らしたユフィが彼から視線を外すと、弟子の心を見透かしたかのように微笑んでいる師匠の姿が目に映った。
「ユフィ、ハルがそんなに心配なら、話を早く聞いてしまった方がいいんじゃないかしら? さあ、どうせそこまで行ったのなら、彼の肩を支えて連れておいで」
「私は大丈夫で……」
「言う通りにしなさい」
リベリカの提案にハルは反射的に拒否の意志を示したが、リベリカはそれを許さなかった。魔女の深みのある笑みを前に、ハルは二度と拒むことなく、申し訳なさそうな顔でユフィに告げた。
「ユフィ。気が進まないのは……分かっているが、手を借りてもいいだろうか」
「ええ、私に寄りかかってください」
こうなった以上、彼を利用しないのは損失だ。現に彼はロンカエトの首脳陣の一人であったのだから、かなりの情報を提示できるはずだ。
ハルへと手を伸ばしたユフィは、彼を包み込むようにしてその身体を支えた。
彼の体から漂う薬草の匂いは、見慣れないながらも、どこか懐かしい香りを再び呼び起こした。しかし、ここにいるのは十六歳の少女ではない。
過ぎ去った時間は決して戻ることはなく、どれほど強烈に湧き上がろうとも、記憶とは忘却され消え去っていくものに過ぎなかった。
ユフィはその郷愁を記憶の彼方へと流し去りながら、彼を食堂の中へと連れて行った。