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婚約破棄をした後の話

作者: 猫宮蒼

本文

マディナ・パトリエットには婚約者がいた。

いた、過去形である。

婚約は相手有責で破棄された。

なのでこれはもう過去の話だ。

婚約者だったテレンスはマールモリス伯爵家の長男で、跡継ぎになるはずだった男だ。

だがしかしその道は絶たれた。

マディナは子爵家の娘であるが、しかしかつてパトリエット家は侯爵家だった。

マディナの何代か前の――ご先祖様が何やらやらかしたせいで爵位を落とす事になったので、生まれた時点で子爵家の娘として育ったマディナは自分が侯爵家の人間であるとは思っていないが、それでも祖父母あたりは昔の事を持ち出しては今の境遇を嘆いていたりするので……まぁ、言ってしまえば少々面倒な家庭事情があるけれど。

マディナの両親は過去の事を嘆いていても仕方がないと、祖父母に対して煙たがってちょっと親族間の仲がギスギスしていたりもするけれど。

でも、まぁ。

家の中で後継者を巡って骨肉の争いをしている家よりはマシな方だろう。

これくらいのゴタゴタならきっとどの家にだってあるはず。

マディナはそう思う事にして、別段悲劇のヒロインぶるつもりもなかった。

かつては侯爵家だったのだから、と祖父母がマディナが幼い頃に色々と口出しして教育だけは子爵家以上のものを押し付けてきた事もあったけれど、それも今にして思えば良い事であった……と思う事にしている。

当時は理不尽だと思って祖父母をものすごく恨んだけれど。

今はまぁ……相変わらず昔の事をグチグチ言う面倒なジジババくらいの認識だった。

だがしかし、そんな祖父母の事を面倒だと思った父が領地の片隅の辺鄙な場所に追いやってからは、割と快適になったので。

トータルで見ればマディナは貴族令嬢としてはおっとりとしたお嬢さんに見えていたのかもしれない。

身近なストレス源がなくなればそりゃあのびのびもしよう。

だから、テレンスがそんなおっとりしているように見えるマディナをどう思ったかは……

今にして思えば、さぞ扱いやすそうだと思われていても、まぁそう見えたのかもねぇ……と納得するわけで。

最初こそマディナとテレンスの仲は悪いものではなかったと思う。

表向きは。

テレンスが内心どう思っていようともマディナは別にテレンスの事を嫌ってはいなかったし、お互いにそれなりに上手くやっていけると思っていた。

ところが、そうやって交流を重ねる事一年。

ある日テレンスに大切な話がある、とマールモリス家に呼び出された。

一体何かしら、と思いながらも向かえば、そこでテレンスと共に姿を見せたのはドリス・フォシーであった。

ドリスはマディナの領地の近くに暮らす男爵令嬢で、一応マディナと知り合いであった。

友人とは思っていない。

昔からなんていうか、悪気があるのかないのか微妙なラインを攻めるような、マディナにとってちょっとイヤだなぁ……と思うような言い方をする人で、性格もちょっとキツイ部分もあるからマディナとしては自分から連絡をとって関わろうと思わない相手だ。

だからこそ友人ではなく知人としか言いようがない。

私たち友達でしょ? とは向こうがたまに言ってくるけれど、それでもマディナにとっては知人である。

マディナの婚約者と自称友人は、マディナの前に姿を見せるなり謝罪を口にした。

僕たちは愛し合っているんだ、だとか。

ごめんなさい、貴方の婚約者だってわかっているのだけれど……だとか。

出会う順番を間違えてしまった可哀そうな僕たち、みたいな言い分をマディナは、

(この茶番いつ終わるんだろう……)

と思って見ていた。

とてもつまらない見世物だったのだけは確かだ。

ともあれ、二人はぐだぐだと自分たちの言い分を連ねて、二人の仲を認めてほしい、というような事をのたまった。

婚約を解消しよう、とか破棄してくれ、とは言わなかったのは、この婚約がマディナとテレンス二人の意思で結ばれたものではない事を理解はしていたからだろう。

だが、つまりそれは――

(私と結婚して、私はお飾りの妻になれ、って事よねそれ)

テレンスは心底申し訳なさそうな顔をしているけれど、自分のためにマディナの人生を灰色にしてもいいと思っているわけだし、ドリスはドリスで一応申し訳なさそうな雰囲気は出しているけれど、テレンスの視線が逸れた瞬間、マディナへの優越感のようなものが見てとれた。

一瞬だ。

だからそれを指摘したところで、気のせいだとか、こんな事を言いだしたからそういう風に見えてしまっている、誤解だ、だとか。

まぁそういう風に言い逃れできなくもない。

だがその一瞬のドリスの表情でマディナはドリスが自分を友人だと言いながらも、内心で見下していた事をしっかりと理解してしまった。

「そう、わかったわ。話がそれだけなら私、帰ってもいいかしら?」

だからさっさと立ち去る事にした。

どうせこのままここにいたところで、テレンスとドリス、お互いの仲を見せつけるような事になるだけだとわかりきっているので。

マディナが「わかった」と言った事で、二人は認めてくれたと思ったのかもしれない。

テレンスは都合よく、ドリスはマディナの敗北宣言として。

三人の中で一番家の家格が高いのは、テレンスの家だ。

だからマディナは粛々と受け入れるしかないと思ったのかもしれない。

そうして家に戻ったマディナは、当然両親に報告した。

テレンスの家、マールモリス家からの婚約の話ではあったが、当のテレンスがアレではどうしようもない。

相手の家の方が身分が上という事もあり本来ならば断わりにくい話ではあるけれど、しかし婚前から不貞していますよ、となれば話は別だ。

それに、テレンスは決して優秀と言える程できた人間でもなかった。

伯爵家で育てられていたけれど、いかんせん能力的には少々……とテレンスの父が「まったく誰に似たのだか……」と嘆いていた事もマディナは知っている。

だからこそ、幼い頃祖父母に高度な教育をするように仕向けられていたマディナが目をつけられたのだから。

本来の子爵令嬢相当の教育だけであったなら、マールモリス家から婚約の話なんて来なかっただろう。あちらが求めているものは、テレンスの足りない部分を補える優秀な存在なのだから。

けれども、同じ家格でテレンスを支えてくれそうな令嬢はいなかったか、いても断られたかしたのだろう。

更に上の身分の令嬢に話を持ち掛けるにしても、そもそもそういった家から見てマールモリス家と縁付くだけならまだしも、テレンスの補佐となれば利があるとも考えにくい。

ただ友人として関わる程度なら構わないが、テレンスを陰に日向に支え続けるまでして縁を繋ぎたい、とは思われなかった。言ってしまえばそれだけの話である。

だから身分的に下の立場の相手に話を持ち掛けるしかなかったが、しかしその中で優秀な相手というのはもっと限られてくる。その限られた令嬢の一人が、マディナだった。

かつては侯爵家であった家の血筋。

マディナ本人が侯爵令嬢であった事はないけれど、それでもかつてその地位にいた事を知って、その栄光を忘れられずにいた祖父母がいずれ返り咲いた時のため……と教育に力を入れていたのは社交界でも知られていた。

マディナの父が婚約の話を受けたのは、断りにくいという点も確かにあったが、その時点では特に問題がなかったからだ。

マディナは別にテレンスの補佐に回るくらいは構わないと思っていたし、その上で妻として、夫人として家を切り盛りしていく事もやりがいがありそうだと思っていた。

だが、それはあくまでも互いに夫婦として尊重される事が前提である。

ドリスと恋をしたといったテレンスは、夫人としての役目をマディナに任せ、妻としての役目はドリスに……なんて考えたのかもしれない。

どちらにせよドリスでは、テレンスの補佐となるだけの才覚はない。

彼女が昔から勉強を面倒なものだと言って極力避けようとしていたのを、マディナは知っていた。

実際の立場は愛人であったとしても、テレンスの愛は自分に向けられている――そんな風に思ってドリスがマディナへ女としての勝利に酔いしれるのは勝手だが、真実テレンスの心がどうあれ世間的に見れば愛人でしかない。マディナを押しのけて妻になれるだけのものもなく、愛人でしかない女。テレンスが仮に早々に命を落とした場合、愛人には何の保障もないというのに。

その頃に子どもが生まれていたのなら、まぁ子供が産めるという事実を引っ提げてどこぞの後継者を欲している家の後妻くらいにはなれるだろう。

だが、伯爵家の元妻でした、とは決して言えない。

男爵家の生まれでありながらも、しかし未婚のまま出産歴がある、なんて訳ありでしかないし、仮に途中でテレンスとの仲に嫌気がさして逃げ出せたとしても、その後の人生も決して華々しくはいかないだろう。

世間的にひそひそされるのが明らかなドリスに対して、マディナは悔しいとか、そういう事は一切思わなかった。どのみち他人なので。

だからこそ、この婚約は早々にテレンス有責で破棄となったのだ。

相手の家の方が身分が上で、だからこそ蔑ろにされるとわかっていてそれでも家との繋がりを求めて娘が不幸になると知っていながら嫁がせる家も無いわけではない。

ただ、マディナの家はそうではなかった。

そもそもの話、マディナをそういった便利な道具のように扱うとわかっている相手に嫁がせたとして。

それはマディナの生家にも影響を及ぼす事になる。

マールモリス家にパトリエット家は隷属を誓っているだとか、そんな噂が出るかもしれないのだ。

それどころか、今までは身分はさておき対等に接する事ができていた他の家々とも、マールモリス家のパトリエット家への扱いを踏まえた上でそういった――この家は下に見ていい、と思われる扱いに変わるかもしれない。

それでなくともかつては侯爵家だったパトリエット家だ。

落ちるところまで落ちたものだな、なんて噂が広がるのはあっという間だろう。

だからこそ、婚家でマディナが蔑ろにされるような状況はあってはならない事なのだ。

先祖のしでかしのせいで、今でもパトリエット家の事を侮っている家はそれなりにある。

そういった手合いにこれ以上面白ネタを提供するなど、当主としても避けねばならない事だ。

子爵家といえど、貴族としての誇りを完全に捨て去ったわけではないのだから。

それにこの婚約は両家の親が結んだもの。

その上でマディナの扱いが悪いとなれば、マールモリス家は最初からそのつもりだったと思われる事になるし、パトリエット家もそれを了承した上で婚約を決めたのだろう……なんて噂が広まりでもして。

その噂を否定したところで周囲がすんなり信じるはずもないのだ。

そんな相手に弱みを握られたわけでもないのに婚約を受け入れるなんて、パトリエット家の当主は人を見る目すらないのかと。

そう言われてもおかしくないのである。

テレンスとドリスのやらかしはマディナだけが惨めな思いをするだけと二人は思ったのかもしれないが、しかし実際はマディナの親――パトリエット子爵と子爵夫人にまで喧嘩を売ったも同然なのだが、二人はそんな事実に気づかなかった。

だからテレンスはあっさりとドリスとの仲を明かしたわけだし、ドリスもまた表向き申し訳なさそうにしていても、ふとした瞬間勝ち誇るような表情を浮かべる事ができたのだろう。

テレンスは自分の家の方が身分も高いから、マディナが言いなりになるとでも思ったのかもしれない。

だがドリスは男爵家の娘なのだ。子爵家に喧嘩売って無傷で済むとか、本気で思っていたのだろうか? テレンスが守ってくれる、と信じていたとしてもあまりにも甘い考えである。

テレンスとマディナの婚約が破棄された事で、テレンスは家の跡継ぎの立場も失う事となった。

当然だろう。テレンスの補佐として優秀なマディナを迎え入れるつもりだったのに、頭も性格も悪いドリスとかいう娘を妻にしたところでテレンスの補佐など務まるはずもないし、それどころか余計なやらかしをしてマールモリス家にトドメを刺すかもしれないのだ。

明らかに家が傾くとわかっていてそんな相手を次の当主になどするはずがなかった。

だからこそテレンスの弟であるヨハンが後継者として急遽教育を詰め込まれる形となってしまったのだが、ヨハンはテレンスよりは優秀そうなのでむしろ最初からそうしていた方が良かったのかもしれない。

ドリスの家でもあるフォシー家にも、当然慰謝料が請求される形となった。

出会った順番が違っただけ、と言われてもその時点で婚約をしていたのは確かだし、であればそれをぶち壊したのだから筋は通すべきである。

マディナ本人が言えばドリスも「やだ、負け犬の遠吠え?」と余裕たっぷりに勝ち誇った態度を取れたかもしれない。

しかしマディナではなくパトリエット子爵からとなれば、ドリスが勝ち誇ったところで子爵の神経を逆なでするだけ。

完全にドリスが悪い事に変わりはないので、ドリスの両親は顔を真っ青にしながらパトリエット家に平身低頭謝罪する事となった。

その結果、出会う順番を間違えただけとのたまった二人は、マディナとテレンスの婚約がなくなった事で晴れて結ばれる事ができるようになった。

そうはいっても、跡取りでなくなったテレンスと両親に非常識だと罵られる事となったドリスがくっついたところで、幸せになれるかは微妙なところだ。

せめてテレンスがもう少し使える人材であったならマールモリス家ももうちょっとどうにかしようがあったかもしれないが、手元に残したところでどうしようもない相手になってしまったテレンスを家に置いておくつもりもなく。

貴族のままでいさせてもこれといった利益にもならないとなれば、平民にした方がいいだろうという結論に至り――結果ドリスも平民となる事が決定されてしまった。

テレンスの存在はマールモリス家の家系図からも消える事となったので、仮にずっと先の未来で彼の血を引いた子孫がマールモリス家の権利を主張したところで得られるものは貴族の身分を詐称したという罪だけだ。

ドリスも同じくフォシー家から存在を抹消される形で平民となる事が決まったので、こちらも自分は昔貴族だった、なんて言ったところで得られるものはほぼ何もないと言えるだろう。

何も知らない平民を騙すくらいはできても、貴族相手にそれをやった時点で命が終わる。

普通に考えればわかりきった事ではあるけれど。

それでももし、いつか。

年をとってもなお現状を受け入れられないテレンスかドリスが。

もしくは二人の子どもやその子孫が。

それらを実行した場合は、確実に引導を渡される事になる。

それならば今すぐ殺した方が手っ取り早いのではないか、と思う者もいるかもしれないが、この時点で二人を殺した場合、やらかした事に対してやりすぎである、と周囲から言われるのが目に見えている。

テレンスは婚約者がいながら浮気をしていただけで、家の金に手をつけたりはしていなかったし、ドリスも婚約者がいる相手を略奪したとはいえ、マディナに対して積極的に悪評を流すなどの行為はしていなかった。

ただの浮気で殺してしまえば、それ以上の罪を犯した者にたいしての罰がもっと酷い事になってしまう。軽率に一族郎党皆殺しが起きるような事にだってなりかねないのだ。

だからこそ、この先二人が何かをやらかした場合に改めてなんらかの処罰を下す事はあっても、現時点では平民として家から追放する以上の事をするつもりは、どちらの家にもなかったのである。

勿論、パトリエット家もそれ以上を望む事はしなかった。

どうせもう関わる事がないのだから。

――そう、思っていたのだが、しかし再会は意外にも早く訪れた。

その後新たに父が持ってきた婚約。

それはテレンスの家とは無関係のもの。

テレンスの弟が跡継ぎとなったとはいえ、だから婚約者をそちらに変更して……などとはならなかった。

テレンスとマディナであれば年齢的にもつり合いが取れていたけれど、テレンスの弟ヨハンとマディナとでは少しばかり年が離れてしまっていたので。

マディナに対して不誠実な事をしたのはあくまでもテレンスだけであって、ヨハンがそのとばっちりを食らうような事になるのは流石にマディナも望まなかった。

だからこそそれ以外の家との縁を結び、マディナはそちらの家へと嫁ぐ事となったのだが。

結婚して二年目。

小旅行として訪れた先は、広大な果樹園がある町だった。

そこでテレンスと再会してしまったのである。

家を追い出された、といっても着の身着のままというわけではなかった。

それに今まで貴族だったのが急に平民になったといっても、すぐにそれで生活ができるわけでもない。

だからマールモリス家はテレンスを領地の比較的治安が良いところに追いやったはずだ。一応それをマディナも耳に挟んでいる。

だがここはマールモリス家とは全然関係のない土地で、だからこそマディナもテレンスがここにいるなどとは思ってもいなかった。

記憶の中の彼と違い今の彼は、少しばかりくたびれた様子ではあるけれどしかし身体は鍛えられているというのがわかる。

向こうもマディナを見てとても驚いていたので、意図してマディナの前に現れたわけではないようだった。

夫となった人はテレンスとの一件について当然知っている。けれどもこちらも目を瞠り驚いた様子ではあったので、あえて会わせてみる、とかそういう考えがあったわけでもない模様。

三人そろって、

「あっ」

「まぁ」

「おや」

と、それぞれが思わず顔を見合わせてしまった程だ。

――マディナにとっては終わった話で、だからこそテレンスがその後どんな人生を歩んでいようともどうでも良かった。自分を蔑ろにするような行為をこの先の人生でする事はもうできない。だから、自分の知らない場所で幸せになっていたとしても、不幸に落ちていたとしても。

どちらでも構わなかったのだ。

てっきりマールモリス領のどこかで肩身を狭くして暮らしているのかとも思っていたが、しかしここで出会ったとなれば、何故ここに? となるのも仕方のない事で。

今の今までどうでもよかった相手ではあるけれど、それが目の前に現れてしまった以上やはり少しばかり気になってしまったので。

それに隣には夫もいるので、間違いが起きる事もない。

夫もこの事態を想定していなかったので、であればやはりテレンスがどうしてここにいるのかをハッキリさせておいた方がいいだろう。

後になってからやっぱり気になったから調べてみようか、となると時間と人手を無駄に消費する事になるので。

どうやら果樹園で働いているらしいテレンスは、せっせと果実の収穫に勤しんでいた。

マディナとその夫は果樹園でいくつかの果物を購入しようと立ち寄ったに過ぎない。

責任者に声をかけ、テレンスを一時的に借りる許可を得て。

そうして貴方は何故ここに? と話をする事にしたのである。

「真実の愛だと思っていたんだ……」

そんな出だしから始まったテレンスの話は、なんというか予想通りのものだった。

ドリスは昔からマディナと張り合おうとしている節があった。

あからさまではなかったけれど、それでも言葉の端々にそう感じられるものはあったし、マディナの持つ物に対しても自分の方が似合うだとか、色々言っていたこともある。

ただそうやって言っていても、だから私がもらってあげるわ、とかそういった事は口にしなかったので、マディナも「だったら貴方も是非手に入れてみて。ここの商会の品は他にも素敵な物があるのよ」なんてにこにこしていた。実際マディナが持っていた物の大半は、高価な品というわけではない。

男爵家の財力では決して手が届かない品なんて事もなく、マディナは自分のお気に入りが他の人にも好感触だったのでお勧めしただけだ。実際ドリスのお小遣いでも気軽に手に取りやすいものばかりだったので。

けれどもテレンスとの仲に割り込んできた事で、マディナも今にして思えばアレ全部そういう……? と思うようになってしまって。

毎回貴方より私の方が~とあれこれ言っていたけれど、今までは人ではなく物であったから気付かなかったが、テレンスとの一件でようやくマディナもドリスが本当に性格の悪い人だとはっきり自覚したのだ。

確かに以前からあまり気が合うわけでもないから友人とは言えず知人くらいの認識だったけれども。

今までは薄々もしかして……? と思う程度で、でも決定的な事はなかったからそう思う自分の心が狭いのかも、なんて思っていたが、テレンスとの一件でハッキリと自覚したのだ。

だからテレンス共々もう二度と自分の目の前に現れる事はないと思っていたのに。

だがしかしテレンスの話によると、ドリスはマディナにマウントを取りたいがためにテレンスに言い寄っただけで、実際テレンスの事など愛してすらいなかった。

平民となり、お世辞にも良いとはいえない家に追いやられ、ドリスはアテが外れたと思った。

本当なら伯爵家夫人になれたかもしれないのに。そうなれば気に食わなかったマディナの鼻を明かせると思っていたのに。伯爵夫人になれば、マディナには今までと同じ態度ではいけないのだと、身の程を弁えさせてやろうと思っていたのに。

しかし実際は自分が平民となり、以前のような態度でマディナに接した時点で罰せられてもおかしくはないという事になってしまった。

テレンスが後継者の座から転落しただけでも、まだ貴族として暮らしていけるのであればドリスも多少の我慢はできたかもしれない。だが、平民である。

もう使用人が自分の身の回りの世話をしてくれるわけでもなく、これからは自分の事は全て自分でやらなければならない。お金だってほとんどないから、今までのような生活はできなくなる。

男爵家で誰もが羨むような豪華な暮らしを送れていたわけではないけれど、それでも今までの生活よりも質が下がるとなればドリスには耐えられなかった。

だからこそテレンスとの仲は早々に壊れた。

お情けで用意されていた家や生活道具の大半をドリスは勝手に売り払って、そうしてどこかへ行ってしまった。

残されたテレンスはそのせいで住む家を失い路頭に迷う形となってしまった。

両親に助けを求めたくても、もう平民になってしまった男に、それも自分のやらかしでこうなった男に今更手を差し伸べてくれるとは思えず、テレンスは流れ流れてこの町までやってくる事となったのである。

行き倒れて死ぬ寸前のテレンスを拾って住み込みの仕事を与えてくれたのが、果樹園のオーナーである。

だから自分は今こうしているのだと。

そう語ったテレンスにマディナはそうでしたの……と相槌を打つので精一杯だった。

「君は」

その話を聞き終えて、夫が口を開いた。

「両親に助けを求めようと思ったなら、元婚約者である彼女に縋りつこうとは考えていないのか?

こうして出会ったのも何かの縁、とか」

その言葉にテレンスはきょとんと目を瞬かせた。

「確かに最初はそう思った事もあるかもしれません。

でもここで拾ってもらって働くようになった今は、言えませんよそんな事。

ここに来る前だったなら、きっとみっともなくそう口にしていたかもしれない」

でも、とテレンスは続ける。

「言ったからって、助けてもらえるわけがない。だろう?」

「そうですわね」

微苦笑を浮かべるテレンスに、マディナも一秒程考えてから頷いた。

そうだ。

今はこうしてお互いに過去の事として受け入れているから穏やかに話ができているけれど。

でもテレンスがまだ現状を受け入れられていない頃だったなら。

自分が悪かった、と思ってもいない様子だったなら。

マディナが彼を許して助けてあげよう、と思う事は決してなかった。

「あの時、お二人が愛し合っていると聞いて。私との婚約を解消とも何も言わなかったから、結婚はするけど関係を続ける、という風に受け取りました」

「うん」

テレンスは肯定も否定もせず、ただ相槌を打つ。違う、と取り繕う事もなかったのは、つまり肯定なのかもしれないがマディナは肯定だとも思わなかった。

それはテレンスの表情や声音から感じただけで、実際はわからない。

それでも、マディナはかつての――当時の自分の考えを思い出すように口に出す。

「私は当主の補佐として妻として支えるようにと言われていたから、もし二人の関係が結婚後も続くのなら、私はお飾りの妻です。ただ仕事だけをして、愛される事のない惨めな女。

直接そうなれ、と言われたわけでもないけれど、そうなる可能性は高かった」

「……うん」

「でも自分からそんな惨めな立場になりたいなんて思う人、いるわけないでしょう? だからあの時早々に私は貴方との縁を断ち切るために、家に帰って両親に報告したわ。

その結果は言わなくてもわかるでしょ? 私は後悔なんてしていないし、現状に満足さえしている。

こうして素敵な旦那様とも巡り合えたわけですし」

「んっ」

マディナの隣で静かに話を聞いていた夫が胸を押さえて呻き声をあげたが、マディナはそれを横目でちらりと見ただけだった。

視線はそっけないものだが、しかし口元は僅かに緩んでいる。

それを見たテレンスは「うん」とまたも頷いて先を促した。

ドリスがまだ逃げ出す前の、心に余裕も何もなかった頃ならそれでもまだ自分は彼女とやり直せる、と愚かにも思ったかもしれない。

だが、こうして二人が目の前にいるのを見て、その上で自分にもまだチャンスがあるなどとは思えるはずもなかった。

「だからもし、貴方が助けてくれなんて言ったとしても。

私はきっと助けない。

貴方は私を軽んじて、私を踏みにじるつもりだった。たとえそのつもりがなかったとしても、無意識にそうするつもりだった。

そんな相手が今更縋ってきても、こちらが助ける義理はない。

そうでなくとも、仮にも貴族として誇りがあるのなら、自分より下だと思った相手に今更のように縋りつくなんてぶざまな真似をするはずもないでしょう?

やった時点で誇りも何もあったものではない、とみなして……やっぱり助けなかったでしょうね」

そう言ったマディナに、テレンスは「だろうね」と笑った。

とても穏やかな笑みだった。

「今なら自分がどれだけ愚かだったかよくわかるよ。あの頃はわからなかったけれど。

後悔もしている。どうしてもっと早くそんな簡単な事がわからなかったのか、って。

貴方に対する想いがなかったわけじゃないけれど、ドリスにどうしようもなく惹かれたのも嘘じゃなかった。

……彼女との関係は終わってしまったけれど」

「確かにお二人は結婚する事になりましたけれど、離婚してはいけないとは言われていませんから。

今もまだ結婚したままだというのなら、関係を断ち切るなりしてもいいと思いますよ。

お金を持って逃げた彼女が何をどうするつもりはかわからないけれど、いつかとばっちりを受けないとも限りませんし」

「それはそうなんだけど……でも、いいのかな?」

「離縁は認めない、とマールモリス伯爵が言ったのであれば別ですけれど。言われましたか?」

「いや」

「では、縁を切っておくことをお勧めしますわ」

「いいのかな?」

「彼女をまだ想っているのならそのままでも構いませんが」

「いや、そうじゃなくて。

だってこれは罰みたいなものだろう?」

「慰謝料を支払われているので、そっちはオマケの追加懲罰みたいなもの。

少なくとも今の貴方を見て、私不快になったりはしていませんので。

もう過去の事として笑い話にもできますもの。

ですから」

マディナはそっと腕を伸ばす。

自分の目の前にいるかつての婚約者だった男の眉間に寄せられた皺に指をそのまま遠慮なく突き立てた。

「失敗して、反省して後悔もしたのなら。

あとは同じ失敗を繰り返さない事。

その上で幸せになれるのなら、なりなさい」

「しあわせに……」

「えぇ」

「なれるだろうか?」

「知りませんわ。貴方の幸せが何であるのか、私が知るわけありませんもの。

でも、貴方は過去の過ちを理解した。その上で繰り返さないように生きている。

それならいつかは、貴方の思う幸せかどうかはさておき、なれるんじゃありませんか?」

少なくともテレンスを拾った果樹園のオーナーやその周囲の人たちは悪い人ではなさそうだし。

野垂れ死んでいたっておかしくなかったのだ。

けれども彼はこうして生きて、日々を暮らしていけるだけの状態にまで持ち直している。

働きぶりも悪くなさそうだし、であればいつかは彼の事を認めて隣に立ちたいと思う誰かが現れるかもしれない。

現に、少し離れた所で作業をしていた一人の女が心配そうにテレンスへ視線をちらちらと向けている。

テレンスは気付いていないようだが、マディナと夫の視界にはバッチリ入り込んでいるのでとてもわかりやすかった。

「……そうだね、それじゃあお言葉に甘えて、ドリスとの離縁の手続きだけはしておくことにするよ」

「えぇ、彼女が今どこで何をしているかはわからないけれど、いつか取り返しのつかない事をした時に一族連座で、みたいな事になれば貴方、ある日突然わけもわからず処刑される事になるかもしれないもの」

「そこまでの事をやらかすだろうか……」

「さぁ? でも、家の物を売り払って貴方を置いて逃げ出したのでしょう?

彼女は後悔こそしても、きっと反省はしていないわ。だったら、きっとまたどこかで同じ過ちを繰り返す。

それも、次はもっと上手くやる、なんて考えた上でね」

貴族から平民に立場が変わったところで、ドリスの考え方はきっと何も変わっていないはずだ。

いや、もしかしたら、万が一、奇跡的に荷物を売り払って得た金を持った上で、どこかで何かのきっかけがあって今までの自分が間違っていた、と気付く事があるかもしれないが、正直その可能性よりも今度はもっと上手くやってみせるわ、で過ちを繰り返して今度こそ詰む状況に陥る方が可能性としては高く思える。

今度はもっと、お金持ちで見た目も良くて身分だって申し分ない素敵な人を捕まえてみせる――なんて高望みを抱いてやり直そうとするかもしれない。

けれども既に平民となったドリスがそんな考えで貴族に近づいたところで。

マトモに相手にされるかはわからないし、相手にされても愛人どまりの可能性が高い。

相手に婚約者がいた場合、最悪その婚約者によって消されるかもしれないのだ。

マディナの時はドリスも同じ貴族だったけれど、平民となった今、言い寄った相手に婚約者がいて、仮に婚約者の女性が貴族であったなら、

「薄汚い平民ね、目障りだわ」

なんて一言で始末される未来は有り得るのだから。

それにもし。

もし奇跡的にドリスが改心したところで。

そうしてテレンスの元へ戻ろうとしたところで、どのみち手遅れなのだ。

家を売り払わなければ、テレンスだってそこで暮らして、健気にドリスを待っていたかもしれない。

けれども家まで売られて、住む場所すら失ったテレンスはそこで暮らす事ができなくなって、結果ここまでやって来たのだ。

もしドリスが今更戻ってきたところで、テレンスと会える可能性などどこにもない。

テレンスも過去の事を悔いている事から、そこまでしたドリスとよりを戻そうとは思っていないだろうし、だからこそマディナも離縁の手続きだけはしておくべきだと伝えたのだが。

「もし」

「はい?」

「もし、ドリスが奇跡的に」

「えぇ」

「また貴族に返り咲いたとして」

「えっ」

「その上で、また貴方たちの前に現れたとしたら」

マディナは絶対ないだろうけど奇跡的に改心した場合、なんてものを考えたが、テレンスはそうではなかった。

奇跡的に貴族に返り咲いたドリス、なんて未来を想像したらしい。

そんな展開がもし本当に起こり得たとしても――

「問題ありませんわ」

「本当に?」

「えぇ、仮に彼女が本当に貴族に返り咲いたとしても。

その上で私たちの前に現れて、喧嘩を売られたとしても、私だって負けるつもりはありませんもの。

もし私よりも身分が上になれたところで、過去の醜聞ネタが足を引っ張るもの。むしろ男爵令嬢だった頃よりもそれは効果絶大でしょうね」

「それは確かに……」

どこかの国の王子に見初められたとして、平民から王妃に駆け上がった女性、となれば夢のある話だが、しかしその女性が元は貴族で婚約者のいる相手を略奪し家から存在を抹消され平民になった挙句、奪った相手と結婚したにも関わらず相手の家財を売り払いその金を持ち逃げした平民である、なんて知られればどんな美談も木っ端微塵である。

男爵夫人や子爵夫人あたりになれたとしても、その醜聞が足を引っ張ってやっぱり周囲の貴族からはマトモに相手にされないだろう。醜聞が明かされなければどうにかなるかもしれない。

けれどもマディナに目にものみせてやる、なんて気持ちで現れた場合、下の身分であれば取るに足らない存在として扱われ、上の身分になれたところで醜聞がありすぎて結局周囲からは軽んじられる。

その事実を改めて考えれば、テレンスの想像がもし本当のことになったとしても脅威とは思えなかった。

「そっか、じゃあ、大丈夫か」

「えぇ、私たちに対する心配は無用よ」

「そのようだね」

「それじゃ、そろそろ行くわ」

「うん」

「お元気で」

マディナのその言葉に、テレンスは一瞬虚を突かれたような表情を浮かべた。

もう二度と会う事はないでしょう、なんて言われると思っていたのかもしれない。

実際に会う事はないかもしれないが、またここに訪れる可能性がないわけではないのでそのセリフを言った上でいつかまた再会したらマディナ的にはちょっと気まずいかも、と思っただけなのだが。

「お二人も、お、お元気で」

テレンスはそれに対して、同じように言葉を返した。

マディナだけではなく夫も含めたところで、お幸せに、という言葉を言おうとしたのかもしれない。

だが既に二人の様子から、とっくに幸せそうなのが見て取れたから慌てて別の――気の利いた言葉を、と思ったのだろう。

けれども結局すぐに浮かばなかった。

短い付き合いではあったけれど、それでもテレンスの事をマディナは何も知らないわけではない。

だから――

「えぇ」

マディナは別れ際に、にこやかに微笑んだ。