軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

5.具体的に

走る。走る。スカートの裾をひるがえし、ブーツで王宮の回廊を蹴りつけながら、ひた走る。

わたしの周りを囲んでいた護衛騎士たちが、追っ手を足止めするために、一人、また一人と、櫛の歯が欠けるように消えていく。チェスターとさえ別れた。

背後から、殺意を持つ者が近づいてくるのがわかる。それはまるで形のない刃だ。目には見えない無数の針だ。わたしの心臓を突き破ろうと飛んでくる。

バーナードなのにと思う。これは訓練で、追ってきているのはバーナードだ。本物の暗殺者じゃない。何も怖がることなんてない。そうわかっているのに、叩きつけられる殺意が、わたしの心臓をきしませる。必死で保とうとする冷静さを、迫りくる足音が嘲笑い踏みにじっていく。

息が乱れる。思考が空転する。こみあげてくるのは恐怖だった。

逃げきれない。間に合わない。捕まってしまう。

とっさに助けを求めて声が出た。

「バーナード……!」

───それがどれほど無意味な叫びか知っていたのに。

「はい、殿下。あなたの負けですよ」

ずるずるとその場にしゃがみこんで、荒い息を整える。

『右手は使わないこと』というハンデだったはずだ。両手でわたしの両腕を抑えたのはルール違反だ。そういおうかと思ったけれど、彼がわたしをあやすように「殿下が青の布を奪われた時点で勝負はついていますし、訓練は終了しています」という姿がたやすく想像できてしまったので諦めた。

バーナードは細長い青の布を片手で器用に自分の腕に巻き付ける。改めて見ると、すでに何本も巻かれていた。チェスターを始めとする隊員たちから奪ったものだろう。

それから彼は『左眼は隠すこと』というハンデのために使われていた眼帯を取って、内ポケットにしまった。

バーナードが眼帯をしている姿は、隊員たちからは、

「ホンモノすぎる」

「どう見ても王宮にいてはいけない人」

「道を歩いてるだけで人波が割れる」

「地下社会のドンって感じっスね」

なんていわれていたけれど、わたしは密かに胸をときめかせていた。

眼帯をしているバーナードもとても格好良い。普段の優しい瞳が隠されて、少しだけ悪い雰囲気を醸し出しているのがドキドキする。

……これでわたしたちが勝っていたら、よりいっそう喜べていたのだけど。

はあっとひときわ深く息を吐き出す。やっぱりバーナードを出し抜くのは難しかったらしい。

バーナードはわたしの前で片膝をついて、こちらを心配そうに窺っている。その顔に疲労の色はなく、呼吸一つ乱れていない。そういう人だと知っているけど、悔しいものは悔しい。

わたしは深く息を吸い込むと、足にぐっと力を込めて立ち上がった。わたしだってこのくらいなんでもないのです、という見せかけを取り繕う。

けれど同時に立ち上がったバーナードは、心配そうにわたしに手を差し伸べてきた。

「殿下、休める場所まで御身をお運びしてもよろしいですか?」

「結構です。この程度のことで肩に担ごうとしないでください。自分で歩けます」

腕組みをしてツンとあごをそらし、居丈高にいう。

バーナードは動じた様子もなく、わたしの態度をまるきり受け流して続けた。

「担ぐなんてしませんよ。両腕で抱き抱えるだけです。それならいいでしょう?」

「余計に駄目です! それでは、その……、本物のお姫様抱っこになってしまうではありませんか……っ」

動揺してしまいながらいったのに、バーナードは『何か問題が?』といわんばかりの顔で見てくる。

わたしは胸の内で顔を覆った。バーナードの護衛としてのプロ意識の高さが、こんなときばかりは恨めしくなってしまう。

───わたしばかりが意識して、照れてしまっているようではありませんか……! バーナードにももっと意識してほしいです!

そのとき天啓のように脳裏に閃いたのは、ジュリアのお勧めの恋愛小説のワンシーンだった。

身体を動かして暑くなった男性が、首元のボタンをはずす。その光景を目撃した主人公の女性は、彼の色っぽさにどきっとしてしまうという展開だ。

わたしはあくどく口角を上げると、周囲に人目がないことを確認してから、企みを抱いてバーナードに近づいた。

「疲れてはいませんけど、少し暑くなってしまいました」

そう呟いて、確実に目撃してもらえるようにその厚い胸板に寄りかかる。驚いたように見開かれているこげ茶色の瞳を、確認のためにじっと見上げる。そして、さりげなさを装いつつ、ゆっくりと右手で首元を緩めようとして───大きな手にがっしりと握られた。

わたしはぱちぱちと瞬いて、自分の右手を上から握る、婚約者の大きな手へ眼をやった。

───いえ、握るというより、これは、抑え込まれていますね……?

困惑のまま、彼の手と顔を交互に見やる。

バーナードはなぜか鬼気迫る形相をしていた。

先ほどまでは護衛騎士の模範となるような冷静沈着な眼差しをしていたのに、今は獲物に飛び掛かる寸前の獣のようだ。瞳孔は開き、こげ茶色の瞳は爛々と燃えている。

「殿下」

「はい」

「暑くて着替えたいというお気持ちはわかりました今すぐ抱き上げて後宮へお運びしてサーシャ殿を呼びますのでお待ちくださいよろしいですね?」

「えっ、よろしくありません。あの、バーナード? わたしはただ首元を緩めたいだけですよ?」

「ですがお疲れなのでしょう俺に寄りかかっているのはそういう意味でしょうご安心ください俺にはわかっています何も誤解していませんので」

早口である。一息である。

わたしはピンときて、唇をむずむずと緩ませた。こげ茶色の瞳を見上げて、意地悪く問いかける。

「ふふふふふ、さてはバーナード、照れていますね?」

「違います」

「ふふっ、隠しても無駄ですよ。あなたのことならお見通しなのです! 照れているのでしょう、そうでしょう!」

「マジで何も見通せてねえから嬉しそうにすり寄るな! 可愛すぎるからやめろ頼む可愛いなクソ! ちくしょう箱入りの姫様にはわからない男の事情が色々あるんだぞスリスリするんじゃない可愛いな!」

「ふふふ、嬉しいです。わたしもあなたとこうしているとドキドキして照れてしまいますからね。あなたにもドキッとして欲しかったのです」

「…………あ? じゃあ、なんだ。あんた、わざと俺を煽ってたのか?」

こげ茶色の瞳が、今度は射殺すようにわたしを見下ろした。

わたしはそっと眼をそらした。そのまま、そろりそろりと距離を取る。

しかしバーナードが離れた分だけ近づいてくる。それも威圧するように靴音を立てながらだ。

ついには壁際まで追い込まれてしまう。逃げ道を塞ぐように、バーナードが右手を壁につく。わたしは壁を背にしてバーナードを見上げた。

「恋人らしい戯れです。婚約者同士の軽いスキンシップというものです。あなたに怒られるようなことは何もしていませんよ」

わたしは胸を張って言い張った。

しかしバーナードは、唇をにいと釣り上げて、凄みのある低い声でいった。

「殿下、俺はつくづく思っているんですが、あなたは俺に対する危機感というものが欠けています。俺はね、その気になったら誰の首でも落とせるし、あなたを攫って逃げることもできるんですよ」

唇だけで嘲笑いながら、こげ茶色の瞳がこれ見よがしにわたしを覗き込む。

「そんな危険でイカれた男を挑発したら、どんな目に合わされるか、その賢い頭でよく考えてみろ、姫様。自分から煽ってきたんだ、何をされても文句はいえないだろう? ……なんて、俺にいわせたいのか?」

「それは……、その……」

「わかったらよく反省して今度からはしないと約束」

「具体的にどういったことをされる予定なのでしょうか?」

「…………………は?」

「ですから、具体的にどういったいちゃいちゃな行為をされてしまうのでしょうか? やはりこう、皆がいるというのにこっそり手を繋いだりしてしまうのでしょうか? あっ、それとも深夜にあなたがわたしの部屋に忍んで来るのでしょうか!? 後宮の窓の錠を開けておきましょうか?」

思わず期待に満ちた目で見上げる。

バーナードはなぜか片手で顔を覆った。

「で、ん、か!! あなたは俺がいっていることを何も理解されていませんね!?」

「そういわれましても……、あなたが意味なく剣を抜くことはありませんし、わたしの言葉を無視することもありませんでしょう。わたしはあなたがそういう強くて優しくて誠実な人だと知っていますよ」

バーナードが大きく呻いた。

「───あぁクソ、ちくしょう、そういう話をしてるんじゃねえんだよ姫様!」

「ふふふ、照れていますね?」

「ちがう!」

「わたしも少し照れてしまいますけど、それでも具体的ないちゃいちゃについてはぜひ聞かせていただきたいと思うのです!」

「俺はあんたが笑ってくれるだけで雨だろうと嵐だろうと晴れ渡った気分になるが、それはそれとしてときどき小悪魔に見える……!」

「はっ、もしかしてわたしに悪魔のような色っぽい仮装をしてほしいのですか? そういった趣向が好きなのですか?」

「濡れ衣です!!! ………いや見たくないかっつわれたらクソ見たいが、クソ仕方ねえだろそれは死ぬほど見たい……」

最後はぼそぼそといわれてよく聞き取れなかった。もう一度言ってほしいと眼で訴えたけれど、こげ茶色の瞳に冷たく拒否された。