軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

70

私の言葉に、想いに、思い出に。

深く心を傾けてくださる方との時間は、矢のように過ぎていく。

矢のように。

矢のように、だなんて。本当に放たれた矢を見たこともないのにと、自ら狩りに出ることも、狩りに出た人々を眺めることもしなかった以前の私は、そう思い、少しおかしかった。

しかし今は、自嘲することも最早無い。

私は、放たれた矢を見た。願いを託す流星が如く空を駆ける、火を伴った矢が空を覆う様を、見たのだから。

あれは当然の報いだった。私達に降り注ぐべき、正当なる裁きだった。そうと理解している。そうと納得している。あれは当然の事実であり、正当なる報いだ。

けれど、あの光景を衝撃として受け止めた事実だけは、私に残された最後の自由として許されるのかもしれないと、最近思うようになった。

お忙しい院長先生が、私との時間を多く取ってくださったのは、気遣いも多かったのだろう。

そう、騒がしい外の音を聞きながら思う。院長先生が外の騒動に驚かず、急ぎ立ち上がることもなく話を続けているのだから、尚のこと。

しかし、閉じた窓越しからも分かるほど沸き立った声を聞き、院長先生は静かに微笑んだ。

「あらあら、もういらっしゃったのね。シャーリー、あなた、とても愛されているのねぇ」

どう答えればいいのだろう。身の内にある複雑な事情と、少しの気恥ずかしさで、私は小さな苦笑を返すことしか出来なかった。

院長先生を先頭に部屋から出ると、子ども達がわっと駆け寄ってくる。子ども達は、次から次へと院長先生に飛びついていく。お年を召した院長先生は、少しふらつきながらも子ども達を受け止め、しっかりと歩を進めた。

子ども達は、大好きな院長先生にお話を聞いてほしくて、ずっとそわそわしていたのだろう。けれど来客対応中の院長先生の邪魔をしてはいけないと分かっている。だから、我慢していた反動が元気いっぱいの飛び付きという形で現われているのだ。

子どもが元気な様子を見れば、喜びと同時に安堵が湧き上がる。子どもが不調であれば、案じる心が不安と共に膨れ上がる。

それは、真っ当な人間であればあるほどそうだろう。だから、子どもとしてあれなかった私という異物に、優しいこの方がどれだけ心を痛めてくださったか。想像するに難くない。

姿だけが幼子であり、その実、優しい人々に心を砕いてもらえる価値などなかった私という存在の為に、どれだけこの方が嘆いてくださったか。

飛びついてくる子ども達一人一人に対し、衒いない笑みを返してくださる様子を見れば見るほど、身に染みる。分かっていたはずの事実が、深く。

「せんせ! せんせ!」

「いんちょーせんせ!」

「お客さま!」

甲高い、感情がそのまま飛び出した声に、院長先生は穏やかに頷く。

以前とは身形の変わった私を物珍しげに見てくる子ども達の視線を受けながら、私は廊下の窓へと視線を移した。

この窓からは、養護院の入り口である門が見える。門といっても、少し傾いた木で作られた小さな門だ。

そこはいつも、外部の人間の気配が少ない場所だ。養護院を訪ねてくる外部の人間はほとんどおらず、また村人はわざわざ門まで回らず、近い場所から柵を跨ぎ、ひょいっと入ってくることが多いからだ。

しかし今日は門の周辺が賑やかだ。私が乗ってきた馬車と、私についてきてくれたカロン達と護衛騎士。大勢の訪問で、いつもは子ども達の声が跳ね回る騒がしさとは違う賑やかさが彩っている。子ども達も、物珍しい来訪者に釘付けだった。

今ではそこに、更なる人集りが増えている。そして、馬もだ。閉じた窓越しに喧噪が届くのだから、外に出ると相当だろう。

「あのね、あのね!」

「りょーしゅさま!」

人集りでその姿までは見つけられないが、どうやら思っていた以上にカイドは仕事を急いだようだと、心の中で苦笑する。

カイドはいつも、無理をしてしまう。自分の無理を勘定に入れて行動できないのだ。けれど無理を押し通せてしまうところがカイドらしいとも思えてしまうのだから、きっともうどうしようもないのだろう。

子ども達は我先にと駆け出し、院長先生の為に玄関扉を開ける。幼子の力では重い戸も、手慣れた様子で体重をかけて開けていく。

古くなった扉が、子ども達の全力をかけた体重によって独特の軋みを上げて開くにつれ、遮られていた音がわっと飛び込んでくる。

開かれた扉の先では、村中の人々が集まっているのではと思うほどの人集りが出来ていた。

院長先生が早々に私との話を切り上げていれば、この人集りに埋もれていたのは私のほうだっただろう。

よく見れば、人集りを作っているのは村人だけではない。隣村や、町からも人が訪れているようだ。祭りの日よりも人が多いように思う。

そんな人集りの仲であろうと、傍へ近づけばすぐにその背が見えてくる。

ライウスの領主カイド・ファルアは、沸き立つ村民の声を真っ直ぐ伸ばした背で受け止めていた。

背後と左右は、さりげない形で護衛が控えているため、人集りがあろうと私が彼の傍に近づくのは容易だった。護衛達は、私の為に道を空けてくれるからだ。

人集りを作っている村人の中には、私に気付き、親しげに頬を緩めてくれる人もいた。久しぶりねと、元気にやってたかいと、声をかけてくれる人も。

どの顔も、見知ったものだ。私はこの村で今の幼少期を過ごしたのだから当然である。

けれど、見知っていても、その誰もに親しみを抱けなかった私の罪が、ここにはあった。

「ああ領主様、お目にかかれて本当に光栄です。わしらが生きている間に、このような機会に恵まれるとは!」

村長は、他の人々に支えられながら、感極まって涙ぐんでいる。その様子を、カイドの背中越しに見る。

「どうしても、どうしても貴方様に、直接お礼を申し上げたかったのです」

年齢が年齢である為、早く次の世代に村長の仕事を任せたい、死ぬ前に。そうよく言っているのだと院長先生より聞いていた村長は、そんな気弱さなどどこにも見つけられないほど興奮している。

それは、当然だ。

私はカイドの背を前に足を止め、ゆっくりと瞳を伏せた。

「貴方様があの悪魔共を殺してくだすったおかげで、ライウスは救われました!」

この生の中、雨のように聞いてきた言葉が、また一つ世界に放たれた。

「貴方様のおかげです。貴方様があの悪魔共の血を絶やしてくだすったおかげで、今のライウスがあります。本当に、本当に感謝しても仕切れません。ありがとうございます、あの悪魔共を殺してくだすって、本当にっ……!」

ライウスでは、高齢の人ほどつらい時代を生きてきた時間が長い。そして、諦めも強かった。

変化と言えば悪化することしかなかったライウスで、明日を夢見る力を誰より失っていたのは老人達だった。足掻き、悶え、耐え続け。そうしてそれら全てが届かなかった時代を誰より見てきたのだから。

ある日突然、夢見ることさえ忘れてしまった光がライウスを照らしたその時、彼らはそこに何を見たのだろう。

神だろうか。神よりも身近な、手の届く奇跡を、彼らは何と名付けたのだろう。

ありがとうございます。

ありがとうございます。

ありがとうございます。

あの悪魔共を。

あの鬼畜生共を。

あの屑共を。

殺してくださって。

首を落としてくださって。

野垂れ死にへと追いやってくださって。

何度殺しても足りないけれど。

どう殺しても足りないけれど。

この恨みには、到底足りないけれど。

それでも。

本当に。

本当に。

本当に。

ありがとうございます。

木々が擦れ合うようなしゃがれ声が、暴風のような大きな声が、せせらぎのようなすすり泣きの声が、それらを真似した転がるような幼い声が。

ライウス領主に礼を言う。

ライウス領主を称え、感謝を述べ、涙を流す。子ども達はそんな大人達を不思議そうに見上げながら、促された礼を嬉しそうに述べる。

私は緩やかに上げた視線の先で、それらを受けるライウス領主の揺るがない背を見る。真っ直ぐ立ったまま、人々から溢れ出る感謝を受けるその背を。

一度、そっと視線を外す。私と共にこの地を訪れたカロン達は、皆同じ場所に位置取っている為、目的の人物を探すことは容易かった。

視線だけでその姿を捉える。

ウィルフレッドは、ただそこにいた。

その瞳はライウス領主の背を見ているが、それだけだ。その足は動こうとしていない。

瞳に怒りや憎悪が存在しないわけでは決してない。けれど、それだけが存在しているわけでもなかった。

穏やかでも苛烈でもない瞳の理由は、彼の両腕にしがみついている二人の子どものおかげだ。

二人の子どもは、腕を組むと表現するにはあまりにも必死で、まるで彼らこそが縋りついているかのようだった。ウィルフレッドを両側から押し潰してしまいそうなほど懸命にしがみつかれては、ウィルフレッドといえど憎悪だけを抱くわけにもいかないだろう。

領民達の怒りと憎悪は決して消えはしない。それは彼も同じだろう。けれど彼の両腕には、自分達こそが泣き出してしまいそうな子どもがいるのだ。

あの人は、本当に、得難い存在に愛された。少なくとも、怒りと憎悪を抱いたまま、この時代を生きる可能性を得た。それを幸いと笑えたその時、彼の生はこれまで経験したことのない色に染まるだろう。

ライウス領主の背だけを見ていたウィルフレッドの視線が、私と重なる。苦々しげに私を見た後、すぐにその視線は両腕にしがみつく子ども達へと向けられた。

だから私は、視線を再びライウス領主の背へと向けながら、彼との距離を小さく二歩詰めた。たったそれだけの間にも、彼への賛美は重なっていく。

殺してくれてありがとう。

この言葉を、彼はこれまでにどれほど聞いてきたのか。遙か遠く離れた辺境の村で生まれた、現領主と無関係である孤児の私でさえ山程耳にし育ったのだから、当事者である彼は、それこそ雨粒より多く聞いてきたはずだ。

二歩詰めた先で立ち止まった私の前で、これまで微塵も揺るがなかった背がゆっくりと動いた。

そうして、ライウス領主は振り向いた。民の声を受け取るに相応しい顔をして。

だから、私から彼に告げる言葉など一つしか存在しない。そして、彼にだけ告げるべき言葉も同様に。

「笑いなさい、カイド」

この世界で立った一人にだけ聞こえるよう紡いだ言葉に、カイドの瞳は僅かに揺れ。

ライウス領主は、微笑んだ。

「まあまあ、皆さんったら。いくら嬉しいからと言って、花嫁の故郷を訪れてくれた若いお二人の邪魔をするだなんて、無粋ではありませんか? シャーリー、いえ、もうシャーリー様とお呼びすべきね。シャーリー様、領主様にあなたが生まれ育った村をご案内してさしあげてはどうかしら」

ころころ笑いながらそう言ってくださった院長先生のおかげで、私とカイドは私達を囲む人の輪から離れた。

人々の興奮も仕様のないことだけれど、今は少し、時間がほしかった。

カイドがああして囲まれることは、決して珍しくない。ライウスが今の体制となってから十数年。けれど二十年経ったとしても、領主が全ての地を直接訪れられるわけもない。

前領主達が積み上げた恨みがあればあるほど溢れ出す、伝えねば耐え難いほどの感謝を渡す機会を目の前にして、止まることの出来る人間はそう多くない。止まる理由さえ見つからないだろう。

護衛達は、私とカイドから少し離れた場所を歩いてついてくる。興奮のまますぐに周りを囲んでしまう人々を抑える理由もあるけれど、何よりの理由はカイドがそう指示したからだ。

護衛は、人々、そして自身らも含めた全てが、私達の会話の届かない最低限の距離を大きく越える範囲を確保してくれた。

緩やかな曲がり道であっても、すぐに人々の視界から消えてしまうほどに。

そうして私とカイドは、二人でゆっくりと村を巡った。

カーイナはライウスの中でも群を抜いて田舎だ。けれど村の範囲が狭いわけでは決してない。住人の数は少なく、土地は広い。平地は狭く、山は深い。

住人皆一所に集まり、その動きが護衛達により穏やかに制限された今、人目は無いに等しかった。

人の気配が薄くなった村の中心部から更に離れた畦道を、二人で歩く。この地にある道は、当然王都のように整備されてはいない。それどころか、舗装すらされていない場所も多い。

人通りが多い道以外は、轍の跡が残っていればいいほうで、後はあっという間に草だらけになってしまう。

けれど今は、草が綺麗に刈られ、整備し直された道しか見当たらない。小さな石まで丁寧に取り除かれ、草が抜かれた土を丁寧に埋め直した真新しい跡が目立つ。

待ちに待った領主の訪問で、村中が沸き立ち精を出す微笑ましい様子が目に浮かぶ。

そうして作り上げられた道から視線を外し、隣を歩く人を見上げる。

「カイド」

「はい、お嬢様」

いつも通りの声、言葉、表情。そのどれも、いつもと何一つとして変わらない。

これだけ近くで視線を向け合っていてもそう思えるそれが、これまで過ごした彼の時間を証明していた。

「右手に川が見えるでしょう? ここから少し先にね、開けた河原があるの。この村ではお祭りやお祝い事があると、その河原で行うの。皆で椅子や机を並べるのだけれど、石の上に用意するから、平行に保つのには少しコツがいるのよ」

「はい」

「左手の山間に少し大きな建物が見えると思うのだけれど、あの建物がね、私が通った学校よ。ふふ、おかしいわね。通うという言葉を、以前の私は使ったことがなかったの。今はね、たくさん使ったわ。学校に通って、お手伝いに通って……たくさんのことをね、したの」

たくさんのことを経験した。幸いを遠ざけ、頑なに不幸を追った生でさえ、溢れんばかりに。

何も持たない子どもがそれだけのものを当たり前のように得られたのは、その為の基盤を整えた人がいるからだ。そして、その人が誰かなど、ライウスの民ならば誰でも知っている。

カイドに伝えた河原へ辿り着く前に、橋を渡って川を離れる。やがて道は緩やかな上り坂となった。この道は山へと続いている。

山と言っても険しさはなく、校外学習でよく使用されるような場所で、普段は子ども達の遊び場となっている人の手が入った穏やかな山だ。

森は浅く、光も入りやすい。子ども達がいない時間帯は人気も薄い。

少しだけ、生まれ育った家で過ごした一角に似ていて、これまでは出来る限り足を向けなかった場所だ。

カイドは私に言われるがまま歩いている。私が川の中を歩くと言ったとしても着いてきてしまうのではと心配するほどに。

「……ねえ、カイド。烏滸がましいことだと分かっては、いるのだけれど」

一度、言葉を切る。

カイドは足を止め、ゆっくりと私を見た。

「……お嬢様?」

カイドの瞳は、先程抱いていた痛みではなく、私を案じる色に染まっている。

私が言葉を続けるには、とても勇気が必要だった。私は今から、許されない言葉を吐こうとしている。思うことすら許されないこの言葉は、ライウスにとって禁忌ですらあるのだろう。

それでも。

「私も、今のライウスを作る手助けが出来たのだと……思っても、いいかしら」

私の死があなたの役に立てたのなら嬉しい。ライウスの未来そのものである子ども達の糧になれたのなら嬉しい。

そう誇ることは、許されない。ライウスの民が許すはずもない。それだけの罪を重ねてきた。

けれど、そうと分かっていて口にした願いを、カイドは弾かれたように見開いた瞳で受け止めてくれる。

そうしてくれると、分かっていた。分かっていて口に出したのは、彼への甘えであり、私の狡さだ。

ぴたりと足を止めたカイドより二歩多く進んだ私も、足を止める。再び俯いたカイドと向かい合った私の視線が合うことはない。

「……今のライウスは、お嬢様が作ってくださったものです」

「いいえ。ライウスを存続させ、今のライウスを作り上げたのはあなたよ」

「違います」

「カイド」

俯いたまま頑なに告げるカイドは、その掌も固く握りしめている。

ああ、傷ついてしまう。

そう思い、その手にそっと触れる。びくりと身体を跳ねさせても、カイドは私を振り払いはしなかった。

カイドはいつだって私を受け入れてくれる。裏を返せば、カイドはいつだって、私を振り払えない。

だから私は、カイドの変化を見逃してはならないのだ。どんなことがあろうと、決して。

「あなたが作ってくれたライウスが、私にたくさんのことを教えてくれたわ。何一つとして行動してこなかった私でさえも、たくさんのことを知って、経験したの。……誰にだって、得手不得手はあるわ。けれどそれだって、経験しなければ分からないものよ。ライウスの子ども達はそうやって、自分を知っていく時間を得ながら大人になっていける」

急いで大人という名の労働力にならずともいい。子どもが足手纏いとして認識されず、守り育まれる時間が不要と判断されず、当然のものとして在る時代。

教育は、人が世界を知る為に必要なものだ。誰だって、知らないものは分からない。知らないことすら知らないまま進んだ先にある罪の重さを、私は己の首で贖った。

それはこの首一つで贖いきれるはずはないけれど、子ども達に同じ末路を辿ってほしくはない。犯した罪の重さを知らぬまま、罰に追いつかれて終わる生を、誰一人として。

その為に必要な教育という名の過程を用意するのは大人の務めであり、貴族の義務だ。

それらを果たさなかった私がえらそうに語る言葉など、本当はありはしない。目の前にいるのは、それらを誰より正しく民へと渡せる人なのだから。

「あなたのおかげよ。ありがとう、カイド」

「…………お嬢様のご尽力あってのことです」

触れたカイドの手は、固く握りしめられたままだ。

「俺は、己の力だけでは何一つ……為せませんでした」

現在のライウスは彼が作った。彼が壊し、彼が築いた。

彼が救ったその功績を、彼自身がそうと思えずとも、その事実は変わらない。彼がどれだけ願おうと、変わることは決してない。

「私はね、カイド。私にも出来ることがあったのだから、とても嬉しいの。本当よ。そしてあなたはね、それしか出来なかっただろうと私を責めなければならないの」

「お嬢様っ……」

この人がその全てを懸けて築いた功績が、生涯この人を苦しめる。功績を傷としてしまったこの人を癒すことは、私には出来ない。私という存在は、傷を更に抉ることしか出来ないのだ。

今のカイドの顔を見れば、きっと誰にだって分かる。それほどに、カイドは酷い顔をしていた。

「……そのようなことを、仰らないでください」

「……あなたは私を責めなければならないのに、どうしたってそうはしてくれないのね」

そしてきっとこれからも。

私が命じても、それは変わらないのだろう。

彼は私の命を聞く義務などないのに、未だ律儀に命を守ってくれるこの人が私に齎す唯一の拒絶でさえ、結局は彼の優しさゆえだ。

そんな唯一の頑なさを蔑ろにしたいわけではない。彼の意思を尊重したい。その上で、この人に私が渡せるものは何があるのだろう。

「あなたは私が背負わせてしまったものを持ちながら、私に与えてばかりいるわ。私はそれが、酷く悲しいの。ねえ、カイド。私はあなたに何が渡せるかしら」

見上げて問うても、カイドが口を開くことはない。

「何が欲しい? 私があなたに渡せるものならば、何でも持っていっていいのよ。ねえ、カイド。。私はあなたに、何が出来るかしら」

何の表情も浮かべていないカイドの瞳は、暗く淀んでいる。光を失った夜よりも深い、感情全てが塗り潰されたかのような瞳だ。

「……お嬢様は」

「なあに?」

この抑揚のない声に色がついていたとするならば、きっと今のカイドの瞳と同じ色彩をしているだろう。それほどに、深く静かで、光を失った声だった。

「――お嬢様が俺といてくださるのは、俺に褒美を与える為ですか」

「あら、まあ」

話していた順序がよくなかったと気付いた途端、申し訳ないと思いながらも思わず笑ってしまった。

大きな瞬きが降ってきたことで、いよいよおかしくて堪らなくなって、笑いながら抱きしめる。カイドは抱きしめ返してはくれなかったけれど、そんなことは気にならなかった。

「カイドったら、あなたまさか、そんなことを心配していたの?」

そうだとしたら、なんて臆病で、可愛い人なのだろう。

「私があなたに何かを渡したいのは、あなたが好きだからよ。愛しいあなたに贈り物をしたいの。けれど私は、あなたに何を贈れば喜んでくれるのかちっとも分からないわ。だってあなた、欲しい物を何にも教えてはくれないのだもの。だから聞きたかったのだけれど……そうね、ごめんなさい。言い方がよくなかったわ」

抱きしめた身体から急速に力が抜けていく。ずるずるとしゃがみ込むように落ちていく身体を支えきれないのに、カイドと一緒に地面に落ちることはなかった。カイドはやんわりと私の腕を解いてしまったからだ。

こんな時まで、本当に仕様のない人だ。

どこか呆然と座り込んでいるカイドは、さっきまで揺るぎない背で立っていたライウス領主と同じ人だと思えない。どこか儚く、か細く、頼りなげに見える。

地面に座り込んだカイドは少しの放心後、すぐにはっと顔を上げた。

「お、嬢様…………申し訳、ございません」

顔自体はすぐに上げられたけれど、視線だけは恐る恐る私を向いている。誰もが滅びると確信していたライウスを革命によって取り戻し、今日まで築き上げてきた人が、なんて顔をするのだろう。

まるで脅えた子犬のようだ。寄る辺のない震える身体で、降り注ぐ冬の雨を受けているかのように痛々しい。

この人は本当に、どうしたらいいのだろうと呆れてしまう。

私は、その気持ちのままにカイドの頬へ両手を添え、その額に唇を落とす。

「不安にさせてごめんなさい、可愛いあなた。どうすれば許してくれる?」

ぽかんと私を見上げるその鼻にも唇を落とし、可愛いらしいその人を胸元に抱き寄せる。私よりうんと大きな身体をしているのに、すんなり腕の中に収まってしまう頭が愛おしい。

「いえ、俺がっ」

「いいえ、私がいけないの。ごめんなさい、可愛い人。どうか私を許してちょうだい」

「……お嬢様こそ、怒ってくださらないと、困ります。俺は貴女へ向ける感情に際限がないと、もう、自覚しているのですから……」

抱きしめても一人で凍えてしまうこの人は、どうしようもなかった私とは違う方向で仕様のない人であり、呆れるほどに可愛らしい人なのだ。

「あら、それは嬉しいことではないの? だってね、カイド。私はあなたが心を仕舞い込んでしまうと、とても悲しいのよ。だから、ね? 大丈夫、大丈夫よ。怖がらないでちょうだい。……いいえ、怖がってもいいの。私を信じられず惑って、疑って、怒ってもいいの。言ったでしょう? あなたは私に何をしたっていいのよ。どんな感情をぶつけたって構わないし、私はそれが嬉しいの。あなたが心を分けてくれるのなら、それがどんなものだって私には喜びでしかないわ」

あなたを教えてほしい。貴族として生きることを己に課し、領主として生きる道しか選べなかったあなたの心を分けてほしい。

何度伝えても受け取れきれないあなたの為ならば、何百回伝えても構わない。

あなたの為に噤む言葉などどこにもない。あなたの為に惜しむ心がどこにもないように。

「ねえ、カイド。私の死が、ライウスの明日を築く礎になれたのならこんなに嬉しいことはないわ。それは本当よ。けれどね、これからは別の形でもライウスの役に立てるようになりたいの。勿論、あなたの役にもよ。……その為の基盤を、あなたがくれたの。そのことをどうか悲しまないで。私が無知を失う日々を、どうか惜しまないで」

私達はきっと、生涯互いに負い目を抱き続けるだろう。その上で、それらが強固な繋がりとなる日を思いたい。

遠い東の地には、割れた陶器を金で接ぐ技法があると聞いたことがある。破損を終と諦めず、本来隠されることを良しとする傷口を、まるで彩るように美しい金色で繋ぐのだという。

傷のない完璧だけを愛するのではなく、傷ついた歴史を傷ごと愛する。そんな少し切なくも優しい修繕方法が存在するのだと。

勿論、傷などつかず、知らず。愛する人にはそうして生きてほしいと願う。けれど、どうしたって傷はつく。時が刻まれる以上、無傷ではいられない。

私もカイドも、互いを傷つけ合う過去を抱いた事実は消えない。どれだけ時が過ぎようと、罪は罪だ。許される罪ではないことも分かっている。

それでも、私達の、私の死は必要だったのだと。

カイドも、カロンも、ウィルフレッドも。誰もがそう口を揃えて笑える未来を願ってしまう。

過去をやり直せるのならばと思ったことは、それこそ数え切れないほど存在する。それでも、過去は変えられない。歴史は繰り返すけれど、過去が変わることなどあり得てはならない。

変容した過去を得て訪れる未来の中に、今の世に生まれ育った命の形はきっと存在しないのだから。

自らにだけ都合のいい歴史を紡いで何になる。今の世で生まれ育った子ども達を失ってまで、そんなものを望む意味がどこにある。

それは、ライウスを支配した前領主一家の有り様と、一体何が違うというのだろう。

誰も彼も、未来を知り得ぬから惑うのだ。惑い、藻掻き、足掻き、竦む足を奮い立たせて進むことで望む未来を探し続ける。

だからこそ歴史の忘却は許されず、現在を真っ当に生きる義務を持ち、未来を守ろうと散る。

そうして進む未来を、自らにだけ都合のいい道を敷いた結果とするなど、この世の何よりも悪辣な悪行だ。

「カイド、ねえ、可愛いあなた。あなたの願いを教えてちょうだい。ねえ、可愛い人。あなたは何を喜んでくれるのかしら」

私達はどこにだって行ける。けれど私達はどこにも行けない。

私達はライウスで生まれ、ライウスに死ぬ。

それしか許されず、それしか許せず、そうとしか生きられない。

それでも、私達の願いは呆れるほどに重なってしまっているのだ。目指すものが同じならば、この場所でしか生きられない事実はただの共通点でしかなかった。

「…………お嬢様、俺と結婚してください」

「嬉しいわ。私も、式を挙げる日がとっても待ち遠しいの」

「……ウィルフレッドと、ジャスミンとサムアの話をするのは控えめにしてください。夫婦で子どもの話をしているように見えるときが、あります」

「あら……ウィルが聞いたら愉快な顔をしそうね」

「……フェンネルが宝飾品を持ってくるときは、必ず俺を帯同してください」

「あなた、フェンネルとお友達になったの? 素敵ね。幾つになっても、新しいお友達が出来ると嬉しいものね。分かったわ」

「………………」

最近は少し忙しくて、折角ライウスに来てくれたフェンネルの店を訪ねることは出来ていない。けれどフェンネル自ら屋敷を訪ねてくれるので、予定が滞ることはなかった

結婚式の装飾品は、全てフェンネルに頼むことになったので来てもらう機会も多い。その際のどこかで、または重ねた回数で、二人は友達になったのだろう。それはとても素敵なことだ。

そう思ったけれど、カイドはそこから口を閉ざしてしまった。

教えてくれた願いは三つ。たった三つ。されど三つ。これまで願いを口に出すことを己に禁じてきた人が三つの願いを紡ぐのに、どれだけの勇気を出したのだろう。

けれど私は強欲なのだ。

温かな頭を抱きしめたまま、そこに頬を寄せる。

「他には? あなたのことたくさん聞かせて。私、あなたが喜ぶことをしたいの。他に、私に出来ることはある? 私があなたにあげられるものは、他に何があるかしら」

不意に背中が温かくなった。私の背に腕を回したカイドは私を見上げる。合わさった視線が嬉しくて、額を合わせてくすくす笑う。

「……お嬢様は、俺に望むことはないのですか。俺だって、貴女に何かを差し上げたい。償いだけでなく……ただ貴女に恋する一人の男として、貴女に喜んでいただきたいのです」

今度は私が瞬きをする番だった。

少し考える。望むことはたくさんある。

幸せになってほしい。悲しいこともつらいこともなく、鮮やかで穏やかな日々を自分の為に生きてほしい。

口に出せる願いも、出してはならない願いも、それこそ山程。

けれど、いま願うことは一つだけだった。

「――笑ってちょうだい、カイド」

告げた願いに、私の可愛い人は一度大きく瞳を開き。

次いでくしゃりと、ヘルトのように笑った。