軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

34. 公爵令息と子爵令嬢

エヴァとエイドリアンの三曲目のダンスが始まった頃、ヘンリーに促されてそっと会場を後にした。

今は広間のほとんどの人が二人のダンスに見入っているけれど、それが終われば自然と先にエイドリアンと二曲を踊ったのは誰だったのかと話題になるだろう。当人がいなければどうとでも誤魔化しが利くので、その前に会場を離れたほうがいいという判断だった。

見上げるほどに高い天井から垂れ下がるぶ厚いカーテンをくぐればバルコニーに出て、そこを伝えば広間から離れた廊下に出ることができるのだという。すっかり一仕事終えた気になっているけれどパーティはまだ始まったばかりで、このタイミングでバルコニーやテラスを利用する人はいないらしく、広いバルコニーは私とヘンリーの二人きりだった。

「よくやったな」

「へへっ、がんばりました」

思わずピースをしたものの、ヘンリーには意味が分からなかったらしい。それでも同じように、人差し指と中指を立ててくれる。

前世の日本のように排気ガスも、夜の街を照らすネオンもないので、こちらの夜空は王都でもすごく星がきれいだ。今日は月が爪の先くらい細いので、小さな星もきらきらと瞬いて見える。

そんな夜空を見上げていると、ヘンリーは急かしたりせず、バルコニーの手すりにもたれかかった。

「もうしばらくここは無人だろう。少し休んでいくか?」

「うん!」

春の空気は少し肌寒くて、でもとてもすっきりしている。すうっと深く息を吸うと、どこかで咲いているんだろう、花のいい匂いがした。

「あー、やりきった! やったー!」

「ははっ」

令嬢としてははしたない勝鬨に、ヘンリーは肩を揺らして笑ってくれる。それに笑い返して、同じように手すりにもたれかかった。

「これで、ようやくみんな自由の身だね。エヴァと殿下も、上手くいくかな」

「ああ、姉上が上手くやるだろう。殿下はあれで、以前は姉にとても気を遣っていたしな」

エドワードはいまだに乙女を探し回っているけれど、今のところは上手く逃げ回れている。ジュリアン先生はまだまだ聞きたいことがあるみたいだけど、それも何年もは持たないだろう。トリスタンは「討議会」を潰すのに奔走しているし、エイドリアンはエヴァときっとうまくいく。

「明日には、家に帰るね。長らくお世話になりました」

そしてソニアは、元の予定通り目立たないよう貴族学園に通い、卒業し、その後は市井で暮らしていく。

何もかも元通りで、これからは誰もがそうであるように、先の見えない未来を進んでいくのだ。

ヘンリーは手すりから体を起こすと、とん、と左のつま先を右足の後ろで立て、左手を腰に、右手を胸に当てて軽く上体を前に傾がせる。

正式な紳士の礼だ。

「――レディソニア、一曲お願いできないだろうか」

厚いカーテン越しに、バルコニーにも広間の音楽隊の奏でる曲が聞こえてくる。その柔らかい旋律に誘われて、私も手すりから降りてスカートを摘み、教えられた淑女の礼を執った。

「はい、よろこんで」

笑ってヘンリーの手に手を重ねて、音に乗って踊り出す。

くるくると回り、軽く上体を後ろに傾け、ヘンリーの手が上がるとその下でくるっと回る。スカートが体の動きに合わせて少し遅れてついてきて、月明りに刺繍に使っている銀糸とスパンコールがきらりと輝いた。

ヘンリーとは今日のために、何度も何度も、ダンスの練習をした。優美で流れるようなエイドリアンのエスコートとは少し違っていて、ヘンリーのそれは力強く、けれどしっかりと、私を導いてくれる。

「ソニア」

「うん」

「がんばったな」

「うん」

「えらかった。改めて、礼を言う」

「……うん」

広間では多くの人がダンスに興じているのだろう。途切れることなく音楽は続き、自然と二曲目に入った。

「帰りたいわけではないよな?」

「まあ、ちょっとの間だし、すぐに寮に移動するし」

「食堂の食事は、あまり美味くないんだろう?」

「もう慣れたものだよ。三食出してもらえるだけでありがたいし」

「バスタブもないと聞いた」

「それはちょっと不満かなあ」

手だけをつないで左右に大きく腕を広げる。そこから引き戻されて、ステップ。

「うちにいればいい」

「でも、もう理由はないし」

正直、公爵家はすごく居心地がいい。でもエヴァの友情とヘンリーの感謝だけで、いつまでも他人の家に長々と居座るわけにもいかない。

そもそもエヴァは、夏の卒業式が終わればすぐにエイドリアンと結婚の準備に入るだろう。そうなったらヘンリーとは同級生というだけの関係だ。同級生の男子の家に居候なんて、前世の感覚でも相当おかしいし、こちらだとそれこそ「責任」が発生しかねない。

だから今がいいタイミングだ。少し寂しい。それくらいが、ちょうどいい。

音楽が続く。ずっと続けば楽しい時間は終わらないのにと思っていると、ヘンリーに腕を引かれ、抱き寄せられた。

そのままもう一度、ターン。

「ソニア・メアリー・シュレジンガー」

「え」

「私と、結婚してくれないか?」

「えっ?」

「正式な求婚だ。君を日陰の身には決してしない。愛する人も生涯ひとりだけだと誓う。他の誰にも、君の嫌う責任の取り方は、決してしない」

「えっ、あの、ヘンリー様」

「ヘンリーと」

「まって、あの」

手を取られ、寄り添ったままくるくると回る。体に染み付くほど練習したせいで、音楽とエスコートがあると体は勝手に決められた型でステップを踏んでしまう。

ああ、これが体が覚えるってことかぁなんて思ったのは、明らかに現実逃避だろう。

「これで三曲目だ、ソニア」

「………」

「イエスと言ってほしい」

「でも、私は子爵家の私生児で、公爵家の奥さんなんて絶対できない」

「君がしたくないことはしなくていい」

「ヘンリーを困らせるよ」

「これから先も、君のために困りたい」

「今はいいけど、いつか嫌になっちゃうかも!」

ヘンリーはははっ、と声を出して笑った。月の女神のようなエヴァとよく似た顔立ちは、星明りの下で、星の王子様みたいだった。

「近くで見ていたのだから、わかるだろう。姉上は、あれほど殿下に冷たくあしらわれてもずっと殿下を想っていた。私は姉上の弟だ。顔も執念深さも、よく似ているという自負がある」

「でも」

往生際悪く、ヘンリーがいつか自分を嫌ってしまうかもしれないと言おうとして、口をつぐむ。

ヘンリーが、すごく真面目な顔をしていたから。

その申し出が、真剣なものだと分かってしまったから。

「曲が終わるまでに、答えが欲しい」

「急すぎるよ!」

「姉上に教わったことで一番有益だったのは、どうしても欲しいものができたら、相手に考える暇を与えるなというものだ」

扇で口元を隠し、悪戯っぽく笑う友達が脳裏に思い浮かぶ。言いそうだ。すごく言いそうだ。

なんという教育を弟にしているのエヴァ!

「君の満足する食事と、美味しいお菓子と、バスタブと、ふかふかのベッドを保証しよう。そして私を大いに困らせてくれ」

ヘンリーはまるで勝ちを確信したように、笑っている。

「きっと一生退屈しないだろう」

音楽は途切れない。

うっとりするほど綺麗な笑みに見入っていて、返事をするタイミングも失くして、二人で星明りの下、見つめ合うように踊り続けていた。