軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 五冊目の名前

秋の朝。

銀木犀が咲いた。

匂いで気がついた。窓を開ける前に、甘い香りが隙間風に乗って部屋に忍び込んでいた。五年間、辺境伯邸で毎朝嗅いでいた香り。鼻の奥に、記憶ごと流れ込んでくる。温室のガラス屋根。朝露に濡れた花弁。土の湿り気。全部が、この香りの中にある。

窓を開けた。

秋の朝の空気が頬に触れた。冷たい。でも日差しは温かい。冷たさと温かさが同時にある朝。

ギルドの裏庭が見える。挿し木の細い枝に、銀色の花弁が三つ。小さい。辺境の親木の十分の一もない。でも確かに咲いている。銀色に。甘い香りを放って。花弁の端が朝日を受けて、白く光っている。

萼の茶色い部分は、消えていた。花弁に押されて、落ちたのだろう。蕾は自分の力で開いた。

「咲いた」

声に出した。自分の声が少しだけ震えていた。

◇◇◇

ギルドに着くと、ルーファスが裏庭にしゃがみ込んでいた。白衣の裾が朝露で濡れている。手にルーペ。花弁を観察している。膝が泥についているのを気にしていない。

「pH測定をする。開花時の土壌データは貴重だ」

この人は、花が咲いた日にも土壌を測る。でも、ルーペを持つ手が少しだけ緩んでいた。観察ではなく、見入っている。研究者の目ではなく、ただ花を見ている目。

「きれいですね」

「……ああ。銀木犀の花弁は、開花直後が最も有効成分の含有率が高い」

有効成分の含有率。この人は、「きれい」と言えないから「有効成分が高い」と言う。もう慣れた。慣れたことが、安心する。この人はこういう人で、それでいいと思えることが。

「ルーファスさん」

「なんだ」

「今日、ノートに名前を書き直していいですか」

ルーファスが顔を上げた。眉が動いた。それから、ほんの少しだけ口元が動いた。

「当然だ」

◇◇◇

午後。鑑定室。

式は先週だった。小さな式。ギルドの裏庭で。銀木犀の花の下で。参列者はリーゼとマルタと、ギルドの同僚が数人。マルタが縫ったリボンを髪に結んだ。白い絹。端のかがり縫いが少しだけ不揃いで、その不揃いさが温かかった。

ルーファスは式の間も無愛想だった。誓いの言葉を求められて、「一緒にいる」とだけ言った。短すぎて司祭が聞き返した。二度目も同じ言葉だった。三度言わせようとしたマルタを、私が目で止めた。

リーゼが泣いた。マルタの目元も赤かった。ギルド長が「おめでとう」と穏やかに言った。

私は泣かなかった。泣く前に笑ってしまったのだ。ルーファスの耳まで赤くて、それなのに顔は真っ直ぐ前を向いていて。銀木犀の甘い香りが式場を包んでいて、花弁が一枚、風に乗ってルーファスの肩に落ちた。払おうとして、私の方を見た。目が合った。おかしくて、嬉しくて、笑ってしまった。

五冊目のノートを開いた。

最初のページ。名前が書いてある。セレスティーヌ・フローレンス。四冊目と同じ字。同じインク。鉄インクの、少し赤みがかった黒。

その下に、新しい名前を書いた。

セレスティーヌ・グランツ。

ペン先が紙に沈む音。鉄インクの匂い。インクが紙の繊維に沁みていく。一画ずつ。消えない字で。

一冊目は「辺境伯邸業務記録」。名前は書かなかった。二冊目も。三冊目は引き継ぎ用に書いて、暖炉で燃やされた。四冊目に初めて自分の名前を書いた。取り戻す手つきで、恐る恐る。

五冊目には、二つの名前がある。フローレンスと、グランツ。

どちらも私だ。旧い名前も、新しい名前も。祖母から受け継いだものと、自分で選んだもの。消された名前の痛みを知っているから、選んだ名前の重さがわかる。

◇◇◇

夕方。

ルーファスが茶を持って入ってきた。薬草茶。マジョラムの比率が高い配合。この人の好みの味。

向かい合って座る。いつもの席。いつもの時間。窓から差す夕方の光が深い橙色をしている。秋の光だ。

作業台の上の乳鉢が琥珀色に染まっている。白大理石の底が、私の手の形に馴染んでいる。毎日少しずつ削れて、今では私の掌の曲線と乳鉢の底の曲線がぴったりと合う。

「書けたか」

「ええ。名前だけ」

「名前が書ければ十分だ」

ルーファスが茶を啜りながら、書類に目を通している。時々、ちらりと私を見て、すぐに書類に視線を戻す。

指輪が光を反射した。銀の輪。月見草の彫り模様。少し緩かったのが、いつの間にか馴染んでいる。

窓の外で、銀木犀の花弁が風に揺れている。三つの花。小さいけれど、甘い香りが鑑定室まで届いている。辺境の温室と同じ香り。でも少しだけ違う。王都の空気が混じっている。

マルタからの手紙が今朝届いていた。仕立て屋の仕事が忙しいこと。来月お茶に来ること。辺境の銀木犀も咲いたこと。フィーナが手紙をくれたこと。

フィーナの手紙は胸ポケットに入っている。

「セレスへ。おはなさいたよ。ぎんいろ。きれい。セレスのとこもさいた?」

咲いた。ここでも。

二つの庭で。二つの場所で。一つの根が、枝分かれして。

◇◇◇

静かな午後だった。

特別なことは何も起きていない。ただ、同じ部屋で、同じ茶を飲んで、同じ仕事をしている。ペンが紙を走る音。湯呑みから立ち上る湯気。薬草の匂いと、鉄インクの匂いと、銀木犀の甘い香り。

五年間なかったものが、ここにはある。

名前を呼んでくれる人。仕事を見てくれる人。茶を淹れてくれる人。

そして、もう一つ。

五冊目のノートに書かれた名前。自分の字。自分のインク。消されない名前。燃やされない名前。

セレスティーヌ・グランツ。

窓の外で、銀木犀の花弁がまた一つ開いた。甘い風が、鑑定室を満たしている。