軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 お茶の約束

マルタの手が変わっていた。

下宿の三階、狭いテーブルを挟んで向かい合った時、最初に目に入ったのはそれだった。あかぎれの跡が薄くなっている。代わりに、指先に針の跡が点々と並んでいる。仕立ての仕事。

指の皮が、水仕事の固さから縫い物の固さに変わりつつある。爪の際の荒れが消えて、代わりに人差し指の第一関節の横に、針を押す時にできる窪みが薄くできている。

「指、痛くありませんか」

「慣れました。水仕事よりはましです」

マルタが微笑んだ。数えるのが追いつかなくなっている。王都に来てから、この人の表情が増えた。筋肉が弛んだのではない。許可が出たのだ。三十年間、使用人長として閉じていた表情に。

リーゼがお茶を運んできた。三人分。杯は揃いではない。下宿に来た時に買った安い陶器と、ルーファスがくれた少しいいやつと、リーゼが洗濯屋のおかみさんからもらったという柄物。湯気が三つ、まっすぐ天井に向かって立ち昇っている。風がない証拠。穏やかな午後だ。

「マルタさん、お砂糖入れますか」

「いただきます。少しだけ」

リーゼがマルタの杯に砂糖をひとさじ。匙の先で砂糖が湯に溶けていく。マルタが「ありがとう」と言った。

不思議な光景だった。辺境伯邸では、マルタが茶を運ぶ側だった。リーゼはマルタの指示で動く側だった。今は三人が同じテーブルで、同じ茶を飲んでいる。

マルタの背筋は相変わらず伸びている。座り方に隙がない。でもエプロンはしていない。紺色の普段着。妹の仕立て屋で縫ったのだろう。布地が少しだけ上等だ。袖口の始末が丁寧で、縫い目が均等だった。

茶を一口。リーゼの淹れ方は、最初の頃より格段に上手くなった。蒸らす時間をちゃんと計っている。お湯の温度も。

◇◇◇

「妹のところは、いかがですか」

「忙しいです。王都の仕立て屋は注文が途絶えません。私はまだ裾上げと繕いしかできませんが」

裾上げと繕い。三十年間、屋敷の全てを仕切ってきた人が。

でも、マルタの声に卑下はなかった。事実を述べているだけだ。新しい仕事の、新しい段階。祖母が言っていた。「下手な時期がない仕事なんてない。下手な自分を恥じない人だけが、上手くなれる」。

「差し出がましいことを申しますが」

口癖。安心した。この人がこの言葉を使う時は、何か大事なことを言おうとしている。

「セレスティーヌ様。お元気そうですね」

「……はい」

「お元気そう、というのとも少し違いますが」

マルタが茶を一口啜った。杯を置く音が静かだった。

「根がついた、という感じです」

根がついた。

植物の話ではなくて。でも植物の話でもある。マルタはいつも、的確な比喩を使う。三十年間、薬草園の横で暮らしてきた人の。土に触れなくても、根がわかる人。

「マルタこそ」

「はい」

「手が変わりました。針の跡がついてる」

マルタが自分の指先を見た。一瞬だけ、目を細めた。光を確かめるように。

「ええ。まだ下手ですけれど。指が覚えるまで、もう少し」

同じだ。私が薬草園で土を覚えたのと。この人は今、針と糸で新しい仕事を覚えている。

◇◇◇

「辺境のこと、聞いてもいいですか」

聞くべきか迷った。でも、聞かないのも違う気がした。知りたいのは、義務感からだけではない。

「旦那様は――ダリウス様は、お元気にしていらっしゃるそうです。自分で報告書を書くようになりました。字が下手で、書記官が困っているとか」

字が下手。あの人の字を見たことがない。五年間、報告書はジークが書いていたから。あの人がペンを握る姿を、想像してみた。大きな手に、小さなペン。力が入りすぎて、紙が破れそうだ。

「孤児院の食事は三食に戻りました。領の予算から正式に計上されています。セレスティーヌ様がおっしゃった通り、制度として」

制度として。

私が辺境を去る時にダリウスに頼んだことだ。功績の公表ではなく、子供たちの食事のために使ってくれと。あの時のダリウスの顔を覚えている。言葉が足りない代わりに、一度だけ深く頷いた。

「フィーナちゃんのことも。背が伸びたそうですよ」

背が伸びた。当然だ。三食食べていれば。でも、当然のことが当然でなかった時間のことを思うと、鼻の奥がつんと痛んだ。茶を啜って、流した。温かい液体が喉を通る感触に集中した。

「マルタ。ありがとう」

「何がですか」

「全部」

マルタの目尻が下がった。この人の笑い方は控えめで、口元より先に目尻に出る。皺が深くなる方の笑い方。三十年分の皺が、全部笑顔のためにあるような。

「差し出がましいことを申しますが」

「はい」

「お茶、美味しいです。辺境伯邸で淹れていた頃より」

「それはリーゼが淹れたんですよ」

「存じております」

リーゼが台所の方で「えへへ」と笑っている声が聞こえた。

◇◇◇

マルタが帰った後、テーブルの上に包みが残っていた。

開けると、布だった。深い緑色のリネン。仕立て屋の端切れだろう。丁寧に裁断されている。

中に紙が一枚。マルタの几帳面な字。

「エプロンの生地です。お仕事の時にお使いください。――マルタ」

エプロン。マルタがいつも締めていた、あの。

仕立て屋の仕事を覚えたばかりの人が、端切れで最初に作ろうとしたものが、エプロンだった。自分のためではなく。

布を手に取った。指先に伝わるリネンの感触。少しだけ硬い。使い込めば柔らかくなる種類の布。新しい布の匂いがする。糊と、染料と、かすかな日向の匂い。マルタの手から、私の手へ。

五冊目のノートの間に、布の端を挟んだ。鉄インクの匂いとリネンの匂いが混じる。

窓の外が暮れていく。王都の夕暮れ。建物に切り取られた空が茜色に染まっている。

正しい場所にいる日、だと思った。