軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 誰の名前で

屋敷の裏庭を歩いていたら、声をかけられた。

「お久しぶりです、セレスティーヌ様」

穏やかな声。柔らかい笑み。五ヶ月経っても、この人の微笑みは一切変わっていなかった。仕立てのいい上着も、背筋の伸ばし方も、目元の柔和な皺の作り方も。

ジーク・ヴァルトシュタイン。

領内の小貴族の館に滞在していると聞いていた。まさかこんなに早く顔を出すとは。

「殿下もきっとお喜びになりますよ。あなたが戻ってくださったことを」

殿下。五年間聞き続けた呼び方。ダリウスのことを「殿下」と呼ぶのは、この人だけだった。幼馴染の特権のように。

「ジーク様。あなたに用はありません」

自分の声が、思ったより平らだった。袖口に手が伸びかけて、止めた。握る必要はない。もうその段階ではない。

「ギルドの公務で来ています。私的な面会は受けていません」

「ええ、もちろん。ただ、旧知として少しだけ」

旧知。

この人は言葉の選び方が巧みだ。「旧知」と言えば、私が拒めば狭量に見える。五年間、こうやって私の立場を少しずつ削ってきた。

――いえ、今はそんなことを考えている場合ではない。

「失礼します」

背を向けた。三歩、歩いた。

「セレスティーヌ様」

声が変わっていた。

柔らかさが抜けて、乾いた音が残った。秋口の、水を絶たれた枝が軋むような。

「一つだけ。聞いてほしいことが」

◇◇◇

振り返るべきではなかったのかもしれない。

でも振り返った。振り返ったのは、あの声に聞き覚えがなかったからだ。五年間、毎日のように聞いていたジークの声に、あんな音は混じっていなかった。

屋敷の裏手、使用人用の通用口の脇。石壁に寄りかかるジークの顔から、微笑みが消えていた。

初めて見る顔だった。

いや。初めてではないのかもしれない。五年間、ずっとそこにあったのに、笑みの下に隠されていたもの。

「あなたが来た時から、わかっていたんです」

ジークの声は低い。視線は地面に落ちている。

「精霊契約者。薬草の知識。領民との関わり方。全部、私より上だった。最初の半年で」

最初の半年。あの頃、私は必死だった。慣れない土地で、口もきいてくれない夫の領地を少しでもよくしようと。孤児院に通い、薬草園を作り、精霊に話しかけ続けた。

その間、ジークは笑っていた。穏やかに。いつもの笑みで。

「私の役割は、殿下の右腕でした。幼い頃からずっと。戦場でも、領地でも。殿下が言葉にできないことを、私が代わりに伝える。殿下が気づかないことを、私が拾う。それが私の名前だった」

――名前。

「あなたが来て、それが要らなくなった」

ジークの手が、上着の裾を握っていた。しわが寄る。仕立てのいい生地に、不釣り合いな力が入っている。

「領民はあなたを頼るようになった。薬草園も、孤児院も、精霊結界も。全部あなたの手柄です。本来は」

本来は。

「それを、私は自分のものにした」

言葉が途切れた。石壁に額をつけるようにして、ジークが息を吐いた。

「悪意があったと言えれば、まだ楽でした。あなたを陥れたかったと。でも違う。ただ、怖かった」

喉が鳴る音が聞こえた。ジークの喉だ。

「私が殿下の隣に立てる理由がなくなるのが。『ダリウスの右腕』以外の名前を、私は持っていなかった。あなたに居場所を奪われるのではなく、居場所がそもそも借り物だったと気づくのが」

◇◇◇

黙って聞いていた。

怒りは、なかった。――いえ、怒りがないわけではない。五年分の怒りは確かにある。手柄を盗まれた。名前を消された。それは事実で、許せることではない。

でも今、目の前にいるのは、笑みを剥がされた人間だった。

ジーク・ヴァルトシュタインではなく、「ダリウスの幼馴染」でしかなかった人。殿下の右腕という役割を取り上げられたら、何者でもなくなる人。

なんというか。

五年間の白い結婚の中で、名前のなかった私と、鏡写しのように。

「ジークさん」

声を出した。感情を乗せないように気をつけた。実務モードだ。

「あなたのしたことは許せません。五年間、私の仕事を奪い、名前を消し、存在しないもののように扱った。それは恐怖が理由であっても、正当化されない」

ジークが顔を上げた。目が赤い。泣いてはいなかったが、泣く手前の、乾いた赤さだった。

「ただ」

言葉を選んだ。慎重に。薬草の配合を量るときのように。

「名前がないことの痛みは、私にもわかります」

それだけ言って、背を向けた。今度は振り返らなかった。

通用口を抜けて、表の庭に出る。五月の風が顔に当たった。薬草園の跡地から、かすかに土の匂いがする。死んだ銀木犀の、根だけが残した匂い。

許してはいない。理解しただけだ。そしてその理解は、あの人のためではなく、私自身のためだ。

あの人も名前がなかった。それを知ったことで、私の五年間の輪郭が、少しだけはっきりした。

明日、ダリウスと話す。

指先は冷えていたが、足は止まらなかった。