軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 来年も、ここで

春が来た。王都の春は、辺境よりも少し早い。

薬学ギルドの裏庭に、小さな薬草畑を作った。ルーファスに許可をもらって、使われていなかった一角を耕したのだ。土は痩せていたが、堆肥を混ぜて、水はけを良くして、日当たりを計算して配置を決めた。祖母に教わった通りに。

最初の芽が出たのは、三月の半ばだった。

月見草。小さな双葉が、黒い土から顔を出している。指先で触れると、柔らかくて温かい。辺境の薬草園を最後に触った日のことを思い出した。あの土の湿り気。銀木犀の甘い香り。

――でも、ここの土もいい土だ。

違う場所。違う土。でも同じように芽が出る。同じように育つ。場所が変わっても、知識と手は残る。

「育ってるな」

ルーファスが後ろに立っていた。いつの間にか来ていた。この人は足音を立てない。軍医時代の癖だろうか。

「ええ。あと一週間もすれば、本葉が出ると思います」

「月見草か。良い選択だ。この土壌のpHに合っている」

また学術的な話になる。でも最近、ルーファスの専門用語が減っていることに気づいている。私と話す時だけ、少しだけ言葉が柔らかくなる。

「ルーファスさん」

「なんだ」

「処方箋の件、改めて」

「いい。もう聞いた」

「でも、ちゃんと伝えたくて。あの頃の私は、薬を届けるだけで精一杯で、誰に届くかなんて考えていませんでした。でも、届いていたんですね」

ルーファスが黙った。土を見ている。月見草の芽を見ている。

「……名前がなくても、届いていた。でも」

ルーファスが言葉を探している。この人が言葉を探すのは珍しい。普段は結論から話す人なのに。

「名前があった方がいい。届いた先で、誰に感謝すればいいかわかるから」

ああ。

なんだろう、この感じは。胸のあたりが温かくなるのとは少し違う。もっと具体的な感覚。肩の力が抜けて、足の裏がちゃんと地面についている感じ。ここにいていいんだ、という感覚。

「……ありがとうございます」

また喉が詰まりそうになった。でも今日は、堪えた。

◇◇◇

ルーファスの「不器用な告白」は、その翌日のことだった。

鑑定室で二人きりの時、ルーファスが唐突に言った。

「来年もここで一緒に薬草を育てませんか」

手が止まった。乳鉢を持ったまま、ルーファスの顔を見た。

この人は、今、何を言ったのだろう。

ルーファスの表情はいつも通り無愛想だった。でも耳の後ろが赤い。首筋も。

「薬草を」

「ああ」

「育てる」

「ああ」

「来年も」

「……ああ」

会話が噛み合っているのか怪しい。でも、伝わっている。この人が言いたいことは、薬草の話ではない。

「ルーファスさん」

「なんだ」

「……名前で、呼んでほしいです」

言ってしまった。自分で驚いた。こんなことを口にするつもりはなかったのに。

ルーファスが固まった。数秒の沈黙。長い。長すぎる。

「……セレスティーヌ」

初めて名前を呼ばれた。

低い声。素っ気なくて、でも丁寧に発音している。まるで壊れ物を扱うように、一音ずつ。

耳が赤くなった。わかっている。髪で隠そうとして――

薬草の束を落とした。

乾燥した月見草の茎が、床にばらばらと散らばる。

「あ」

「大丈夫か」

二人で屈んで拾い集める。指が触れた。

ルーファスの指は乾いていて、温かくて、薬草の匂いがした。

二人とも、手を引っ込めなかった。

◇◇◇

薬学ギルドの裏庭で、小さな精霊が姿を現したのはその日の夕方だった。

目には見えない。でも、薬草畑の隅に植えた月見草の蕾が、不自然に開いた。甘い香りが、糸のように細く立ち昇る。空気が少しだけ暖かくなる。

辺境伯領の精霊とは違う。もっと小さな、若い気配。でも確かに、精霊だった。

「……来てくれたの」

声に出したのは無意識だった。蕾に指を伸ばすと、花びらが微かに揺れた。

新しい契約の始まり。新しい庭の始まり。

泣きそうになった。でも泣かなかった。代わりに深く息を吸って、土の匂いを肺に入れた。

◇◇◇

マルタから手紙が届いた。

辺境伯領のその後が書かれていた。ジーク様は家令代行の職を解かれ、実家の男爵領に帰された。ダリウス様は自ら領政の実務に取り組み始めたが、苦戦されているという。薬草園は枯れたまま。精霊は戻らない。

手紙の最後にこう書いてあった。

「奥様のレシピで香草茶を焼いてみました。三度目で、ようやくそれらしい味になりました。奥様には遠く及びませんが。それから、孤児院のあの子が奥様にお手紙を書いたそうです。『セレス、元気?』と。どうかお元気で。いつか、お茶をお持ちする日を楽しみにしております」

手紙を読み終えて、窓の外を見た。王都の春の空。狭いけれど、晴れている。

マルタの手紙を畳んで、業務ノートの間に挟んだ。四冊目のノート。王都で新しく綴じた、新しい革表紙の。

表紙の裏に、名前が書いてある。

セレスティーヌ・フローレンス。

自分の名前。自分の字。鉄インクの、少し赤みがかった黒。

鑑定室の窓から風が入ってきた。薬草の匂いと、パン屋の匂いと、春の土の匂いが混じった風。

ルーファスが入ってきた。手に二つの湯呑みを持っている。

「茶を淹れた。飲むか」

「いただきます」

向かい合って座る。湯気が立ち昇る。香草茶ではない。普通の茶だ。でも温かい。

ルーファスが茶を啜りながら、書類に目を通している。時々、ちらりと私を見て、すぐに書類に視線を戻す。

静かな午後だった。

特別なことは何も起きていない。ただ、同じ部屋で、同じ茶を飲んで、同じ仕事をしている。それだけのことだった。

でも、五年間なかったものが、ここにはあった。

名前を呼んでくれる人。仕事を見てくれる人。茶を淹れてくれる人。

それだけのことが、こんなにも温かい。

窓の外で、月見草の蕾がまた一つ開いた。精霊が、笑っているような気がした。