作品タイトル不明
第35話
5月12日、火曜日。
世界崩壊から、十一日が経った。
朝は静かだった。
サヤカがハルキと一緒に食堂の掃除をしていた。ハルキはモップの柄を両手で持って、一生懸命床を拭いていた。上手ではなかったが、真剣な顔だった。
「ハルキ、そっちもお願い」
「うん!」
その声が廊下まで聞こえてきて、私は思わず足を止めた。
十一日前、この拠点に子どもの声はなかった。いつの間に、こんなに当たり前になったのだろう。
コーヒーを淹れながら、私はぼんやりそう思った。
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ネロのアラートが来たのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。
「単独。男一人。山道から接近中。ペースが遅い」
情報処理室に入ると、モニターに一つの人影が映っていた。
男だった。
かなり消耗していた。足を引きずるように歩いている。服は泥と汚れで元の色がわからない。右手に何かを持っていたが——よく見ると、ただの木の枝だった。杖代わりにしているらしい。
「顔認識は」
「かけている。待て」
数秒後、ネロが言った。
「……速水カイト。一致した」
私は画面を見た。
知っている顔だった。
前世でも、現世でも。
昔は格好よく見えた。今モニターに映っているのは、汚れてやつれて、それでもここに来ることをやめなかった男の残骸だった。
「マナ」
ネロが静かに言った。
「どうする」
「見る」
「蒼に連絡するか」
「してくれていい。ただし——私がインターフォンに出る」
ネロが少し間を置いた。
「わかった」
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カイトが正門の前に現れたのは、それから二十分後だった。
ドローブリッジは上がったまま。堀の向こうに城壁。その上に蒼。
私はカメラでカイトの姿を見ていた。
近くで見ると、想像以上にひどかった。頬がこけている。唇が乾燥してひび割れていた。額に古い傷があって、まだ痛そうだった。着ているジャケットは破れていた。
それでも、目だけは——まだ何かを求めていた。
カイトがインターフォンを見つけた。少し躊躇してから、ボタンを押した。
「……誰か、いますか」
私はマイクのスイッチを入れた。
「いる」
短く答えた。
カイトが一瞬固まった。
「……マナか」
「何の用?」
声は自分でも驚くほど静かだった。怒っていなかった。ただ、平らだった。
「俺だ。カイトだ。マナ——会ってくれ。顔を見て話したい」
「ここで話せる。何の用」
「顔を——」
「ここで話せると言った」
沈黙。
カイトが一度、深く息を吸った。
「俺が悪かった」
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カイトがゆっくりと、正門の前で膝をついた。
両手を地面につけた。額を、地面に押しつけた。
土下座だった。
「本当に、申し訳なかった。お前に対してしてきたこと全部——俺が間違ってた。わかってる。今更だってわかってる。でも——」
声が震えていた。
「頼む。助けてくれ。俺にはもうお前しかいないんだ。お前だけが頼りなんだ。マナ、頼む——」
私はモニターを見ていた。
地面に額をつけたカイトの姿を見ていた。
何かを感じるかと思った。
怒りか、哀れみか、あるいは——かつて好きだった記憶か。
何も来なかった。
ただ一つのことが、頭の中で静かに響いていた。
「お前だけが頼りなんだ」。
謝罪の言葉の中に、最後まで、それが入っていた。俺が間違っていた、申し訳なかった——その後に続く言葉が、結局「助けてくれ」だった。
前世でも、そうだった。
何も変わっていない。
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私はマイクに向かった。
「カイト」
「……マナ」
「頭を上げて。土に額をつけたまま話す気はない」
少しの間があって、カイトがゆっくりと顔を上げた。泥で汚れた額に、土がついていた。
「謝罪は聞いた」
「マナ——」
「一つだけ聞かせて。あなたが私を切った日、何を考えてた?」
カイトが黙った。
「正直に答えて」
「……お前が、足を引っ張ってると思った。もっと強い仲間が必要だと思った。リナが——」
「わかった。十分よ」
「待ってくれ、俺は——」
「あなたが私を捨てた日」と私は言った。「私は死んだの」
カイトが息を呑んだ。
「あなたの知っているマナは、もういない。今ここにいる私は、あなたが切り捨てた後に、一人で作り直した別の人間よ。あなたが謝りたい相手は、ここにはいない」
「マナ——」
「お大事に」
マイクを切った。
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モニターの中で、カイトがしばらく正門の前に立っていた。
何か言っていた。聞こえなかった。マイクは切ってあったから。
やがてカイトは、来た道を戻り始めた。
足を引きずりながら。杖代わりの枝をつきながら。
山道の向こうに消えるまで、私はモニターを見ていた。
消えた後も、少しの間、画面を見ていた。
「……行ったか」とネロが言った。
「行った」
「どうだ」
「何が」と聞いたが、今回は少し違った。
「わからない」と私は答えた。「何もない、ではないかもしれない。ただ——正しかったとは思う」
「そうか」
「うん」
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昼食のとき、ゲンタが何も聞かなかった。
蒼も聞かなかった。シノも、ネロも、モグも。
ただ、ゲンタがいつもより少し多めにごはんをよそって、私の前に置いた。
「……ありがとう」
「食え」
それだけだった。
ハルキがモグと隣同士で座って、お椀を両手で持って、真剣な顔で汁を飲んでいた。サヤカが隣でそれを見て、小さく微笑んでいた。
その光景を見て、私は思った。
カイトが謝りたかった相手は、確かにもういない。
あの頃の私は、誰かに必要とされることだけを拠り所にして、消耗して、最後に捨てられた。
今の私には、守るものがある。守りたいものがある。守れるものがある。
それで十分だった。
「マナさん」
サヤカが声をかけてきた。
「今日の夕食、私に作らせてもらえませんか。昨日ハルキが好きだと言ってた料理があって」
「お願いしようかしら」
「ありがとうございます」とサヤカが笑った。
外では、カイトがどこかを歩いているだろう。
私はここで、夕食の話をしている。
それが答えだった。
【世界崩壊から11日目。星降る森の門は、今日も閉じたままだった。】