軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第29話

5月1日、木曜日。

世界崩壊、当日。

夜明け前から、鳥が鳴いていた。

いつもと同じ声だった。山の鳥は何も知らない。結界の内側に守られたこの場所では、昨夜の轟音も、空を走った光も、遠くの地鳴りも——何も届かなかった。

草が朝露に濡れている。温室の窓が薄明かりに光っている。

何も変わっていない。

私は中庭に立って、その「何も変わっていない」景色を見ながら、深く息を吸った。

「予定通りね」

誰もいない中庭に、一人で言った。

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コーヒーを淹れた。

豆を挽いて、ドリッパーにフィルターをセットして、細口のケトルから静かにお湯を注ぐ。

湯気が立ち上がる。

コーヒーの香りが朝の空気に溶けた。

前世で、私はこの日を外で迎えた。ダンジョンが出現した瞬間、街は阿鼻叫喚だった。人々が逃げて、車が激突して、建物が崩れて——私は仲間に叫ばれるままに武器を持って走り出した。準備も覚悟も足りないまま、ただ流されるように。

今日の私は、コーヒーを淹れている。

カップに注ぐ。一口飲む。

美味しい。

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情報処理室では、ネロが夜通し画面を見続けていた。

「状況を教えて」

私が入ると、ネロが画面を向けた。地上波は昨夜で消えた。今ネロが使っているのは、衛星からの映像と、かろうじて生きている一部の通信網だ。

「東京。見てくれ」

衛星画像が映し出された。

東京の上空からの映像。昼間なら緑と灰色のパッチワークに見えるはずが——画面の中の東京は、複数の場所から青白い光の柱が立ち昇っていた。

「光の柱ひとつが、ダンジョンの出現点だ。都内だけで確認できるものが三十二か所。関東全体で八十か所を超えている」

「全国は?」

「現時点で確認できているだけで、百四十七か所。これはあくまで衛星で捉えられた範囲だ。実際はもっと多い可能性がある」

「魔物は」

「出ている。衛星の解像度では細かい種類は判別できないが、都市部の主要道路が軒並み機能停止している。人の動きが消えた区域と、逆に密集して動いている区域——逃げているんだろう——が混在している」

私はしばらく画面を見た。

青白い光の柱が、東京の空に幾本も立っている。

あの光の下で今、何が起きているか、私は知っている。前世で見た。地面が割れて、見たことのない生き物が出てきて、人々が逃げる間もなく——

「マナ」

ネロが静かに言った。

「見すぎない方がいい」

「そうね」

私は視線を画面から外した。

「拠点の状況は?」

「結界は正常稼働。外からの侵入を試みた魔物が二体、昨夜の深夜に結界に触れて弾かれた記録がある。被害なし」

「二体も来てたの」

「夜中の一時頃だ。結界に触れて混乱した魔物が二体、シノの堀に落ちた。今はもう、骨すら残っていないだろう」

いつの間にかドアのところに立っていたゲンタが、「蒼が念のため狙撃の準備をしていたが、弾を撃つ手間すら省けたな」と鼻で笑った。

「ゲンタ。それに蒼、寝てないじゃない」

「俺もだ」とネロが言う。

「……そっか。ありがとう、みんな」

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全員が研修棟のホールに集まったのは、朝の七時だった。

昨夜から誰も眠っていない。それでも全員がちゃんと席についた。モグだけが「朝ごはん、作った!」と言って、採れたてのトマトと目玉焼きとごはんをテーブルに並べていた。

「モグ……何時から起きてたの」

「ずっと起きてた! お外がざわざわしてたから、もったいなくて眠れなかった」

「ごめんね、怖かったでしょ」

「怖くなかったよ。ここは安全だって、マナが言ってたから」

モグがにこっと笑った。その笑顔がまぶしかった。

全員で手を合わせて、いただきますを言った。

箸を動かしながら、ゲンタが聞いた。

「外は、どうだった」

「ネロから聞いた通りよ。ダンジョンが全国百四十七か所以上。都市部は機能停止」

「……本当に来たんだな」

ゲンタが茶碗を置いた。深く息を吐いた。

「信じてたつもりだったが——実際に来ると、やっぱり実感がある」

「そうね」

「お前は、何とも思わないのか」

「思う。ただ」

私はコーヒーを一口飲んだ。

「ここは何とも変わっていない。それが、全部の答えよ」

ゲンタが少し目を細めた。それから、また茶碗を持って食べ始めた。

シノが「外のウイルスの状況をできる限り把握したい。ネロ、データを流してくれるか」と言い、ネロが「わかった」と答えた。二人はすぐに仕事に戻っていく。

蒼は黙って目玉焼きを食べていた。

「蒼、ありがとう。昨夜」

「何が」

「夜中の魔物」

「仕事だ」

「眠れてないでしょ。今日は少し休んで」

「崩壊当日に休めるか」

「……じゃあ、朝食が終わったら二時間だけ横になって。命令よ」

蒼が少し間を置いて、「わかった」と言った。素直に従ったことに少し驚いた。疲れているのだろう。

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朝食の後、ユリが私のそばに来た。

「マナさん」

「どうした?」

ユリの目が、少し赤かった。泣いていたわけではないが——泣く寸前の、そういう目だった。

「外の人たちが、今すごく大変なんですよね」

「そうね」

「助けに行けないんですよね」

「今は行けない。外に出れば、私たちも危ない」

「わかってます。わかってるんですけど」

ユリが唇を噛んだ。

「……なんか、すごく罪悪感があって。ここで美味しいごはん食べて、安全でいて。外で誰かが死んでるのに」

私は少し考えてから、ユリの隣に座った。

「ユリ」

「はい」

「その罪悪感は、捨てなくていい」

「え?」

「感じ続けていい。それがあるうちは、外の人のことを考えられる。いつか、本当に助けに行ける時のために、その気持ちを持っておいて」

ユリが少し目を見開いた。

「今は行けない。でも今じゃない時が来る。その時のために、今ここで生きていること——それは罪じゃない」

「……マナさん」

「ここは大丈夫。私が守る。ユリも、全員も」

ユリがふう、と長く息を吐いた。目の赤さが少し引いた。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

「一個だけ聞いていいですか」

「どうぞ」

「マナさんって、いつもそんなに強いんですか」

私は少し笑った。

「強くないわよ。ただ——最悪の結末を知っているから、覚悟ができてるだけ」

「最悪の結末?」

「いつか話す。今日じゃないけど」

ユリが少し首を傾けたが、「わかりました」と頷いた。

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午前十時。

ネロから全員に報告が入った。

「確認できた範囲で追加情報を共有する。政府の箱舟シェルターの一か所が、ダンジョンの出現点と二キロ以内に位置していたことが判明した。現在、そのシェルターとの通信が途絶えている」

沈黙が落ちた。

「……つまり」

「特権階級の箱舟が、その特権ごと崩壊した可能性がある。断定はできないが」

私は何も言わなかった。

自業自得、とは思わなかった。

思わなかったが——どうしようもない、とも思った。

「拠点の状況は変わらず安全。引き続き監視を続ける」

「ありがとう、ネロ」

ホールの窓から外を見た。

モグが畑で草を抜いている。温室の中でトマトが揺れていた。監視塔の上で、蒼が双眼鏡を持って立っている。約束の二時間の休息は、きっと取らなかったのだろう。

外では世界が変わった。

ここでは、何も変わっていない。

私はコーヒーの残りを飲み干した。

「さ、今日からが本番よ」

誰にともなく、そう言った。

世界崩壊、当日。

星降る森は、今日も平和だった。