軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第20話

4月11日、土曜日。

世界の崩壊まで、あと20日。

朝の七時。

研修棟のホールに漂うのは、出汁と醤油が混ざり合う、懐かしい匂いだ。

私はコンロの前で木べらを動かしながら、ゆっくりと息を吐いた。

今日の朝食は炊きたてのごはん、豆腐と長ネギの味噌汁、モグが夜明け前に収穫してきた小松菜のおひたし、それから蒼が「まあ、暇だったから」と言いながら仕留めてきた山鶏の卵で作る厚焼き玉子だ。

「お姉さん、玉子焼きは甘い方がいいです!」

ユリが背後からひょこっと顔を出した。

「甘くするならみりんが要るのよ」

「ある! 棚の奥にある! 昨日の買い出しで買ってきたやつ!」

確かに。昨日、ネロとユリを連れて帰ってきた荷物の中に、調味料をまとめた段ボール箱があった。しょうゆ、みりん、酢、砂糖——「とりあえず全種類」と私がカゴに放り込んだやつだ。

「じゃあ甘くしましょうか」

「やった!」

ユリがぱたぱたと棚に走る。その背中を眺めながら、私はふと、自分が笑っていることに気づいた。

前世の私は、こんな朝を知らなかった。

カイトのパーティに属していた頃、朝食は配給の乾パンか、運が良くても缶詰のスープだった。いや、それは世界が崩壊した後の話だ。崩壊前でも、カイトは「強くなる時間が惜しい」と言って、食事をいつも雑に済ませた。私もそれに合わせていた。

今は違う。モグが毎朝収穫してくる新鮮な野菜があって、蒼が「暇だから」と言いながら山の恵みを持ってきて、ゲンタが「飯は腹いっぱい食わないと仕事にならん」と言いながら大盛りを要求して、シノが「カロリーと栄養バランスは計算済みよ」と言いながらメニューに口を出す。

うるさくて、賑やかで、温かい朝だ。

「飯か」

どこからともなくゲンタが現れた。作業着の袖をまくりながら、当然のように椅子を引いて腰を下ろす。

「ゲンタ、今日も早いね」

「昨日の地下シェルターの件、頭の中で設計図が固まってな。早く図面に起こしたかった」

要塞建築士のスイッチが入っているときのゲンタは、とにかく朝が早い。日の出前から動いていることも珍しくない。

「地下シェルター、ちゃんと作れそう?」

「ああ。モグの土操作と組み合わせれば、深さ十メートルは余裕だ。防水加工はシノに頼む。あいつの化学知識があれば、コンクリートより強い壁が作れる」

「聞こえてるわよ」

シノが白衣のまま現れた。どうやら徹夜明けらしい。目の下にうっすらクマがある。髪が少し乱れているのはいつものことだ。

「また徹夜?」

「研究が佳境なの。ウイルスの変異パターンに関して、興味深いデータが出たわ。世界崩壊と感染症拡大の相関について、私の仮説が正しければ——」

「朝ごはんを食べてから話して」

「……はい」

シノが素直に椅子に座った。この人は食事の前に仕事の話を始めるくせがあるが、「食べてから」と言うと意外にちゃんと従う。

厚焼き玉子が焼き上がった頃、蒼もホールに入ってきた。監視塔から降りてきたのだろう、外の冷たい空気を纏っている。夜明けの見張りをずっとやっていたはずだ。

「異常なし」

「お疲れ様。手、洗ってきて」

「……わかった」

蒼が洗面所に向かう。その背中に「玉子焼き、甘いのと普通のどっちがいい?」と声をかけると、

「……甘い方」

という短い返事が返ってきた。

やっぱり。この人は甘いものが好きなくせに、自分からは絶対に言わない。

ユリがこっそり私の袖を引いて、「お兄ちゃんも甘い方って言った!」と嬉しそうに囁いた。私は笑いをこらえながら頷いた。

全員が揃ったところで、モグが温室から野菜を抱えて帰ってくる。小さな泥だらけの手に、真っ赤なトマトが三つ。

「マナ! 今日のトマト、今年いちばんの出来!」

「わあ、本当だ。すごく赤い」

「モグー!」ユリがわっと立ち上がって駆け寄る。「一緒に食べようね!」

「うん!」

この朝の光景が、最近の私の日課になっていた。

全員がそれぞれの椅子に座り、それぞれの茶碗を持つ。いただきます、という声がバラバラに重なって、少し笑いが起きる。

前世では一度も経験しなかった朝だ。

いや——もう前世のことを比べるのはやめにしよう。今の私には、今の朝がある。それで十分だ。

---

「ネロ、ごはん」

情報処理室のドアをノックすると、数秒後に「今行く」という低い声が返ってきた。

ネロがパーティに加わってから、この部屋は彼の「領域」になっている。八台のモニターが並び、それぞれ別の画面が映っている。世界各国のニュースサイト、SNSのリアルタイムトレンド分析、政府の内部サーバーへの接続ログ、衛星データの監視——私には内容の半分も理解できないが、ネロにとってはすべて「世界を見る目」そのものだ。

「昨夜、いくつかデータを掘った」

席を立ちながらネロが言った。丸眼鏡の奥の目が少し眠そうだ。

「食べながら聞く?」

「食べながら話す」

ホールに戻り、全員が揃ったところで、ネロは静かに口を開いた。

「まず、WHO。先月から正式には公表されていない感染症のクラスターが、東南アジア三か国で発生している」

シノが箸を止めた。目が研究者の顔になる。

「規模は?」

「確認できている死者数だけで、先週時点で二千名以上。実態はその三倍から五倍と推定される。致死率は現時点で十二パーセント。通常のインフルエンザの約百倍だ」

「……来た」

シノが低く呟いた。

「本命ね」

私も静かに言った。

前世で経験した。あの感染症は、世界崩壊と同時に爆発的に広がった。魔物による直接被害よりも、パニックと疫病で命を落とした人間の方が多かったくらいだ。シノが「崩壊と感染症の相関」を研究しているのは、おそらくそれを直感的に嗅ぎ取っているからだと思う。

「WHOが公表を隠している理由は?」

「表向きは経済的混乱を避けるため——だが」ネロが少し間を置く。「実際は、各国政府の上層部が自分たちの避難完了を待っているからだと思われる」

「最低だな」

ゲンタが吐き捨てるように言った。

「次。防衛省の内部サーバーから確認した内容だ」

「また防衛省」蒼が眉を上げる。「ゴーストって本当にどこにでも入れるんだな」

「入れないところはない」

ネロは感情を動かさずに続ける。

「自衛隊の一部部隊が、国内六か所の山岳地帯へ移動を開始している。名目は演習だが、同時に六か月分以上の食料と医療品、独立型の発電設備が搬入されている」

「箱舟の建造が始まった」

「ああ。搭乗リストには国会議員、高級官僚、大手企業の経営者、その家族——合計で約三千名。一般市民の名前はない」

静寂が落ちた。

ユリが小さく息を飲む音がした。

「三千人……」

「日本の人口の0.002パーセント以下だ」

「残りの人たちは、どうなるの?」

ネロは答えない。答えなくても、わかる。

ユリの顔が青ざめた。

「私たちは関係ない」

私は静かに言った。全員の目がこちらに向く。

「搭乗リストに私たちの名前はない。でも——関係ない。私たちはすでに、自分たちの手で生き延びる準備ができている。外の人間が何を決めようと、ここには影響しない」

「そうだな」

ゲンタが大きく頷く。

「最後にもうひとつ」

ネロが続けた。

「SNSの解析をした。特定のキーワードの検索数が、この一週間で急増している地域がある。主に首都圏と関西圏だ」

「キーワードは?」

「『ダンジョン』。『魔物』。それから——」ネロが少し間を置く。「『山奥の安全地帯』」

私の手が、わずかに止まった。

「……嗅ぎつけてる人間がいる」

ネロが画面をこちらに向けた。検索アカウントの一覧が並んでいる。そのひとつに、見覚えのあるアイコンがあった気がした。

——気のせいね。

私は視線をすぐに外した。

「極めて少数だ。今のところ眉唾扱いで拡散力は低い。ただ、崩壊が近づくにつれて数は増えていく。パニックになった人間は、藁にもすがる」

「星降る森の地図データは完全に消してある。衛星データも書き換え済みだ。物理的に辿り着いても、地図には存在しない土地として処理される」

私が確認すると、ネロは短く頷いた。

「問題ない」

「完璧ね」

シノが眼鏡を押し上げた。「それだけやっておけば、烏合の衆に見つかる心配はないわね」

私はひとつ息をついて、味噌汁を口に含んだ。

モグの長ネギが柔らかく煮えている。

美味しい。

外がどれだけ壊れていっても、ここのごはんは美味しい。

それだけで今日を生きていける気がした。

「マナ」

不意に、蒼が口を開いた。

「ひとつ、ずっと気になってることがある」

「何?」

「防衛の話だ」

蒼が腕を組む。その目が、すっと鋭くなった。

「城壁、堀、正門、センサー、高圧電流。全部地上への対策だ」

「……そうね」

「魔物が地上だけから来るとは限らない」

ホールが、静まり返った。

「飛ぶやつが来たら、今の構造だと上が完全に無防備だ。監視塔から俺が狙えるとはいえ、大群相手には手数が足りない。一対多になった瞬間に破綻する」

私は内心、舌を巻いた。

蒼は本当に、穴を見つけるのが上手い。戦術のプロだと思っていたが、要塞の設計にまで目が届くとは。

「指摘の通りよ」

私は率直に認めた。

「完全に抜けていた。ありがとう」

蒼が少し目を見開く。こちらが素直に礼を言うと、この人はいつも少し驚いた顔をする。前の職場では、こういう指摘を快く受け入れてもらえなかったのかもしれない。

「対空防衛、明日から着手しましょう。蒼、設計してくれる?」

「もう頭の中にある」

「さすが。ゲンタ、モグと組んで実施を」

「任せろ。城壁の上部に杭と網を仕込む。空から突っ込んできた相手が刺さる構造にする」

「シノは音響センサーを」

「設計図、すでにあるわ。空気の振動で飛翔物体を検知する仕組みよ。虫の羽音と魔物の羽音の周波数は違うから、誤検知も防げる」

「私の【結界魔法】も上空に向けてドーム状に展開し直すわ。今は地上を覆う半球形だけど、天頂部を強化すれば物理的な壁として機能する。蒼の狙撃とセンサーと三重になれば、まず突破できない」

「……このパーティ、仕事が早すぎる」

ユリがぽつりと言った。

全員が、少し笑った。

私もつられて笑った。

そうだ。このパーティはそういう場所だ。弱点を指摘する人間がいて、すぐに動ける人間がいて、誰も責めない。ただ、黙って前に進む。

「じゃあ今日の動きを確認するわ」

私は茶碗を置いて、全員を見渡した。

「午前中は対空防衛の設計会議。午後からゲンタとモグで施工を開始。シノは医療室の拡張計画を進めて。ネロは引き続き外の情報収集。ユリは——」

「私は!」

ユリが勢いよく手を挙げた。

「午後から蒼に護身術を教えてもらう約束がある!」

「してない」

「してる! 昨日マナさんが『蒼から護身術を習いなさい』って言った!」

「……」

蒼が私を見た。私は視線を窓の外に逸らした。

「……終わったら、狙撃の基礎も教えてやる」

ユリの顔が、ぱっと明るくなった。

窓の外では、モグが朝の畑仕事を始めている。温室の中でトマトが揺れるのが見えた。山の緑が、朝の光に静かに輝いている。

外の世界では今この瞬間も、誰かが死にかけていて、誰かが逃げ惑っていて、誰かが絶望している。

でもここは違う。

ここだけは、ずっと違う。

世界の崩壊まで、あと二十日。

やることは山ほどある。でも今日の私たちには、炊きたてのごはんと、採れたてのトマトと、頼もしい仲間がいる。

それ以上、何が要るというのだ。

「さ、食べ終わったら動きましょう」

私は立ち上がり、残ったごはんをかき込んだ。

「今日も、完璧にしていきましょうか」