軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

(閑話) 残雪

雪道に、点々と足跡が付いていく。

街を出る道をぎこちなく尋ねた少年は、ごく微かに頷き、指差された方向にゆっくりと歩き出した。

防寒のマントはあちらこちらがほつれ、すりきれている。

こんな年端もいかない少年の一人旅。

それだけでも人の興味を引くには十分だ。

だが、何よりも人目を引くのは、背中に背負った、子供には不釣り合いな長剣。

それを見ただけでこの辺りの人間なら誰もが、この少年が北の出身なのだと理解する。

北から中原に入ってきた、身寄りのない少年か。

とはいえ、そんな子供が一人で厳しい北の冬を越えてこの街にたどり着くことは極めて珍しい。

メノーバー海峡に面したこの街に。

北と中原を隔てるメノーバー海峡は、その潮流の激しさから、別名水龍海峡とも呼ばれている。

老練な船乗りでも時に読み誤る複雑怪奇な潮の流れは、これまでに大小数多の船を飲み込んできた。

季節、時間、天気、それ以外の何か。

理由はともかく、昨日の潮の流れと今日の潮の流れがまるで違う、などということはこの海峡では日常茶飯事だった。

加えて、海峡の至るところに潜む岩礁が、船の行く手を阻む。

この海峡の存在こそが、北の戦乱が中原にまで波及しなかった最大の理由と言っていいだろう。

野心家をもって知られる中原の大国、フォレッタ王国の現国王ですら、大軍を率いてメノーバー海峡を越える危険を冒すことはなかった。

この海峡を越えてまで北に渡ろうなどと思うのは、欲にまみれた傭兵達くらいだ。

北の戦場にはまだ立身出世の夢が転がっている。

社会制度や身分制度の整備された中原や南の国々にはない、階層を越えて成り上がる一発逆転のチャンスがある。

しかしそれでさえもここ最近は途絶えがちだ。

意欲のある連中は渡り尽くしてしまったのか。それとも打ち続く戦乱で傭兵たちの戦闘技術も発展し、新顔の入り込む余地がなくなってしまったのか。

いずれにせよ、傭兵を乗せた船がメノーバー海峡を行き来する姿はもはやほとんど見ることはなかった。

ごく稀に、小さな商船が北の情報を運んでくるばかりだ。

この日久しぶりに北から着いた船に、その少年は乗り込んでいた。

どこへ行くんだろうな。

こっちに親類でもいるんじゃねぇのか?

野盗に襲われなきゃいいがな。

季節は春になろうとしていたが、中原の北限であるこの街にはまだ残雪がそこかしこに見られる。

雪の上に、小さな足跡を刻みながら歩き去っていった少年の背中を見送ってから、街の人々はそんな風に噂した。

そして、すぐに忘れた。

メノーバー海峡に面した港町から南に徒歩で2日。

街道沿いの小さな宿場町。

旅人の宿を兼ねる一軒の酒場。

その扉が外から叩かれたのは、日も落ちかけた夕暮れだった。

主人が扉を開けると、薄汚れたマントの少年が一人で立っていた。

背中に、その背丈に釣り合わない長剣を背負っているのが異様に見える。

「……なんだ、坊主」

主人は少年の背後を見た。

誰もいない。

「お前、一人か。子供が一人で何の用だ」

「……ここに泊めろ」

少年はぼそりと言った。

「……金ならある」

「あぁ?」

主人は目を剥いた。その鼻先に少年が銀貨を突き出す。

「金ならある」

少年はもう一度言った。

主人は、少年を爪先から頭までじろりと眺めた。

それから、その顔をじっと見た。

少年のほうも、目をそらさなかった。

ずいぶんと長いことそうしてから、ようやく主人は言った。

「金ならあるって?」

少年は頷く。

「……泊めねぇよ。失せろ」

「あ?」

少年の表情が険しくなる。

「金ならあるんだ」

「聞こえなかったか? 泊めねぇって言ったんだ」

主人は少年の鼻先で扉を閉めた。

主人が、常連客からその奇妙な少年のことを聞いたのはその夜だった。

なげぇ剣を背負った気味の悪い子供が、どこの宿からも断られて広場の隅の木の下で寝てるぜ。

今夜はやけに冷えてやがるから、冬戻りの雪が降るかもな。

あの子供も明日には冷たくなってるかもしれねぇな。

夜も大分更け、客もいなくなった頃、主人はランプを持って広場に足を向けた。

雪がちらつき始めている。

積もるほどではないが、刺すような寒さだ。

少年は、木の根もとにうなだれるように座り込んでいた。

防寒のマントをすっぽりと頭までかぶって震えている。

しかし、主人の足音に気付くと素早く反応してマントをはだけ、長剣の柄に手をかける。

「そんなもんで何をするつもりだ」

主人は少年からやや離れたところに立ち止まり、そう声をかけた。

「わかったろう。ここでは金を持ってたって誰もお前なんざ泊めちゃくれない」

少年は主人を睨む。強い猜疑心と警戒心の入り交じった目だ。主人の一挙手一投足から決して目を離さない。

「なんでだか分かるか」

主人の問いに、少年は黙ったままだ。

「ついてこい」

主人が踵を返して歩き出すと、少年は、その背中をじっと睨み付ける。

やがて、主人が振り返る気配がなさそうなのを感じたのか、そろそろとその後ろを歩き始めた。

熱いスープを飲み干すと、ようやく少年の顔に生者らしい赤みがさした。

「うまいか」

にこりともせずに主人が尋ねる。

少年は主人を睨み付けたまま黙っていたが、やがて小さく頷いた。

それから、身体にくくりつけていた革袋をまさぐり、銀貨を取り出し、黙って主人に突き出す。

「……いらねえって言っただろう」

主人は言った。

「ガキから金は取らねぇ」

主人の答えに、少年の顔がもの問いたげに歪む。

「人手がちょうど足らなかったところだ」

主人は言った。

「そのスープ代は高えぞ。明日からここで働け」

暴れだすか、黙って逃げ出すか。

主人はそう踏んでいたが、意外にも少年はあてがわれた部屋の粗末なベッドで素直に眠り、翌朝からこの宿で働き始めた。

少年は必要なこと以外ほとんど口にしなかった。

時折話すときは、

「これか」

などとぶっきらぼうな口を利いた。

その度に主人は、

「これですか、だ」

と訂正した。

少年は主人の予想以上に聡明だった。

言われた仕事は、一度で何でも覚えた。

三日も経つと宿のほとんどの仕事をこなすようになった。

しかし、その猜疑心と警戒心のこもった目だけは変わらなかった。

おい坊主。よく働くな。

ある日、酒場の常連客の一人が少年に声をかけた。

少年は黙って仕事を続ける。

まあ、あいつの気持ちもわかる。お前似てるんだよ。

常連客は、数年前に流行り病で妻とともに死んだ、主人の息子の名を口にした。

戻ってきたみてぇなんだろうな、息子が。

その日から、少年の態度は少しずつ柔らかくなった。

口数が少ないのは相変わらずだったが、表情や仕草から刺々しい殺気のようなものが消えた。

少年は時折、主人を「おやじ」と呼ぶようになった。

ある日、貴族の一行が急な用件でこの宿に滞在した。

常連客の誰もが、少年が無礼を働くのではと危ぶんだが、少年は主人も目を見張るほど丁寧な言葉遣いで対応した。

数の計算もできるし、あいつはちゃんと教育を受けてきた子だな。

常連客に言われ、主人は黙って頷いた。

一度、主人が少年に、お前はどこへ向かう途中なのかと聞いたことがある。

少年は言葉少なに、ただ

「南へ」

と答えた。

少年が宿に来て一ヶ月が過ぎた。

モルドだ、と誰かが宿の扉を叩いた。

近所に住む男だった。

モルドが出やがった。

男の言葉に主人の顔色が変わった。

主人が少年を伴って街外れの家屋へ赴くと、その庭で家畜が無惨に食い荒らされていた。

家の中でみんなやられてる。

男が言い、主人は少年に、お前は見るな、と言った。

「街の兵士隊に連絡を」

主人の言葉に男は暗い顔で頷く。

使いを出しても往復で三日はかかるだろうな。それまでに次の被害が出なきゃいいが。

その日、宿に戻ると不意に少年が言った。

「おやじ」

主人が少年を見る。

「そろそろ行かなきゃならない」

旅立つ時が来た、と少年は言った。

「そうだな」

主人は頷いた。もういいだろう。

「いいか」

諭すように言う。

「お前がまとっていた過剰な殺気や猜疑心。それは北で生きていくには必要だったものだろう。だが、ここから先、中原や南では必要のないものだ」

だから誰もお前を宿に泊めなかった、と主人は言った。

「それがこの一ヶ月ですっかり和らいだ。今のお前なら、どこの宿にでも泊めてもらえるだろう。人と話すときは、丁寧な言葉遣いを忘れるな」

主人は少年の目をまっすぐに見た。

「ちゃんと親から教わってきたんだろう、親に恥をかかせるな」

「はい」

少年は素直に頷いた。

それから少年は、北の傭兵は、と続ける。

「受けた恩は返します」

あと一日待ってほしい、と言い残し、少年は剣を背負って街外れの森に入っていった。

翌日、少年は大きな獣の首をぶら下げて帰って来た。

街中が騒然となった。

街外れの家を襲った魔獣、モルドの首だったからだ。

「お前、一人で狩ったのか」

少年は呆気にとられている主人にモルドの首を見せてから、それを無造作に地面に放り投げた。

「お世話になりました」

少年は言った。

「スープ、おいしかったです」

そして背を向けようとする。

主人は、待ちな、と言って少年を止めると、急いで宿に戻り、革袋を持ってきた。

大分前から準備してあったものだ。

「持っていきな」

それを少年に手渡す。

中に詰められていた携帯食料や銀貨の量を見て、少年が首を振る。

「こんなに受け取れません」

「餞別がわりだ。受け取らねぇならここに捨てていく」

主人は言った。

「南は遠いぞ。気を付けな」

「はい」

少年は主人に深々と頭を下げた。

「僕の名はアルマークといいます。この恩はいつか、必ず」

「構わねぇ。元気でやりな」

手を振る主人に、少年は最後に言った。

「ありがとうございました……おやじ」

それから踵を返して歩き出す。

もう残雪もほとんどない道に、春の草が芽吹き始めていた。

少年の姿はやがて、道の向こうに消えた。

主人はいつまでも少年の歩き去った方角を見つめていた。