軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

一刹那

「かああっ」

ライヌルが吼える。

黒い涙が汚泥のように飛び散る。

ウェンディの放つ光弾の雨が瞬く間に闇を駆逐していくが、それよりもなお速く、ライヌルの身体から闇の奔流が噴き出してくる。

無限を凌駕する無限。

この場に立っているのはたった一人のライヌルだが、今ウェンディに対峙しているのは過去の無数のライヌルでもある。だからこそなせる、人の技を超えた所業。

ライヌルは今でも昨日のことのように思い出せる。

あの屈辱や、あの恥辱。あの侮辱を受けた日のことを。

ローブの袖に隠した拳を握りしめ、心の中で歯を食いしばり、それでも穏やかに微笑んで見せた日のことを。

あの日受けた辱めを取り返すことは、永久にできない。

なぜならそれはもう過ぎ去ってしまったからだ。

たとえその侮辱をしてきた相手を今この場に引きずり出して、声が枯れるまで命乞いをさせた後で惨たらしく殺してやったとしても。

それで、そのとき受けた辱めが消えるわけではない。

そのときに負った心の傷も。

人は過去に戻ることができない。時の流れとは、もはや大なる四に属する領域だ。この世界を支配する大きなルールそのものとも言える大なる四の力は、人ごときに云々できるものではない。

だから今、ライヌルがその辱めを受けてしまった未来に生きている以上、そのときに心に巣食った闇は永久に消えない。

人とは、増え続ける闇を死ぬまで抱え続けながら生きていく生き物なのだ。

ならばいっそ、闇に思う存分身を浸してしまえばいい、とライヌルは思った。

そしてこのライヌルは、その辺りの凡愚のような中途半端な堕ち方はしない。

かつてノルク魔法学院始まって以来の俊英とまで言われたこの唯一無二のライヌルが、ひよっこどもに見せてやる。

闇に堕ちるとは、こういうことなのだと。

一つひとつの出来事は取るに足らない、相手がもう覚えてもいない些細なことであったとしても、それはライヌルという男の精神の濾紙を通して悪意と劣等感によって歪められ、凝縮され、濃縮され、凄まじい闇を放つ源となった。

もはや元々の事件など何であってもよかった。

相手が自分を見たときの一瞬の目付き。わずかな仕草。ただそれだけで、ライヌルにとっては凄まじい闇を放つ根源となり得たのだから。

相手の意図や真意がどうであったか。そんなことには何の価値もない。重要なのは、自分がそれをどう捉えたかだ。

自分、自分、自分。

自分の感覚が全てだ。自分がそう思ったのなら、それが自分にとっての事実なのだ。

放つ闇はさらに濃く、腐臭を増していた。

そのときライヌルは、“門”の少女を守るように立つ北の少年がいつの間にか、子供には不釣り合いなほどに長い剣を握っていることに気付いた。

「剣か。そんながらくたをどこから引っ張り出してきた」

ライヌルは哄笑した。

「またお得意のチャンバラごっこをするつもりか、この期に及んでもなお、お前の魂は北から離れることができんのか」

愚かな小僧。

ライヌルの闇がさらに勢いを増す。

「お前の剣の腕なら知っているぞ」

さっきはそれでこの首をへし折ってくれたのだから。

子供離れした剣技であることは認める。だが、所詮は人の技だ。

今はこの少年の誇りを、その源泉たる剣ごとへし折ってしまいたくて仕方なかった。

「杖を剣に持ち替えて、この戦いの中に飛び込んでくるのか。お前ごときが」

闇の魔獣でさえも、この戦いに立ち会うことを許されなかったというのに。魔術師としては駆け出しも同然の、身体能力に優れただけの小僧に何ができるというのか。

アルマークの、いつまでたっても戦意を失わない目が気に入らなかった。

まだそんな目をして、自分に何かできるとでも思っているのか。

「黙って見ていろ、どうせ消し飛ぶときは“門”の少女と一緒だ」

そのとき、アルマークが何か喋った。

「何?」

ライヌルは嗤った。

「何と言った、小僧」

「あんたは知らないと言ったんだ」

アルマークはそう言っていた。

「この剣を持ったときの、僕を」

飛び足の術。

ウェンディにとって、まず最初の難関はそれだった。

ライヌルの闇を押し返しながら、それと同時にアルマークの足に魔力を注ぎこまなければならない。

無限の魔力を背景にしている以上、魔力の量には問題がない。

だが、その調節をしくじればアルマークの足はたちまち弾け飛んでしまうだろう。

できるだろうか。今のこの状態の私に。

一瞬、アルマークの両足が無残に爆ぜるさまをありありと想像し、ウェンディの心は乱れた。

「それでもいいよ」

まるでウェンディの心の中の逡巡が聞こえていたかのように、アルマークはウェンディを振り返った。

「僕の足が弾け飛んだっていい。それと同時に必ずライヌルを斬ってみせるから」

それは強がりではなかった。戦場で見せる冷静な目のまま、アルマークはそう言った。

「だから、頼む。ウェンディ」

「……分かった」

ウェンディは答えた。

「もう会話は出来なくなるよ」

残る理性を全て、魔力の調節に注ぎ込むことをウェンディは決めた。

「ありがとう」

アルマークが前に向き直る。

その後ろ姿を、ウェンディは目に焼き付けた。

孤高の狼。

いつか、夜の森でアルマークの姿をそう連想したことがあった。

静かな佇まいの中に、人の命を一瞬で奪う鋭い爪と牙と、そして誰よりも気高い魂を持っている。

あなたと一緒に戦うことができるなら、あなたの力になれるなら、もうこれで全部終わってしまってもいい。

魔力に耐えきれずに、身体が消し飛んでしまっても。

だから、どうか彼に力を。

彼に力を与えてください。

飛び足の術。

それをかける瞬間、ほんの一瞬だったが光の雨が弱まった。

闇が一気にアルマークたちの前に押し寄せる。

もはや手を伸ばせば届きそうなところまで闇は迫っていた。

しかしアルマークは確信した。

自分の両足に、ウェンディの力が満ちていた。

飛び足の術はその力を現した。

「ありがとう、ウェンディ」

ウェンディの返事はなかった。アルマークももう振り向かなかった。

「お前の剣の腕なら知っているぞ」

ライヌルが叫んでいた。叫ぶたび、口から泥のような闇が飛び散る。

「杖を剣に持ち替えて、この戦いの中に飛び込んでくるのか。お前ごときが。黙って見ていろ、どうせ消し飛ぶときは“門”の少女と一緒だ」

そうかもしれない。でも、ライヌル。

「あんたは知らない」

「何? 何と言った、小僧」

「あんたは知らないと言ったんだ」

アルマークの目に、強い意志の炎が燃えた。

「この剣を持ったときの、僕を」

誰にも負けない僕を。

ぐん、と光の束が収縮する。

それまで光に押さえられていた闇が、周囲から一斉にアルマークとウェンディに襲い掛かる。

だがそれと同時にウェンディの光は闇を吹き飛ばし、アルマークの前にライヌルまで一直線の道を作った。闇に覆われていたライヌルの身体が露わになる。

その一瞬。

次の瞬間には、津波のような闇にアルマークもウェンディも飲み込まれてしまうという、まさにその一刹那。

アルマークは地面を蹴った。

走り出すと、周囲の時間が全て止まったようにすら感じた。

不定形のはずの闇の、一滴一滴までが鮮明に見えた。

動きを止めた世界の中を、アルマークは一人、猛然と駆け抜けた。

ウェンディの切り開いてくれた、光の一本道。

しかし、目の前に迫るアルマークを見ても、ライヌルは動揺しなかった。

闇によって極限まで研ぎ澄まされた感覚が、アルマークの神速の突進を捉えていた。

飛び足の術か。最後の賭けに出たな。

瞬時に正確な判断を下す。

だが、お前の剣の速さは知っていると言っただろう。

残念ながら、飛び足の術で速くなるのは足だけだ。腕の速さまでは変えられない。

ならば、そのまま突いてくるか。

たとえ飛び足の術の勢いで加速していたとしても、刺突程度の傷なら瞬時に再生できることは、アルマークにも分かっているはずだ。

だから、やはり斬りつけてくるのだろう。しかし、お前の斬撃の速さなど。

ライヌルは嗤う。

それはライヌルの得意な、机上での計算であった。

学院で常に彼を首席たらしめていた、正確な予測能力。

さっき振るっていたマルスの杖の速さをもとに計算すれば、容易に導き出せる。

どんなに必死になったところで、せいぜい斬撃の速さはこの程度だと。

アルマークが剣を振り上げる。

ほうら、やはり斬るつもりだ。

本人の動きの速さに惑わされることなく、剣だけに注意すれば、よけることは容易い。

ライヌルの身体の加速を助けるように、闇が足元から湧き起こる。

さらばだ、“鍵の護り手”。

己の無力に絶望して、そして“門”の少女とともに死ね。

だがその瞬間、ライヌルの脳裏をあの日のイルミスの影がよぎった。

実践。

丹念に日々積み上げられた、愚直な反復。

振り抜いたアルマークの剣が、ライヌルには見えなかった。

何度斬られたのかも分からなかった。

あり得ない。

ライヌルは声にならない叫びをあげた。

人は、そんな速度で剣など振れはしない。たとえ、魔法をかけられていようともだ。

だが、北の傭兵の息子の剣は、闇の魔術師の計算をはるかに凌駕した。

研ぎ澄まされた刃が、ライヌルの身体を容赦なく斬り刻んでいく。

だから私は嫌いなんだ。君たちが。

八つ裂きにされた闇の魔術師が吹き飛び、蛇を象った金の指輪が宙を舞う。

それと同時に、闇が四散した。