軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

実践

呼吸が上手くできない。

先ほど感じた強い恐怖が、まだ身体に残っている。

足に、腕に、身体を支える背骨に、うまく力が入らない。

ぎくしゃくとした無様な走り方で、ライヌルは荒れ果てた庭園を駆けた。

背後の少年たちを振り返りもせずに。

息が吸えない。

もどかしい。

……もどかしい?

苦しい、ではなく?

そうだ。よく考えてみれば。

呼吸など、最初から必要だっただろうか。

ようやくライヌルは、先ほどからまるで呼吸をしていない自分に気付いた。

呼吸など、要らなかったのだ。

そんなことをしなくとも、身体に取り込む空気の代わりに、闇が身体中を駆け巡ってくれる。

それだけで、身体は活力を取り戻す。

それに気付くと、恐怖に萎えていた腕や足に力が戻ってきた。

ああ、そうか。

ライヌルは口を歪めて笑った。

闇を操るとは、こういうことか。

闇の魔術師を名乗り、長いこと闇の力の研究をしてきたライヌルだが、己の身体をここまで闇に浸したことはなかった。

やはり、やってみねば分からぬことがある。

その感慨は、苦い記憶とひと繋がりだった。

机上の学習は、大の得意だった。

学生の頃からだ。

大概の凡庸な連中は、机上の理論をそのまま実践にも当てはめようとする。最初のうちはそれでいいが、そのうちに思ってもみないことが起きて、無様に失敗する。

そうして彼らはまるで悟ったように言うのだ。やはり机上の論理だけでは、虚しい空論に堕する。結局は実践に勝るものは無い、と。

それは、お前らの理論が脆弱だからだ、とライヌルは思っていた。

なぜなら、ライヌルはそんな失敗をしなかったからだ。

それが、彼の非凡なところだった。

彼はいつでも机上の段階で、すでに実践におけるほとんどの可能性や誤差を取り込んだ論理を組み立ててみせた。

そのため、時にはずいぶん奇妙な結論を出して、それはおかしいと友人たちから笑われることもあったが、実際にそれを試してみる段階になると、誰もが目を見張った。

彼の出す結論が、実践と寸分違わないからだ。

そんなことは当たり前だ、とライヌルは内心で彼らを嘲った。

やってみなければ分からぬ、というのであれば、馬鹿の一つ覚えで何でも試してみるがいい。だがそんな人間に、頭は要らぬ。身体だけを働かせる奴隷となって、せいぜい肉体労働に勤しむといい。

そのライヌルが、身を焼かれるような悔しさとともに実践の重要さを知ったのは、あの男の魔法を見たからだ。

息も吐かずに走るライヌルの前に、黒く焼けただれた地面が見えてきた。

ライヌルとイルミスとの激しい戦いの跡だった。

そこに、その男はやはりまだ先ほどと同じ体勢のままで倒れていた。

「イルミス!」

その名を叫ぶと、口から唾のように闇が散った。

イルミス。私の心を焼いたのは、君だ。

君が、私の人生を狂わせたのだ。

イルミスは、いかにもぱっとしない生徒だった。

とにかく、壊滅的に要領が悪かった。

いちいち実践しなくても分かるようなことまで、全て愚直に、実際に確かめる。それでさえ時々自分の未熟さが原因で失敗した。

ライヌルは、そんな彼のことなど最初から問題にしていなかった。

イルミスは、よくいる凡庸な生徒とは違う。それは、その執拗なまでの実践から分かった。

イルミスは、まるですべての現象を自分の目で見なければ気が済まないかのようだった。

だが、そのこだわりが良い方へ作用するとは思えなかった。

ある日、見かねてライヌルはアドバイスをしたことがある。

あれはまだ中等部一年の頃のことだった。

「ねえ、イルミス。君はそんな分かり切ったことまで全部再現してみなければ気が済まないのかい」

イルミスがその時やろうとしていたのは、薬草や魔法の触媒を五つも六つも使う、それでいて結論は分かり切った当たり前のことになる、つまらない魔法実験だった。

教本の記述をさらっと読めば、まあそうなるだろう、ということが簡単に分かる。

授業でも、教師はさらっと解説して通り過ぎた。生徒から特に質問も出なかった。

こんな魔法実験を、いちいち材料を全部集めて再現してみよう、などと考える生徒は皆無だった。

それをイルミスは愚直に、手間と時間を惜しむことなく再現しようとしていた。

「私は人よりもずっと愚かなんだ、ライヌル」

イルミスはすり潰した薬草で紫色に頬を染めて、そう答えた。

「自分で実際にやってみなければ、さっぱり理解できないんだ」

「結果は教本に書いてある通りだよ、イルミス」

ライヌルは少し意地悪な気持ちで言った。

「それ以上でもそれ以下でもない」

「うん、そうかもしれない」

イルミスは頷き、それでも手を止めなかった。

「だが、やってみないとすっきりしないんだ」

イルミスは時間をかけて再現し、そしてその通りの結果が出ると、初めて納得したように微笑んだ。

「言ったろう、そうなるって」

苦笑してライヌルが言うと、イルミスはそのまま自分のノートにがりがりと何かを書き始めた。

彼の書いている内容のあまりの緻密さに、ライヌルは眉をひそめた。

「君、いちいちそんなことまで書いているのか」

それはあまりに要領が悪い。時間がいくらあっても足りないじゃないか。これでは、進級も覚束ないのではないか。

そう考えたとき、イルミスがぽつりと呟いた。

「そうか、魔力の方向だ」

「え?」

「これも、これも」

イルミスは自分のノートをひっくり返す。それだけでは足りず、そこに積んであった古いノートまでも引っ張り出してくる。

「繋がっていたんだ。これも、これも」

聡明なライヌルにも、最初はイルミスが何を言っているのか分からなかった。だが、さすがにイルミスの書いていることを見ているうちに理解した。

まるで関係のない四つの魔術実験に、共通する一つの現象がある。イルミスはそれを見付けたのだ。

ライヌルには、全く思い付きもしなかった視点だった。

勢い込んだイルミスが、新たな実験を始める。それはライヌルにはまるで見たことも無いものだった。だが、そこにもやはり一つの同じ狙いが隠されていることがライヌルには分かった。

「面白いな、ライヌル」

振り向いたイルミスの目は輝いていた。

「魔法は、本当に面白い」

面白いだと?

魔法が?

その時に感じた、目のくらむような嫉妬を、ライヌルは今でも忘れていない。

愚直にくり返し続けた実践の賜物だろう。高等部に上がる頃には、イルミスの魔法の腕はライヌルが嫉妬するほどに自然で滑らかなものになっていた。

実践。

魔術師としての繊細な感覚が最も伸びる初等部から中等部にかけて、ライヌルはそれを怠ってきた。

実践を経ずともそれを使えるだけの頭脳と才能が、彼にはあったからだ。

そのツケが、高等部になってやってきたことを、ライヌルは悟らざるを得なかった。

無駄に思えたイルミスの実践には、将来への種子が隠されていた。

自分がイルミスを侮り、目先の華やかな技術に気を取られている間に、イルミスはそれを大きく育てていた。

ライヌルとて、それに気付いたからには実践を重ねてイルミスを追い越したかった。

だが今からでは、もう遅い。

初等部から実践を重ねてきたイルミスに、もう成長してしまったこの高等部の身体で追いつくことはできない。

そう悟ったライヌルだったが、イルミスに勝つ方法は分かってはいた。

彼の前には、まだイルミスが実践していない大きな分野がひとつ、手つかずで残っていたからだ。

いや、実践できない分野、と言った方が正確かもしれない。

闇。

書物でしか学ぶことを許されぬ、危険な力。

ならば、それを実践することで私はイルミスにないものを得ることができる。

闇を飼い慣らすことで、名実ともにこの学院で最も優れた人間となり、ライヌルの名を不動のものとする。

ライヌルが闇に手を染めたきっかけは、それだった。

「君さえ」

どす黒い剥き出しの地面の上で、ライヌルは声を絞り出した。

「君さえいなければ。イルミス、私は」

涙がこぼれた。

と思ったが、それは腐臭を放つ汚泥だった。

イルミスは動かない。その隣に寝かされた初等部の少女の胸は微かに上下しているが、イルミスの呼吸はもはや止まっている。

そうだ。私は、イルミスを殺したのだ。

「ここまで来たのだ」

計画は、破綻した。マルスの杖は手に入らなかった。“門の少女”は再び目覚めてしまった。

しかし、それでもライヌルにはやらねばならぬことがあった。

闇に侵された思考の中で、もはやそれは曖昧模糊としていたが、それでもやりとげねばならぬという使命感は残っていた。

「さあ私を追ってくるがいい、黴臭い運命とともに」

ライヌルは叫ぶ。

「私はお前らの前に立ちはだかって」

立ちはだかって。そして。

思考が濁る。

アルマーク。ウェンディ。

私は、彼らと対峙して、果たして何をするつもりだったか?

「そしてお前らを殺し」

口がそう動いた。

ああ、そうか。殺すのか。

「この世界を全て闇に染めてくれる!」

そうか。そうだった。

私はそれを望んでいたのだった。