作品タイトル不明
08.アンリエットは好きな男と半年も一緒に暮らしているのに
がしょがしょ混ぜたボウルの中身は、固過ぎずゆる過ぎない絶妙な生地。
コツは同じ高さ同じ位置から生地を流すこと。十五センチ上を意識して、油をひいたフライパンに生地を流せば、綺麗な円が出来上がる。
生地にふつふつと小さな気泡が出てきても、まだ我慢。四個目の気泡がはじけて初めてひっくり返せる。ここで注意なのは、我慢のし過ぎ。ひっくり返すタイミングが遅れると綺麗な焼き目は拝めない。
火加減は弱火。だけど中火寄り。弱過ぎてもいけないし、強過ぎてもいけない。一度……いや、二度三度(以下略)、焦がしたり、焼き目が綺麗じゃなかったりなパンケーキを生み出してしまった。
「今日は上手く出来たわ!」
パンケーキ歴半年目にして、一番の出来である。
この国での生活にも、こうした小さな積み重ねが増えてきた。
しっとりふわふわな二段重ねのパンケーキに、アンリエットの口角もふんわり上がる。
さて、アンリエットが母国であるフィルモアネガン国を出て、一か月かけて辿り着いたティヴィソル国での暮らしは、いつの間にか半年を数えていた。
この国での生活を一言で表わせば、順調そのもの。
アンリエットは、毎日リオンと一緒に楽しく暮らしている。
……が、非常に残念なことが一つだけある。
不満であり、許されざることであり、アンリエットの心に靄をかけることだ。
それは、アンリエットとリオンが未だ婚姻を結んでいないことだった。
共に暮らして半年、それでも立場が曖昧なままでいる、その状態がどうにも落ち着かない。
ティヴィソル国では、メイウェザー教会のように両親の許可がなくとも婚姻関係になれる教会が三つもある。その内の一つは、今二人が生活している借家から近い。
だから、アンリエットはティヴィソル国に着いたその日にリオンと婚姻を結ぼうとした。
なのに、リオンは言ったのだ。
「お嬢様は、好きな男と結婚しろよ」と、他人事のように。
しかも、聞けば、元よりしないつもりだったらしい。
はあ? である。
なんじゃそら! である。
好きな男? そんなの、リオンに決まっているではないか。
え? チョロい、って?
ふん、チョロいと思われてもいい。だって、アンリエットは元々チョロインだもの。
何とでも言えやいっ。
よく考えなくても、分かることだ。ピンチのときに現れて助けてくれた男を好きにならない女子がいるのだろうか?
否! いない!
しかも顔と声がタイプ、って。
これはもう、ね? 落ちるでしょ? いやいや、すでに落ちてるでしょ?
大会でも結果を出し、きっと有事の際にはアンリエット一人くらい難なく担いで逃げられるという物理的強さを持つ男に惚れない女なんてこの世にいるのか?
いるのならば、アンリエットの前に連れてきてほしい。
だがしかし、リオンとの仲はまったくと言っていいほど進展していない。
おいおい、本当にやりたい盛りの十代か? と突っ込みたくなるほどにリオンはアンリエットを意識していない。
出せよ、手を! と元箱入りのお嬢様のくせに、下世話なことを思ってしまうアンリエットである。
杏里のときならいざ知らず、アンリエットは美人の部類だ。
例え持っている色彩が地味だとて、それを差し引いても美人と評される顔立ちだ。
市場に出れば、声だってかけられる。そのせいであしらい方がとっても上手くなったくらいには……と思うのだが、実はリオンの方が声をかけられる回数が多かったりする。最悪なことに、彼はティヴィソル国で女性に好まれる顔立ちだったのだ……。
国と時代が変われば『美』の基準も変わるとはよく言ったもので、リオンをハイエナの如く狙っているハイエナ女子共は、リオンがアンリエットと暮らしていることを知りながらアプローチをやめない。それどころかアンリエットに宣戦布告までかます。
この前なんて花屋の看板娘が……!
思い出すだけで、指先に力が入る。
歯をぎりぎりしたい気持ちになってきていたところで、アンリエットの心を乱しまくっている男が自室から出てきた。
「はよ」
適当な挨拶なのに、顔を見ただけで苛立ちが収まっていくから不思議だ──ここまで来れば、否定する方が無理だろう。
「おはよう、リオン。今日は上手く出来たのよ、パンケーキ!」
ほら、見て? と自慢げに皿に載せたパンケーキを目の前に置けば「やるじゃん」の返事。
ああ、テフロン加工のフライパンならば、もっと成功は早かった、と嘆いても、この世界にそんなものは存在しないので、諦めて「いただきます」のご挨拶。
「ん、これは……」
「あ、気付いた?」
これ、とリオンが言っているのは、パンケーキに載せたジャムのこと。
彼は目を丸くして、珍しく驚いた表情をアンリエットに見せている。
「よかった! これ、トリッシュお 義姉(ねえ) 様に教えていただいたレシピで作ったジャムなのよ。あなたの好物って聞いて頑張ったんだから、噛みしめて食しなさい」
「噛みしめてる噛みしめてる、美味い美味い」
「ふふっ」
適当な返事をされたって耳が赤いリオンの心情など、まるっとお見通しだ!
ここで、『トリッシュお義姉様』について触れておく必要がある。
何、時間は取らせない。巻きで行く。
トリッシュとは、リオンの五つ年上の実姉だ。
流行り病で両親を失ったトリッシュは、弟を養うため、朝も昼も夜も働き……働き詰めて、とうとう病に倒れてしまったそうだ。
だが、そのときにはもう弟は騎士見習いになることが決まっていたので、自分がいなくても大丈夫だと安心し、病を治すことを諦めた。
高い治療費をかけて治ったとしても、弟に迷惑をかけることは必至。ならば自分はこのままでいい、と。トリッシュは、本心からそう思っていたそうだ。
しかし、そんなことはさせないと憤慨した者がいた。
それが彼女の弟・リオンである。
つまり、リオンが金を稼ぎたかったのは姉・トリッシュのためだったというわけだ。
その後、そんなことは露知らずな開眼前のアンリエットがリオンをスカウトし、潤沢な給与を得たリオンのおかげでトリッシュは医療が盛んなティヴィソル国の病院に入院でき、そこで病院の院長の息子に見初められ、今では二児の母である。
ここまで聞くと、あれ、ヒロインはもしかしてトリッシュ? と思わないでもないが、ヒロインは何人いてもいい。
皆違って皆ヒロイン。あなたも、私も、皆、ヒロイン!
そんなマインドでアンリエットは生きたい。
話を戻して。
トリッシュは、ティヴィソル国で暮らしていく上で困っていることや相談だったりに乗ってくれる素敵な女性だ。
そんなわけで、信頼と尊敬(と願望)を込め、「トリッシュお義姉様」と呼んでいる。トリッシュもアンリエットを可愛がってくれていて、「アンリちゃん」と呼んでくれている。
以上。トリッシュの説明終わり。
彼女の子供達もアンリエットに懐いており、外堀は結構埋められている……はずなのだが、しかし。
「で、お嬢様の今日の予定は?」
「……」
これだ。
お分かりいただけただろうか?
そう、リオンは未だアンリエットを「お嬢様」と呼ぶのである。
この呼び方一つで、関係が他人行儀に見えてしまうことを、この男は分かっていないのだろう。まったく腹立たしい男である。好き。
「お嬢様?」
怪訝そうなリオンに、「ええ、そうね」と、どうにか返す。
「今日は、午後からマルヴァル商会のソレーヌ様と商会の 意匠担当部(デザイナー・チーム) と打ち合わせをする予定よ」
「……ソレーヌ会長? ああ、あのおっかない人か」
「ふふ、ああ見えて人情が厚い方よ。それに他人にも厳しいけれど、自分にはもっと厳しい方なの」
「ふうん? ああ、俺は今日、早番だから一緒に夕飯食おうぜ」
リオンは街の警邏隊に属している。
「分かったわ!」
アンリエットは、リオンの「ふうん」の言い方が好きだ。
全然興味ないですよ~的な表情なのに、紡がれる声はとても優しい。
これ、両想い? と思うのは、アンリエットの自惚れだろうか。そうでなければいいのに。
でも、二度も結婚を断られた今のアンリエットは少し臆病になっている。
一回目は「結婚する必要はもうないだろ?」と軽くあしらわれ、二回目は「俺とあんたじゃあ身分が違い過ぎる」と笑い飛ばされ、断られている。
◇
さて、アンリエットが「こんな商品がどこかに売っていないかなあ」と思い描いた万年筆の落書きが、どういうわけか一流と謳われるマルヴァル商会のソレーヌ女史の目に留まったことをきっかけに、今ではマルヴァル商会のデザイナーとして職を得ている。
後にトリッシュがソレーヌ女史に落書きを見せたおかげと分かるのだが、それが不明だった期間、詐欺だと思いガクブルしていたことがもはや懐かしい。
本日は、ガラスペンの提案をすることになっている。
百合と薔薇をモチーフにしたガラスペンのデザイン画を見せると、滅多に笑顔を見せないソレーヌ女史の口角が少し上がった。
「なんて素敵なのかしら。アンリエットさんのデザイン画は思わずため息が出てしまいます」
「恐縮でございます、ソレーヌ様。実は持ち歩き出来るようキャップ付きのデザインも考えてみたのです」
「まあ! 是非見せてくださる?」
「ええ、もちろんです」
気難しく気位の高いソレーヌ女史だが、アンリエットとは不思議と馬が合うようで仕事が楽しくて堪らない。
◇
提出したガラスペンのデザインはどれも絶賛され、企画の進行が決定した。
「こちらをくださいな」
「はいよ、まいどありぃ」
思わず笑みが漏れてしまうほどにご機嫌なアンリエットは、行きつけになった肉屋に寄り、リオンの好物である骨付きチキンを購入した。
これを甘辛く煮たものが彼の好きな料理だ。
三回に二回は失敗しているが、今日はきっと成功の一回に違いない。きっとそうだ。そんな予感がする。だって、パンケーキだって成功したのだから。
るんるんと跳ねる足取りで家に向かうアンリエットは、家の前に誰かがいるのに気が付いた。
男だ。
でも、リオンではないのはシルエットで分かる。リオンはあんなになよっちい体付きではない。
しかし、ほんのり既視感がある。
背筋を撫でるような不快感に、アンリエットははっとして踵を返した。
既視感があるのは、当然だ。
嫌で嫌で、会う前日には必ず腹痛を起こすくらい嫌だった男だ。早々忘れられるはずがない。
「リオン! リオン! 助け──」
声を張り上げた、その直後だった。
警邏隊の詰め所がある場所への近道に入った瞬間、アンリエットは後ろから薬品をしみ込ませた布で口を覆われ、視界を暗転させた。