軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

04.アンリエットは強行突破を決意する

アンリエットは自室の鏡台の前で盛大なため息を吐いていた。

「はあ」

鏡に映る自分の顔は、十日前より明らかにくたびれて見える。

目の下には薄く影が落ち、口角は意識しなければ持ち上がらない。

いや、正確には、表情そのものよりも、その奥に残る張りのようなものが、目に見えないところですり減っていると言うべきか。

「はああああ……」

ため息の原因は、言わずもがな、スティーヴンことカビ王子である。

カフェで一時間も放置したというのに、奴は懲りずに毎日毎日屋敷にやって来ては、時間の許す限り、軽すぎる頭を下げ続けている。しかも、正門前で。

使用人や通行人の視線が集まる場所で、あえてそこを選んでいるのが余計に 質(たち) が悪い。

……これを迷惑だと認識していないところが、この王子の致命的にヤバい点だった。

どうにも、カビ王子のやっていることは、日本でいうところの土下座に近いものだと思える。

最上級の謝罪方法などと思う方もいるだろうが、アンリエットはそうは思わない。

許してもらえる可能性が高まるからしているパフォーマンスである、と杏里であったアンリエットは考えている。

土下座は、された側の判断を一時的に奪い、対応を誤らせるための行為だ。

しろと言われたわけでもないのにそれをする人間とは即ち、された側の都合を考えず、自分の気持ちを優先し、「こんなにも真摯に謝罪する自分に免じて許してくれ!」と自己陶酔している人間である。

よほどのサイコパスでない限り、他人の土下座を喜ぶ者などいないのだから、カビのやっていることはアンリエットにとってドン引き案件だ。

「……まずい状況だわ」

本来なら爽やかな春。

昼下がりの陽光、鳥のさえずり、庭師が丹精込めて植えた花々。

だが、しつこいカビのせいで全部台無し。

景色は美しいのに、視界の端にしゃがみ込む王子が写り込むだけで世界観がホラーに変換される。

屋敷に一歩でもカビ王子を入れたら死んでやる、と父を脅しているため、奴が屋敷に足を踏み入れているわけではないが、父がまた絆され始めているので、部屋を一歩でも出たら揉み手の父と、『友情に熱い俺』に酔っているコバエがたかってくる。

加えて、アンリエットの部屋に、モナとポリーが入室することを父が禁止にしているし、ロドニーへ頼んだ紹介案件も妨害している。

表向きの理由は『療養に専念させるため』だが、実態は完全な隔離だ。

つまり現状は、見過ごせば取り返しがつかなくなる類の警告が、いくつも重なっている状態だった。

正直言って、大大大ピンチである。

「もうやるしかないわね。いいわ、やってやるわよ!」

アンリエットは、ガタンッと音を立てて立ち上がり、部屋の扉を開け、左右に控えていた甲冑姿の男四人の前に仁王立ちした。

本当は、計五人だったが、アンリエットが扉を開いたと同時に父とコバエに伝達するべく走り去ってしまったための人数である。

「この中で婚約者、もしくは恋人、もしくは好いた女性がいない者のみ挙手をしなさい!」

アンリエットの偉そうな物言いに「えっ」と小さな戸惑いの声を上げたのは三人。

そして、「はい」と瞬時に手を上げたのは、一人。

それと同じタイミングで「アンリエット~~~!!!!」と叫ぶ父と、コバエの声が遠くから近づいてくる。

一人だけという事実は、正直に言って心許なかった。選択肢がないのだから。

だが、背後から迫る父とコバエの足音を想像した瞬間、迷っている余裕など消し飛んだ。

悩む時間がない今、それが短縮されたことは実に効率的だ。そう思うことにした。

容姿は気にはなるも、アンリエットが重視するのは容姿ではない。

「来て」

挙手した男の腕を引けば、彼はすんなりと、驚くほどにあっさりと部屋に入室した。

そして、鍵をかけた瞬間、どんどん! とノックをされるが出るつもりはない。

振り向き様、アンリエットは甲冑姿の男に告げる。

「単刀直入に言うのだけれど、私と一緒に駆け落ちしてほしいの」

断られたって、諦めるつもりは毛頭ない。

ここで引き下がれば、待っているのは話し合いという名の説得と、最終的には既定路線への引き戻しだと分かっている。

「いいですよ」

「そうよね、嫌よね。でも聞いて……ん? あなた、今、『いいですよ』って言ったの?」

「はい」

「あ、あの、本当にいいの? ……ええっと、あなた、駆け落ちの意味を分かっている?」

「もちろんです、お嬢様」

忍び笑いを含んだ返事に、アンリエットは反射的に首を傾げた。

……上手くいき過ぎではなかろうか?

未だに聞こえるノックと雑音の中で、アンリエットは、その場に縫い止められたように固まった。

「つまり、アンリエットお嬢様は俺の嫁ってことですよね?」

甲冑姿の男は、こともなげに言う。

「え、ええ、そうね、そう……」

「じゃあ、式はメイウェザー教会ですか?」

「……ええ」

西部のウェストブルック領にあるメイウェザー教会は、フィルモアネガン国で唯一両親の許しがなくても結婚ができる教会で、今アンリエットが住んでいる王都からおよそ一か月ほどかかる距離の場所にある。

「いつです?」

「え?」

「駆け落ちするの、いつがいいんです?」

「ええっと……? いつがいいかしら?」

甲冑の男に、アンリエットが戸惑っていると、「今夜でもいいですか?」と、聞いてくるではないか。

控えめに言って好みの、やたらにいい声である。

しかし、どぎまぎしている様子を悟られたくない。

頬の内側が熱くなり、呼吸の間がずれる。その感覚が不快なのか、それとも別のものなのか、即座に切り分けられなかった。

「い、いいわ、今夜ここを発ちましょう」

「深夜十二時、迎えに来るからベランダの鍵だけ開けておいてください。あと、分かってると思いますが、奥様とモナお嬢様、それからメイドのポリーにもこのことは内密にしてください」

「え? お別れを言ってはいけないの?」

「ええ、だめです」

「……そんな……」

父とコバエには挨拶の必要性は感じないが、母とモナとポリーには挨拶をしたい。

でも、彼の言っていることは説得されるまでもなく理解している。

あの三人とは、現段階で会うのが難しいし、会えたとしても監視の者が同行する。

手放すものが増えるほど、前へ進む決断が重くなることは、嫌というほど分かっていた。

ここで立ち止まれば、またあの窮屈な檻に戻る。思い出すのは冷たい視線と、空虚な期待ばかりだ。胸が締めつけられた。

「俺も可愛い恋人の望みは叶えてあげたいんですけどね、こればっかりは……すみません。諦めてください」

「こ、こい、恋人!? 私達、そんな仲ではないでしょう!?」

「でも、まだ夫婦じゃないってことは、恋人じゃないですか?」

「え? え?」

夫婦になる前だから恋人。

という構図は分かる。

分かるが、しかし──

それがアンリエットと目の前の甲冑の男に当てはまるかと言われたら、違う気がする。

知り合って十分も経っていない相手だ。名前すら知らない。

「それが嫌なら、駆け落ちは無理ですね。諦めてスティーヴン殿下と結婚するって選択肢もあるんじゃないですか? 今ならまだ間に合うでしょう。めいっぱい反省させてやりゃあいいです。きっと、お嬢様優位の結婚生活になりますよ」

「嫌よ! それに、もう候補は外れたわ! 私と殿下との婚約は、なしになったの! 結婚なんてあり得ない! 絶対しないわ!」

「へえ? じゃあ、どうしてあんなに毎日毎日謝罪しに来るんでしょうねえ?」

〈婚約者候補を辞退したら、溺愛が始まっちゃいました~私のことが大好きな王子様は好き避けをしていたようです~〉では、絆されたヒロイン・アンリエットがスティーヴンを許し、婚約し、最終的に結婚する。

アンリエットは、「そうだったわね」と呟き、こめかみを中指で押さえる。

──甲冑の男か、カビ王子か。

二択を突きつけられ、頭の奥に鈍い圧が生じた。

が、アンリエットに残された時間は少ない。

このままでは、母が懐柔されるのも時間の問題だし、それ以上に父とコバエが強行突破する可能性が大きい。

「……分かったわ」

短く息を吐き、アンリエットは腹を決めた。

「今日から私とあなたは恋人よ。よろしくね」

スッと握手を求めるように手を差し出すと、「ふはっ」と吹き出しながら甲冑の男が跪き、「恋人同士は握手なんてしないんですよ、お嬢様」と言って、差し出したアンリエットの手を取った。

「本当は手の甲にキスでもしたいんですけどね、今はやめときます」

今は、ってなんだ、と心の中でツッコミを入れながら、アンリエットは平気なふりを装って頷いた。

「今夜十二時に迎えに来ます。……部屋の明かりは消して、ベランダのカーテンは全開でお願いします。荷物は最小限で。……んで、まあ、手紙くらいならいいですよ」

最後の言葉に、アンリエットは首を傾げる──手紙くらいならいい、とは?

「別れの挨拶は文字で、ってことです」

そして、アンリエットがぽかんとしている間に、甲冑姿の男は「では」と言って、部屋から出て行ってしまった。

「……なん、だったの?」

ぽかんとしながらも鍵を閉めるアンリエットに答えてくれる者は、この場には誰もいない。

ただ一つ、分かっていることは、本日深夜十二時に、あの甲冑姿の男と駆け落ちするということだけである。

それが正解なのか破滅なのかは、今の時点では判別がつかなかった。

だが、自分の足で選ぶ未来なら、どちらでもいい。

逃げた先が崖であっても、自分で選んだ一歩なら後悔はしない。

少なくとも、誰かに決められた人生よりは、ずっとましだと、アンリエットは思った。