軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

02.アンリエットはクソ物語のヒロインだった

舞踏会で倒れたアンリエットが、目を覚まして最初に喉から零れたのは、「無理」という言葉だった。

どうやら十日も意識不明だったらしい。医師や侍女の声が、入れ替わり立ち替わりそれを告げている。

だが、今のアンリエットにとっては、意味を持たない数字として頭の端を滑っていく。

「アンリエット! ああ! よかった! 目を覚ましたのね!」

涙声の母が視界に割り込んできて、反射的に眉が寄った。

大きな声が、まだ戻りきらない意識を揺さぶる。

母の隣で号泣している父に視線を向け、すぐに外す。その隣で同じように頷く兄も、目に入っただけで終わらせた。

代わりに、「お姉様」と目を潤ませるモナと、嗚咽を堪えるポリーへ意識が向く。

伸ばした腕に、父母が割り込もうとするも、それを押し返し、モナとポリーの二人だけを抱き締めた。

「ううっ……私、お姉様がもう起きないかと! でも、よかった、よかった!」

「お嬢様、心配いたしました……!」

「ふふ、心配させてごめんなさいね。まだ少し痛むところはあるけれど、もう大丈夫だから泣かないで?」

わんわん泣く二人の背中を撫で慰める最中、手で払った父母が視界の端に映った。

以前のアンリエットにはなかった態度に、二人は驚き過ぎたのか涙が止まっていた。おそらく、ショックを受けているのだろう。

それでも、心は動かなかった。罪悪感も湧かなかった。

娘の頼みを聞き入れなかった結果としては、あまりにも軽すぎる。そう感じてしまう自分に、違和感はない。

なぜなら、今のアンリエットの中には、別の人生の記憶が流れ込んできていたからだ。

貴族制度などなく、恋愛結婚が当たり前の〈日本〉という島国で、OLとして生きていた、 杏里(あんり) の記憶が。

──日本で死んだ杏里は、アンリエットに転生した。

その事実を、舞踏会で倒れた衝撃によって、アンリエットは思い出したのだった。

寝込んでいた期間が長かったのは、アンリエットが色々と、それはもう色々なことを、否応なく思い出してしまったせいだろう。

目覚めてから流れ込んできた記憶を、どうにか整理しようとして、ようやく辿り着いた結論がそれだった。

自分は、前世で読んでいたWEB小説〈婚約者候補を辞退したら、溺愛が始まっちゃいました~私のことが大好きな王子様は好き避けをしていたようです~〉のヒロインとして、この世界に存在しているのだ、と。

物語の筋立ては、冗長なタイトルがほぼ語り尽くしているが、簡潔にまとめるなら、この物語はヒーローであるスティーヴンと、ヒロイン・アンリエットの関係を描いた恋物語である。

スティーヴンは、ヒロイン・アンリエットを好いている。

好いているが、素直になれず、態度は常に裏目に出る。

その冷淡さに耐え切れなくなったアンリエットが、婚約者候補を辞退するところから物語は始まる。

やがて彼は心を入れ替え、『そっけないモード』から『溺愛モード』へ移行する。

一方で、自己肯定感を削られたアンリエットは、その強引な求愛を受け入れ、最終的に結婚へ至る。

というクソみたいな道筋を辿る物語だ。

え? どこがクソみたい、って?

素直になれない思春期男子の恋物語なんてたくさんある、って?

杏里だった頃のアンリエットも、そういう話はアリだった。

むしろ好きだった。アリよりのアリ。

だけど、それは、思春期に入る前の可愛らしい『小さな恋のメロディ』的なエピソードがあってこそのものなのだ。

分かるかい?

出会った瞬間から、酷い態度を取られていたアンリエットに、スティーヴンを好きになる要素なんてない。

砂粒ほども、ない。

断言できる。存在しないものは、存在しない。

いくら顔が良かろうが、中身が伴っていなければただのクズだ。ゴミカスだ。浴槽の隅に出現するカビよりも悪しきものだ。

否、言い過ぎた。同等だと訂正しよう──奴は、カビだ。

つまり、杏里だった頃のアンリエットは、この物語が大嫌いだったということだ。

だって、九年間も、酷い態度を取られていたのに、「本当はずっと好きだったんだ!」と言われたくらいで心をよろめかせ、絆され、最終的に許してあげるなんて……そんなのは、過度な自己犠牲ではないか。

チョロインは嫌いではないが、自己犠牲は嫌いだ。

杏里の記憶が戻ったアンリエットは知っている。

そういう類の男は懲りない、と。絶対にまた何かしらかをやらかす、と。

杏里は、ダメンズばかりと付き合う女だったから知っている。

奴らの、いや、カビ野郎の実態を。

謝れば許してくれるチョロい女だ、と驕り、こちらを下に見ている存在だと知っている。

いったい何様だ?

あ、スティーブンは王子様か。

って、やかましいわっ!!

──と、ここでようやく、前話の冒頭シーンに戻る。

「婚約者候補を辞退させてくれないのなら、ここから飛び降りますから!」

あの『飛び降りてやる事件』から二週間後。

自室のベッドに並び、モナと肩を寄せ合いながら、アンリエットは久しぶりに穏やかな時間を過ごしていた。

ポリーも誘ったが、立場上難しいと言われては断念せざるを得ない。

お気に入りのチョコレート菓子を摘まみながら話す内容は、モナの婚約者になった伯爵令息の話。なんと、シャーレインの弟君なのだ。

「初顔合わせ、緊張するなあ」と口を突き出す妹のなんと愛らしいことか。「一緒にドレスを選んでね?」と不安げにお願いされてはもうメロメロ。

可愛い可愛い、うちの妹が一番可愛い。世界一。宝物。愛と平和の象徴。銀河一のお姫様。

なでなで、と頭を撫でればこれまた可愛いい笑顔が返ってきて、アンリエットは自分の心が癒されていくのを感じた。

『妹ざまあ』ジャンルは滅びるがよろしい。

コンコン。

その時間を断ち切るように、ノックの音が耳に届いた。忌まわしい、と反射的に判断してしまう。

「アンリエット?」

返事をせずにいると、ドアの向こうから父の猫なで声が聞こえてくる。

「許可なく部屋に入ってきたら死にます」という脅しがちゃんと効いているようだが、この猫なで声の不快なこと不快なこと。

嫌な予感がする。

アンリエットは、思わず舌打ちしたくなるがどうにか堪え、ベッドから降り、ドアは開けずに、話を聞く姿勢を取る。これは仁王立ちとも言うし、戦闘態勢とも言う。

「パパと少し話そう?」

「……」

返事はしない。

なぜなら扉の向こうの相手が、許されたと解釈するからだ。

「スティーヴン殿下は、その……ええっと、少し誤解を受けやすいかも知れないけどね、お前のことが嫌いでああいう態度だったわけではないんだよ」

「……」

返事はしない。

なぜなら、以下略。

「ただの照れ屋さんなんだ」

その言葉が耳に届いた途端、抑えきれず舌打ちが漏れた。

「パパもママと婚約したばかりの頃、そうだったんだ。ママが可愛過ぎてうまく話すことができなかったんだよ。……だから、だからね、婚約候補から降りるなんて──」

「死にます!」

以下略……は、できなかった。

「ままま待って! 待って待って、アンリちゃん! アンリちゃーん! 顔を見て話そう!! ここ開けて!!!」

「モナ、ポリー、さようなら、私死ぬわ」

父の言葉を無視してモナとポリーに言えば、二人は大袈裟においおいと声を上げて泣き始めた(演技)。

最高の女優である。アカデミー賞を授与したい。

「アンリちゃん! ごめん! ごめんなさい! もう一度話してくるから、死なないで!! お願い!!」

「あなたは嘘吐きで最低な人間です。もう二度と会うことはありませんが、ここまで育ててくれた恩はあるので一応礼は言っておきますわ。ありがとうございました。では侯爵様、さようなら。夫人と息子さんによろしくお伝えください」

「うう、ごめん、今度こそ話をつけてくるからあと一日待って……待って……あと、『侯爵様』って呼ぶのやめて……パパ、泣いちゃう……っ!」

「明日のこの時間に死にます。毒薬があるので、一瞬でコロリです」──嘘である。そんなもの持ってるわけがない。

だだだだーっと遠ざかる足音を聞きながら、こんなにチョロいならもっと早く試せばよかった、とアンリエットは思った。

遠ざかる足音を聞きながら、アンリエットは自然と思い出していた。

──前世でも、この世界でも、優しい人間は、搾取される。

人に優しく、いつも笑顔で、人の嫌がることは率先してやりましょう。杏里はそう言われて育った。だから出来うる限り、そのように過ごした。

小・中学校の通知表には、いつも書かれていた。人に優しく、いつも笑顔で、人の嫌がることは率先する生徒です、と。

だけど、そういう人間が社会に出たとき、幸せになれるかは別だ。

いや、幸せになる人間はそりゃあいるだろう。だが、全員ではない。

最初はお礼を言われていたことも、すぐに言われなくなる。『杏里がやって当たり前』になる。

そして、それが日常になり、その『やって当たり前』が積み重なり継続が困難になると攻撃し始める。

幸せになる人がいる一方、そうでない者もいるのだ。

杏里は後者だった。

杏里が社会で得た教訓は、『優しい人は損をする』、『真面目な人間が馬鹿を見る』というものだった。

杏里をこき使い、手柄を横取りしていた会社の上司に対し、杏里はついに反抗した。

彼女のパワハラをまとめた資料を本社に提出し、会社を辞めたその瞬間、杏里は今後の生き方を決めた。

これからは、他人よりもまず自分に優しくできる人間になる、と。

もっとも、その直後、激高した上司に階段から突き落とされ、命を落としたのだが。

とまあ、この話はさて置き。

で、転生した先がアンリエットというわけだ。

まるで開眼する前の自分のような搾取人生を歩んでいるアンリエットが可哀想で、不憫で、そして同時にアンリエットの優しさに付け込む奴らが憎くて憎くて堪らなくなった。

だからこそ、だ。

今度こそ、だ。

「杏里の分まで、幸せになってみせるわ」