軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

空の器

ソラの風魔法が、喰む者に叩き込まれた。

風の刃が部屋を横断した。だが、喰む者の体に届く前に、風が吸い込まれた。魔法のデータそのものが空洞の体に吸収され、消えた。

「風が消えた……魔法を食べたのか!?」

「食べた、というより、消した。わたしに近づくもの全てのデータを消去する。魔法も、スキルも、装備の効果も。データであるものは、全て消える」

喰む者の声は空洞から響くように反響していた。

「遠距離攻撃が通じない。近づくしかないのか」ソラが高度を維持しながら考えた。

「近づけば、お前のデータが消去される。レベル、スキル、装備、記録。全てが虚無に還る。Lv90の風魔法使いが、何もない空の器になる」

ヴェノムが床に立っていた。喰む者との距離は十五メートル。吸引力を感じている。だが、吸われている感覚は薄い。

「ヴェノム。距離を取って。近づいたらデータを食われるわ」

「ソラ。俺は大丈夫だ」

「大丈夫って、どういう」

「Lv1だ。スキルもほとんどない。装備も最低限。食われるデータがほとんどない」

ヴェノムが一歩前に出た。吸引力が強まった。見聞録のステータス画面に警告が出た。

【警告:データ消去領域に接近中】

【現在の消去対象データ量:微量】

微量。Lv1の旅人が持つデータは、Lv90のプレイヤーと比べて桁違いに少ない。喰む者の吸引は、食べるデータの量に比例して威力が上がる。データが少なければ、吸引力も弱い。

「面白くない獲物だな」喰む者が空洞の体を揺らした。「Lv1の旅人。食べるものがない。お前を食べても、虚無が少し増えるだけだ」

「ああ、俺は空っぽだ」

ヴェノムがもう一歩踏み出した。

「俺は一度、全てを失っている。ギルドを失った。仲間を失った。レベルを捨てた。Lv1からやり直した。だから、知ってる……空っぽになるのが、どういうことか」

三歩目。吸引力が強い。だが、ヴェノムの灯歩の光が反応した。灯歩は糸の奪取を防ぐ。喰む者の能力は糸の奪取ではなくデータの消去だが、灯歩の光がヴェノムのわずかなデータを守ろうとしていた。完全には防げないが、消去速度を大幅に遅らせている。

「ソラ。俺が中に入る」

「正気? あの穴の中に入ったら」

「食われるデータがない人間なら、虚無の中を歩ける。食べるものがなければ、あいつは俺を止められない」

ソラが一瞬だけ黙った。

「分かったわ。わたしが援護する。吸引力を少しでも分散させる」

ソラが上空から風魔法を連続で撃ち始めた。魔法は吸収されて消える。だが、吸収している間、喰む者の意識と吸引力が魔法に向く。ヴェノムへの圧力がわずかに弱まった。

「ソラ。ありがとう」

「お礼は帰ってきてから。行って」

ヴェノムが走った。

床の穴に向かって。黒い穴。虚無が口を開けている。吸引力が全身を引っ張った。

穴に飛び込んだ。

虚無の中は、何もなかった。

暗闇ではない。暗闇には「暗い」という性質がある。ここには性質がない。色がない。音がない。温度がない。重力がない。方向がない。

何もない空間を、ヴェノムは歩いていた。

見聞録が機能しなかった。索敵も、マップも、ステータスも、全て白紙になっていた。データが存在しない空間だから、データを読む見聞録も動かない。

だが、足は動いた。足元に何もなくても、ヴェノムの足は地面を踏む感覚を覚えていた。

〈翠蛇の牙〉を失った日のことを思い出した。ギルドが解散して、仲間がログインしなくなって、一人になった。レベルを捨てて、Lv1に戻って、始まりの町から歩き直した。

あの時も、こんな感覚だった。何もない場所から、一歩ずつ歩き出す感覚。

「空っぽだったのは、俺も同じだ。だから分かる。虚無の中でも歩ける。歩いてきたから」

虚無の中に、光が見えた。

小さな光。灯歩の金色の光。ヴェノムの体から漏れている光だった。Lv1のデータは微量だ。だが、ゼロではない。Lv1からやり直して、旅人の集いに入って、仲間と歩いた記録がある。少ないけれど、確かにある。

その光が、虚無の中で道を示していた。

光を辿って歩いた。虚無の中心に、核があった。黒い球体。喰む者の動力核。虚無を生み出している源。

ヴェノムが核に手を伸ばした。

核が吸い込もうとした。ヴェノムのデータを。だが、吸い込むものがほとんどなかった。Lv1の旅人の微量なデータ。吸い込んでも、核を満たすには足りない。

ヴェノムの手が核に触れた。

「俺のデータは少ない。だが、灯火は灯っている。一万時間の旅人には遠く及ばない。だが、俺にも歩いた道がある。その道が、今ここに届いた」

灯歩の金色の光が、核に流れ込んだ。虚無の核に、微量だが確かな光が注がれた。虚無は光を吸い込めない。虚無は「ないもの」を食べる存在だ。灯歩の光は「あるもの」だ。存在そのものが光の灯火。

核に亀裂が入った。虚無が光に耐えられなくなった。

核が砕けた。

【──────────────────────────】

【紡世の徒 幹部「喰む者」を撃破しました】

【織機の動力が全て断たれました】

【──────────────────────────】

虚無が消えた。穴が塞がった。白い部屋が戻った。

ヴェノムが床の上に立っていた。見聞録のデータが回復していた。ステータスが戻っている。

ソラが降りてきた。

「生きてたのね。よかった」

「ああ……空っぽの中を歩いてきた」

「空っぽの中を歩ける人間は、そういないわよ」

「慣れてるだけだ。……どこかの旅人みたいにな」

ヴェノムは短く答えた。だが、その声は少しだけ温かかった。

チャットが入った。

トワ:「ヴェノム。五つ目の動力が断たれた。織機が止まった」

ヴェノム:「終わったか」

トワ:「ああ、全員が勝った。戻ってきてくれ」

ヴェノム:「行く」

ヴェノムとソラが通路を引き返し始めた。ヴェノムの足元に、金色の足跡が光っていた。微量だが、確かに光っている。

五つの動力が、全て断たれた。