作品タイトル不明
第百三話 とある競馬雑誌記者(西)
東のトレセンでの取材を終えた私は、翌日には西へ走った。
競馬記者に必要なもの。
一に体力。
二に推し馬が負けても取材先へ向かう精神力。
三に交通費の精算力である。
向かう先は、西のトレセン。
サニーボーイ陣営の取材である。
エクリプスが“黒き王”なら、サニーボーイは“太陽”。
日食を照らした馬。
エクリプスに初黒星をつけた馬。
さらには、その有馬記念でサニーボーイは引退予定だという話まで出ている。
こんな取材、燃えない方がおかしい。
「月刊最北競馬です。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしゅうお願いします」
土御門調教師が笑う。
関西の明るさを人の形にしたような人である。
この人にサニーボーイを預けた桜井さんの判断は、たぶん正しい。
馬と調教師は似る、とは言わない。
でも、空気の相性は確実にある。
そして。
「桜井さん、今日もよろしくお願いいたします」
「はい、よろしくお願いします」
桜井朔さんが苦笑している。
昨日会ったばかりですもんね。
この方も移動が大変だろうに。
いや、むしろ年齢を考えると私より大変では?
その横で、サニーボーイが「ブルルルルン!」と鳴いた。
全身から「俺を見ろ!」という雰囲気が出ている。
土御門調教師が横で笑う。
「サニー、今日は雑誌の取材やぞ。ちゃんとええ顔しぃや」
「ブルルン!」
サニーが胸を張った。
たぶん、いい返事をした。
たぶん。
私はさっそく質問に入った。
「有馬記念への出走予定は?」
土御門調教師が堂々と答えた。
「あるで。サニー自身もやる気満々や」
「ブルルゥ!」
やる気満々だ。
私にもこれはわかる。
『サニーボーイ、やる気満々。声量も満点』
思わず書いてしまったが、声量は記事に入れるべきか?
入れたい。
「有馬記念で引退予定というのは本当ですか?」
これは、ファンの間でもかなり大きな話題になっている。
ジャパンカップを勝ったばかり。
まだまだ走れるのではないか。
そういう声も多い。
しかし、引退という話が出ているのも事実。
桜井さんは、少しだけサニーボーイを見る。
「ブルルゥ」
サニーボーイの声はさっきまでより、少し落ち着いた声だった。
桜井さんは、ゆっくり頷く。
「その予定です」
クラシック二冠に加え、ジャパンカップまで勝った馬。
そのラストランが、エクリプスとの再戦。
なんだそれは。
物語が過剰である。
競馬の神様は、時々脚本家としてやりすぎる。
だが、それがいい。
私は、手帳に書く手を止めなかった。
「理由を伺っても?」
「我々も悩んだのですが、一番はサニー自身の意向ですね」
馬自身が。
そういう表現が自然に出てくるのが、この人なのだ。
土御門調教師も頷いた。
「まあ、こいつなら、引退後もなんやかんやで上手くやるやろ」
「ヒヒヒン!!」
「あと、『金の銅像を建てろ!』と言っています」
「なるほど??」
情報量が急に増えた。
金の銅像。
ジャパンカップ馬サニーボーイ、有馬記念後に金の銅像を要求。
載せていいのか。
いや、載せたい。
しかし、月刊最北競馬はまじめな競馬雑誌である。
『サニーボーイ、引退後の夢は金の銅像!?』
……駄目だ。
売れる。
私は読みたい。
「では、有馬記念に向けた意気込みは?」
そう聞いた瞬間、サニーボーイが待ってましたとばかりに鳴いた。
「ブルルン!」
元気。
圧倒的に元気。
桜井さんが笑う。
「サニーは『今回も逃げきってやるぜ!』と言ってます」
土御門調教師が大笑いした。
「言うてそうですわ!」
おお。
おおお。
いい。
とてもいい。
このわかりやすさ。
このまっすぐさ。
ああ、記事が書ける。
書けすぎる。
ページが足りない。
私は前のめりになった。
「桜井さんとしては、どちらを応援するか悩ましいのでは?」
これは、どうしても聞きたかった。
エクリプスも桜井牧場。
サニーボーイも桜井牧場。
どちらも桜井さんが馬主の権利を持つ馬。
片や、最強へ向かう黒き王。
片や、ラストランの太陽。
どちらを応援するのか。
いや、どちらも応援するに決まっている。
だが、聞きたい。
その葛藤を、読者は知りたい。
質問を投げると、サニーボーイがまた何か元気よく鳴いた。
「ブヒンブヒン!」
何か言っている。
たぶん「俺を応援しろ」と言っている。
いや、絶対言っている。
桜井さんは、今度は少しだけ困ったように笑ってから答えた。
「そうですねぇ、どっちにも無事に、楽しく走って、出来れば勝って欲しいですね」
…………。
「両方勝ってほしい」
「はい」
「でも、勝つのは一頭です」
「そうなんですよねぇ」
桜井さんが、本当に困った顔をした。
それが、すごく良かった。
欲張りで。
でも、競馬に関わる人間としては、たぶん一番まともで、一番贅沢で、一番本音の願いだ。
だから美しい。
いや、またポエムだ。
「……」
私は一瞬、ペンを止めてしまった。
ああ。
こういう人が馬主だから、こういう馬たちが育つのかもしれない。
強くて。
面倒くさくて。
騒がしくて。
でも、ちゃんとレースの真ん中に立つ馬たちが。
取材はその後も濃かったが、サニーボーイが最後に鳴いた。
「ブルルルン!」
桜井さんが苦笑する。
「『俺の記事は大きくしろ』だそうです」
「もちろんです」
私は即答した。
「『月刊最北競馬』、全力で大きく扱わせていただきます」
サニーボーイが満足そうに鼻を鳴らした。
かわいい。
私は深く頭を下げ、取材を終えた。
◇
帰りの新幹線の中で、私はノートパソコンを開いた。
エクリプスに会った。
サニーボーイに会った。
桜井朔という伝説の人に、二度も取材した。
しかも馬の通訳を聞いた。
これで原稿が書けない記者などいない。
今月号、絶対に面白くなる。
表紙はこうだ。
『最強か、太陽か。桜井牧場、有馬記念最終決戦』
少し煽りすぎか?
しかし煽らずにどうする。
読者が読みたいのは、まさにそこだろう。
最強の逆襲か。
太陽の有終か。
そして、その両方を見守る男の祈りとは。
うん。
完璧だ。
有馬記念。
サニーボーイのラストラン。
エクリプスの雪辱戦。
桜井牧場の血と、物語。
その全部が、年末の中山に集まる。
私は、静かにキーボードを叩いた。
――有馬記念は、ただの決着ではない。
――日食の名を持つ馬が、もう一度太陽を見る日だ。
――そして太陽の名を持つ馬が、最後にどこまで輝くのかを見届ける日だ。
――勝つのはどの馬か。
――それは、ゲートが開くまで誰にもわからない。
――ただ一つだけ、確かなことがある。
――今年の有馬記念は、きっと、伝説になる。
私は、そこで一度手を止めた。
悪くない。
かなりいい。
いや、良すぎる。
自画自賛はよくないが、今だけは許されたい。
競馬界への愛が、キーボードを走らせたのだ。
「……よし」
私はノートパソコンを閉じた。
今日の結論は一つ。
有馬記念は、絶対に現地で見る。
仕事として。
もちろん仕事として。
断じて、個人的に見たいからではない。
いや、個人的にも見たい。
ものすごく見たい。
でも、これは仕事だ。
競馬界の発展を願う記者として、私はこの一戦を見届けなければならない。
そして書かなければならない。
エクリプスが勝つのか。
サニーボーイが逃げ切るのか。
ゴールデンウイスキが割って入るのか。
あるいは、まったく別の馬が夢をさらうのか。
それはまだわからない。
わからないから、競馬は面白い。