軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四百四十三話 誰も分からなかった

『アアアアアアアアアッ!! 水……はあ、はあ、ミズ……ミズ……はあ、あ、あ、アアアアアアアアアッ!』

現在、世界の至る所で重い空気が広がっていた。

発展した大都市ですら人の声が聞こえないほどの静かな世界……いや、静かではない。空に流れているものだけしか声も音を発していない。

人々は寝ているわけではなく、起きている。

しかし言葉が世界の至る所から「空以外」から発せられない。

それは単純に、誰もが言葉を失っているからだ。

「あ……」

ある者は酒の肴に酔っ払いながら、好き放題空に向かって叫んで野次を飛ばしていた。しかし、もう誰もが酒を一滴も飲まず、温くなったグラスを持ったまま固まっている。

「お、おい……なん……で」

帝国騎士たちなど「こうすればいいのに」など上から目線で嘲笑していた。

しかし、もう誰も笑っていない。

むしろ顔を青ざめさせている。

「アース……くん」

かつての同級生たちも……

「アース……お、お前は……なぜ、ここまで……」

帝国の皇帝であるソルジャですら、それ以上の言葉が出なかった。

『水だ! 水! 水を! 水! ミズミズミズミズッ! アアアア!!』

発狂したように水分を求めるのは、ソルジャにとっては親友の息子。

しかもそれは、「水を飲めない」のではなく、「自らの意志で飲まない」という生活をしていた。

ひたすら、汗をかく。唾液を出す。走る。走る。走って走って走りまくり、その上で体内から失った水分を補給しようとしない。

その果てでアースの姿はすっかり変わり果ててしまっていた。

何不自由なく、食べる者にも困ることなく裕福な家庭で常に栄養バランスの整った食生活を送っていたアースが、今では頬はこけ、目の下にクマができ、全身が干からびたように乾燥し、重病患者のように生気を失った姿で、精神を幾度も崩壊しかけるほど発狂し……

『はあ、はあ……っ……つ、づける……はしってくる』

それでも尚も走っていた。

それは、もはや何のためにやっているトレーニングなのかは誰にも分からない。

しかし、誰もが分かったのは、アースは「極限」まで自分を追い込んでいるということだった。

『貴様、待て! むっ……随分と風貌が変わって……ふん。何かあったのか? 天罰でも下ったか? それとも呪いにでもあったか?」

『破廉恥男にはふさわしいみすぼらしさだ。ヨーセイ先輩に生意気な態度を取る身の程知らずが……』

『なんだ? どういうわけか知らないが、こんなに弱かったのか……クズめ……』

その途中、ヨーセイとその取り巻きの女の子たちなどに中傷され、傷つけられ、誰が見ても腸が煮えくり返るような怒りがこみ上げて当然だと思うような場面でも……

『あい、にく……相手を、して……やる気はねえ……どけよ』

アースは殴り返さない。ただ、それでも黙々と己のやると決めたことをやっていた。

その光景を目の当たりに、バカにしたり、見下したり、嘲笑したりしていた帝都民たちは、ただ顔を青くしながら黙って空を見続けていた。

そして……

『あ……あぁ……』

やがてその精神も完全に限界に達したと思われるアースは、街中で倒れ、そしてその瞳はすぐそばにある地面に撒かれている水を啜ろうとしていた。

それを見て、誰もが思った。

――なんだかよく分からない……けど、もう飲めよ!

もう十分だから、とにかく水を飲め。

もう見ている方もつらい。

そんなことして何を得られるか分からないけど、もう十分だろ。これ以上やったら死んでしまう。

だから、飲め。

誰もがそう思った。

そして、その気持ちと同じ者がアースの傍に現れた。

『地面に撒かれた水など飲まないでください。一度、教会へ戻りましょう』

『……さ、でぃ……す?』

『申し訳ありません。あなたが私にとってどのような方であったのか……私があなたに何をしてしまったのかをまだ思い出せませんが……それでも、もう今のあなたは見るに堪えません』

サディスだった。

記憶喪失でアースとの関係性を全て忘れてしまったサディスだが、それでもなお今のアースを見ているのが耐えられないと、その瞳に涙が浮かんでいた。

『あなたの様子を気にしていました。何日も何日もあなたを……ですが、あなたが何を目指し、何を想い、どうしてこうしているのかは分かりませんでしたが……あなたはもう、『よく頑張りました』。それは、あの教会や道場の方々もそう思っているはずです。どうか、これ以上苦しまないで下さい』

そして、たとえ記憶を失っていたとしてもサディスの言葉なら……

二人を知っている帝都民たちは誰もがそう思った。

しかし、

『……サディス……もう、十分だ……』

『え?』

『だから、まだ大丈夫……だ』

逆だった。

アースはサディスの言葉で目が正気に戻った。

だが、水を拒否したのだった。

それは、誰もが予想していなかったものだった。

『俺が何を……頑張っ……るか……分か……ねえのに……かん、たん、に……言うな。しん、ぱい、い……らねえ。まだ……がんばっ……途中だ』

カラカラに乾き切った体でありながらも、その目に再び生気と闘志が宿っている。

『見ていろよ……見せてやる、から……俺を』

そう言って、アースは再び走り出した。極限と限界の更に先へ。

もはや、根性がどうとかそういう次元を遥かに超越した、常軌を逸した世界。

そして……

『俺は……勝てなかったけど、一生懸命頑張ったね……なんて慰めはいらない! 勝ちたい! 俺が勝つなんて思ってねえ奴らに、見せつけてやりたい!』

「「「「「ッッッ!!!???」」」」」

アースが叫ぶその言葉が、帝都民たちを震え上がらせた。

「過酷な戦争を体験した者や、それを乗り越えた経験を心の支えにしている奴らがいる……『あの地獄を潜り抜けた自分たちからすれば』……と。貴様ら人間たちもそうであろう? だからこそ、そういった経験をしていない今の若い世代は……『不甲斐ない』と見下す」

ワインでも飲みながら優雅に面白いものを楽しんで見よう……そう思っていたハクキですら、いつの間にか酒を飲まずに真剣な眼差しで空を見上げていた。

「しかし……戦争という時代や環境で『強制的に飲み食いが断たれる』のと、自由に飲み食いできる環境にいながら『自らの意志で全て断つ』のでは、また話が変わってくる。誘惑に負けない鋼の精神が必要とされる……まぁ、そもそも何故このような鍛錬をしているのかは未だに意味不明だが……あの小僧は自ら地獄に飛び込んで、ある目的を持って何かを掴もうとしている……ふふふ、アース・ラガン。お前は何を掴もうとしているのだ?」

アースの姿を目に焼き付け、その上で冷静に分析しようとするも、ハクキの言葉に自然と熱がこもっていった。

いつしか、暇つぶしを通り越し、ただただ先が気になって仕方ないという様子。

一方で……

「ひっぐ、うう、うっ……アース……あんたは……こんなに……こんなになるまで……うっ、うう……」

その傍らで母親であるマアムはただ涙を流して嗚咽。

もはや全身の水分を失って枯れ枝となってしまった我が子の変わり果てた姿。それでも尚も何かを成そうとトレーニングを続けるアースの姿に、涙が止まらなかった。

「俺には……できねえ……こんな……こんなのできるはずがねえ!」

一方でヒイロもまた涙を浮かべながらも、唇を噛みしめてアースの姿を見ていた。

「俺だって戦争で腹が減って死にそうになったことぐらいある……メチャクチャ特訓したことだってある……でも、でも……こんな……こんな……黙々と、途中で誰かに笑われプライドを傷つけられても……もう十分だと優しく諭されても……何も言わずにただ……走るなんて……ああ……アース……お前……」

そして、同時にヒイロはあることを思い出した。

それは、アースと一度再会したとき、ヤミディレも交えての追いかけっこ。

それでも捕まえられずに振り切られた時だ。

ヒイロとマアムはアースの足さばきに翻弄された。

――お前は……この数ヶ月……どんだけ走ってきたんだ?

あの時の問いにアースは答えなかった。

しかし、今、その答えが分かった。

死ぬほど走ってきたのだ。

――俺、ど、どうだった? 強くなったんだ……俺、いっぱい、いっぱいさ……

――バカやろう!

――ッ!?

――何が強くなっただ……強くなるためだったら、何でもいいのか?

そして、もう何度目か分からないほど、自分のかつての発言に後悔しかなかった。

――大体、今の俺の何が悪かった? 俺は反則も、セコイ手も何もしていない! 自分が訓練して身に付けた、俺の力で戦っただけだろうが! それで、何でそんな目で見られなくちゃいけねーんだよ! 俺が壁にぶち当たって、ハズレの2世だとか、物足りないとか言われているのもずっと知らん顔してたくせに……そんな俺がようやくここまで来たってのに……なんでだよ!

きっと御前試合の前もアースは走っていたのだ。

それなのに、その努力を何も知らず……

『あれ……なんだろう? これ……何かが……』

「?」

そのとき、ひたすら走っていたアースが足を止め、己の体に何か異変を感じたのか首を傾げている。

ヒイロもマアムも伏せていた顔を上げた。

何かあったのか?

そう思ったとき……

「な…………ッッ!!!??? な、なん……なんだと!」

「「ッッ!?」」

そのとき、ハクキが大声を上げて立ち上がった。

全身を震わせ、明らかに動揺して震えた様子で空を見上げている。

「ば、ばかな……ブレイクスルーで空っぽになった肉体に……魔力が再び……」

「え? ……あ……」

「え? あっ、ほんと……なんで?」

ハクキの驚愕に、ヒイロとマアムもハッとなって気づいた。

それまで、毎回走る前にブレイクスルーで体内の魔力をゼロにして走っていたアース。

普通、ゼロになった魔力は時間と共に自然と回復する。

しかし、これは明らかに……

「ほ、ほんとうだ。何でだ! アースの体にどんどん魔力が取り込まれている……」

「うそ! だ、だって、失った魔力がこんなに短時間で回復するはずは……あれ? でも、ああやって魔力が回復するの……昔……どこかで……」

それは、ヒイロとマアムにすらも理解できない現象だった。

ただでさえ分からない息子のことが、ここに来てまた自分たちの分からない何かをやっている。

そしてそのとき……

「まさか……これを習得するために……い、いや、そもそもこうやって習得するものなのか? いや、それをなぜ……なぜ分かる! 何故知っているのだ!? テキトーではない! 明らかに目的を持ち、確信を持って……そうでなければ、命を極限まですり減らすような鍛錬に身を投じるなど……アース・ラガン……貴様は一体!」

ハクキが激しく取り乱して、疑問を空へ叫んだ。