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作品タイトル不明

第三一話 荀彧の謀略

その日の夕暮れどき、許都にある 荀彧(ジュンイク) の屋敷に、商人らしき男が足を踏みいれた。荀彧と懇意にしている商人は多いので、めずらしい光景ではない。注目する者がいるとしたら、せいぜいが自分もあの屋敷に呼ばれたいと願う、同業者ぐらいであろう。

屋敷の主人が部屋に入ってくるなり、男はひざまずいた。

「ただいま 冀州(キシュウ) より、もどりました」

男は、商人のふりをした荀家の家人であった。

当主に命じられて、袁紹の本拠地である鄴にいき、間諜にあたっていたのである。

「よい報告をもちかえることができました」

「うむ」

「 審配(シンパイ) が、 許攸(キョユウ) の家族を処刑しました」

報告をうけて、荀彧は 涼(すず) やかな 眸(ひとみ) を光らせた。

審配は冀州閥の中心的な人物のひとりであり、 傲慢(ごうまん) 、 奢侈(しゃし) な性格であるゆえに、荀彧が謀略の対象としている人物のひとりでもあった。

「そうか。よくやってくれた」

「はっ」

敬意と 憧憬(しょうけい) のまなざしで主人を見あげて、男は報告をつづける。

鄴でおこなった工作とその結果を、 細大(さいだい) もらさず伝えると、

「協力してくれた冀州の民にも、厚い手当をお願いいたします」

「むろんだ。長旅で疲れただろう。いまは体を休めるといい」

「ははっ」

男は深々と頭をさげた。

男が退室すると、荀彧は冷ややかな夜気に、安堵の息をはきだした。

「……どうやら、うまくいったようだな」

袁紹との開戦前、曹操と参謀たちは、両陣営の強みと弱みをさまざまな角度から分析した。

兵力で劣る曹操軍は、正道では不利であった。それはもとよりわかっていた。

問題にあがったのは、詭道においても不利に立たされるであろうことだった。

両陣営の差は、間者の差にあった。

間者は、その地方出身者でなければ目立ってしまう。方言があるからだ。十全に動くには、現地に根ざして生活している者のほうが、なおよいであろう。

袁紹陣営には、曹操の本拠地である潁川の名士が多くいた。

対して、曹操陣営には、冀州に地縁のある人物が皆無ではないにせよ、ほとんどいなかったのである。

地縁と人脈の差が、間者の質と人数の差につながると危惧された。

昨年、その差を埋めるために、曹操は黎陽に攻めこんだ。

冀州の民をさらい、見込みのある者を選抜して小金をあたえ、さらなる報酬を約束した。

漢室を 匡輔(きょうほ) する司空・曹操が語りかけるのだ。

ただの武将とは威光がちがう。約束の重みがちがう。かててくわえて、曹操の人を見る目は抜きんでている。

このように強引な手法を用い、みずから動くことで、曹操は謀略戦の手足ともいうべき間者の差をおぎなったのであった。

その後、袁紹軍は曹操軍を追いはらい、連れ去られそうになった民をとりかえした。

袁紹は気をよくしていただろうが、そのなかには、曹操軍の間者となった冀州の民が、大量にふくまれていたのである。

一年前を思い出して、荀彧はかぶりを振った。

「まさか間者を仕込むために、軍を動かすとはな……。曹操さまも、思い切ったことをなさる。それだけ追いつめられていた、ということでもあるが」

提案したのは郭嘉だった。曹操以外の人物なら、まず却下していたであろう非常識な手段だった。どれほど非常識でもかまわなかった。なんとしても、詭道で優位に立たなければならなかったのだから。

間者をあやつるのは、前線で軍を指揮しなければならない曹操ではなく、荀彧の役目である。

荀彧は鄴城内に、毒酒をついでまわった。

強欲で犯罪 癖(へき) がある許攸の家族には、違法なもうけ話をささやいた。

そのもうけ話に乗った許攸の家族は、収監された。

彼らは、審配の利権に手をつっこんでしまったのだ。

そこは審配が巨万の富を築くためにつくりあげた、犯罪組織の縄張りだったのである。

激怒した審配に、荀彧はさらなる毒杯を用意する。

審配の周辺に、まことしやかな噂が流れはじめた。

「袁紹さまが帰還したら、許攸の家族は、審配さまの罪を告発するだろう」

「冀州閥の力を削ごうとしている袁紹さまのことだ。審配さまへの処罰も重くなるのではないか?」

「これを機に、たくわえた財貨も没収されてしまうにちがいない」

「許攸の家族を生かしておいたら、審配さまは……」

己の身を守るために、審配は許攸の家族を始末してしまった。

許攸は、袁紹に冷遇されている。

審配にしてみれば、許攸ごときに配慮してはいられなかったろう。

「ふふふ。審配には後先を考えない面がある。軍政家としての手腕は、それなりにあるのだろうがな」

荀彧は満足げに独白した。

これで、許攸は袁紹を見限るだろう。

荊州南陽郡出身の許攸は、あの袁術をして「 貪婪淫蕩(どんらんいんとう) にして不純」といわしめた男である。

袁紹に仕えているのも、利益を計算してであって、忠義によるものではない。

それがわかっているから、袁紹も彼を 疎(うと) んじているのだ。

主君からは嫌われ、冀州閥からは敵視され、家族まで殺された。

もはや許攸は、袁紹陣営にいる利を見いだせまい。

「許攸は知恵のまわる男だ。自分を高く売りつけるには、どうすればいいのか。ちゃんと理解しているはず……」

許攸は曹操に寝返る。

曹操がもっとも欲している情報をたずさえて。

許攸が計算高い人物だからこそ、荀彧は確信していた。

荀彧は書斎に入ると、漆塗りの椅子に腰をおろした。

曹操に手紙をしたためるべく、机の引出に手を伸ばす。

指先がまっさらな紙に触れたところで、思いなおしたようにその手をとめて、紙のかわりに、一通の文をとりだした。

先日、孔明が送った手紙であった。

荀彧の視線は、その手紙の最後の一文にとまっている。

『こたびの戦は、 即墨(ソクボク) の戦いのように、官渡の戦いとして歴史書に記されるのであろう。袁紹陣営に 楽毅(ガクキ) のような人物がいないことを、よろこぶべきなのか、それとも惜しむべきなのか……』

即墨の戦いとは、五百年ほど前、燕が斉に侵攻した大戦である。

伝説の名将・楽毅は、この戦いで燕軍の総大将を任されていた。

袁紹軍に楽毅のような人物がいないのは、もちろん、よろこばしいことにちがいない。では、なぜ惜しむべきなのか?

一見すると、「難敵に勝利してこそ、輝かしい勝利として歴史に刻まれる」という意味にもとれるが、そうではなかった。

孔明はなにを伝えようとして、このように書いたのか。

その意図を正しくうけとるには、即墨の戦いの 帰趨(きすう) を知らねばならない。

――楽毅が指揮する燕軍の攻勢はすさまじく、七十あまりの城を落とされた斉には、 莒(キョ) と即墨の二城だけしか残されていなかった。

斉軍がこの二城に籠城して、粘り強く抵抗しているうちに、燕の昭王が没して、その子が王位を継いだ。あらたな王・恵王は、太子のころから楽毅と仲が悪かった。

即墨を守る将・ 田単(デンタン) は、ここに勝機を見いだした。楽毅に敵わないのなら、楽毅とは戦わなければよい。狙うべきは、即位したばかりの恵王である。

燕の都に、つぎのような噂が流された。

「七十もの城を簡単に落とした楽毅が、どうしてわずか二城を落とせずにいるのか。楽毅は長い時間をかけて、斉の人心を掌握しようとしているのだ。いずれは燕から独立して、斉王になるつもりにちがいない」

流言を真にうけた恵王は、楽毅を解任して帰還を命じた。

ところが、楽毅は国に帰れば殺されると判断して、趙に亡命してしまう。

偉大な司令官を失った燕軍は、斉軍の猛反撃をうけて連戦連敗。ついに、斉の国土から追い出された。

こうして斉は、燕にうばわれた七十あまりの城をとりもどしたのである――。

即墨の戦いにおいて、流れを変えたのは謀略だった。

楽毅を離反させることで、斉は勝利をつかんだのだ。

つまり、「袁紹軍から離反者が出るよう、離間策を用いよ」と孔明は助言しているのである。

直接的な言葉を使わず、ちがう意味にもとれるよう、ぼかして書いたのは、手紙の流出を警戒してであろう。

荀彧はくつくつと笑った。

「あいかわらずの 慧眼(けいがん) 、おそれいるよ」

孔明は、すべて見透かしているだろう。

袁紹陣営の不和が、深まっていることも。

曹操が、袁紹軍の兵糧庫に狙いをつけていることも。

そして、兵糧の重要性がいや増すこの時期、離反者が兵糧庫の場所を手土産にするであろうことも……。

荀彧は椅子の背もたれに体をあずけると、左手で右肩をもみほぐした。

「やれやれ。これでどうにか、皆の期待にこたえられたかな……」

建安五年十月の頭、官渡城の城門にむかって手を振る、あやしい騎影があった。

曹操軍の兵士が城壁の上から 誰何(すいか) すると、その男は曹操の旧友、許攸であると名乗り、投降したいと大声で告げたのであった。

荀彧から連絡をうけて、この日を待ちわびていた曹操は、さっそく幕僚をひきつれて、許攸と面会した。

諸手(もろて) をあげて歓迎したいところだったが、荀彧の策謀を、許攸に 気取(けど) られてはまずい。

曹操は開口一番、あえて疑いの言葉を投げかけた。

「わが軍に投降すると聞いたが、偽りではないだろうな?」

さも心外そうに、許攸は両手を軽く広げて、首を振った。

「まさか。そもそも、私は君と戦うことに反対していたのだ。だが、袁紹は私の言葉を聞き入れてくれなかった」

「ほう」

「案の定、袁紹の思うように戦は進まなかった。なのに、彼はまだ兵を引こうとしない。戦が長引けば、苦しむのは民だろう? 身勝手な袁紹に、ほとほと愛想が尽きたのさ」

裏切り者は、臆面もなくいってのけた。

「ううむ。……しかし、余にはまだ信じがたいな。君と袁紹は 奔走(ほんそう) の友ではなかったか?」

「それをいうなら、私と君は幼なじみであろう」

「それもそうだ」

曹操はようやく笑顔をみせた。許攸もぎこちなく笑って、

「案内される途中、城内の様子を観察させてもらった。新型の投石機に、士気の高い将兵たち。十万の袁紹軍を相手に、善戦しているのもうなずける」

「うむ。そうであろう」

「だからこそ、残念でならないな」

「残念? なにが残念なのだ?」

「君の軍は、袁紹の大軍を相手にしても負けないのかもしれない。しかし、惜しいかな。それは戦をつづけることができればの話だ」

「どういう意味であろうか?」

「河北を支配する袁紹が、兵糧の確保に苦心しているのだ。君も同じ悩みを抱えているのではないか?」

「むむっ」

「苦しくないはずがない。 兗州(エンシュウ) を袁紹にうばわれ、残る領土とて戦乱で荒れはてていよう」

「…………」

許攸が指摘した問題を、曹操は克服している。

反乱は早期に鎮圧できたため、収穫や税のとりたてに、大きな支障は生じなかった。農業政策の成果も、年々着実にあがっている。とくに、新型農具の普及と流民の定住が進んでいる洛陽盆地は、董卓以前の生産力をとりもどしていた。

許攸の背後で、郭嘉がぺろりと舌を出したのを見て、曹操は判断する。

正確な情報は、伝えなくともよいであろう。

なにも、この男に誠実に接する必要はないのだ。

欲しいのは許攸がもつ情報であって、心ではなかった。

「ううむ。まさしく、君のいうとおりだ。兵たちの前でこそ強気にふるまっているが、正直にいうと、わが軍の糧食は心許ない。冬を越すどころか、ひと月もつかどうか……」

「ふむ。やはり、そうだったか」

「しかし、決戦を挑むわけにもいかぬ。総力をぶつけあえば、最後に立っているのは、兵力で勝る袁紹であろう」

「ふふふ」

「なにがおかしい?」

「いやなに。総力戦などせずとも袁紹に勝つ方法を、私は知っている」

許攸は得意げに鼻の穴をひくつかせた。

「おおっ、これは心強い男が仲間になってくれた。ぜひ君の機知をもって、わが軍を救ってほしい」

曹操にもちあげられると、許攸は、自分を大きく見せるかのように、胸をそらした。

「なに、簡単なことだ。君の軍よりもさきに、袁紹軍の兵糧が尽きればいいのさ。袁紹軍の兵糧庫は 烏巣(ウソウ) にある。烏巣をたたけば、袁紹軍は数日のうちに瓦解するであろう」

烏巣の守備兵は一万五千、大将は 淳于瓊(ジュンウケイ) という話である。もともとは一万だったが、烏巣の守りに不安をおぼえた沮授が、二万に増員するよう袁紹に上申して、その案が半分だけ採用されたそうだ。

敵地の現況を許攸から聞きだすと、曹操はすぐさま出撃の準備を命じた。

おもだった武将たちが準備を急ぐなか、古参の将・ 楽進(ガクシン) は、曹操の前にいき、まなじりを決して直言した。

「許攸なる男は不実の塊であります。これが曹公を誘い出す、袁紹の奸計であったならば、どうなされるのです」

実直な、力強い眸に見すえられ、曹操は揺らいだ。楽進のような男は、曹操の心をたまらなくくすぐるのだ。許攸が寝返ったのは調略の成果なのだと、うちあけてしまおうか。だが、どこからか、それが許攸にばれるかもわからぬ。烏巣につくまで、秘密を知る者は少ないほうがよかった。

「余は許攸を信じる。おぬしにまで許攸を信じろとはいわぬ。だが、いまは余の判断を信じてくれ」

衝動をおさえこんで、曹操はおだやかな声でいった。

「許攸は烏巣まで同行する。もし、彼の言葉が偽りであったならば、おぬしの剣で許攸の首をはねるがよい」

ここまでいわれては、引きさがるしかない。

楽進はうやうやしく一礼して退出し、出撃の準備にむかった。

許攸に不信の念を抱いたのは、ひとりではなかった。

その者らは命令にしたがい、出撃の準備を優先させたのちに、楽進と同じ内容の進言をした。

首をそろえてやってきた彼らを、曹操は一喝した。

「これぞ余が待ちのぞんだ好機、天があたえたもうた好機である! などてためらうことやある!」

とうに日は沈み、出撃のときは間近にせまっていた。しかも、その号令をいまかと待つ兵士たちの眼前であったから、彼らの行動はまったく機を逸していたのである。

思慮がたりない部下たちをしりぞけると、曹操は馬に乗って、城門の前に進みでた。右手を高々とかかげて、将兵たちの注目を一身に浴びる。

「いまや袁家の命運は、わが手中にある! われにつづけ! 曹家の 兵士(つわもの) どもよ!」

曹操は大音声で呼びかけるや、馬首をめぐらして、城門の外へと駆けだした。

思わぬ事態に、部下たちは目を丸くした。あろうことか、総大将がまっさきに飛びだしてしまったのである。呆気にとられようが、泡を吹こうが、遅れてはならなかった。

主君を追いかけ、曹操軍一万騎は、 黒闇々(こくあんあん) たる夜のなかに飛びこんでいった。