作品タイトル不明
第一八一話 じじい乱舞
燭台(しょくだい) の弱々しい灯りに照らされた一室に、十人ほどの男が集まっていた。許都の宮中、男性でも出入りできる 外廷(がいてい) と呼ばれる区域の一室である。
「今夜が正念場だ」
最奥に立つ老人―― 吉本(きつほん) がしわがれ声で告げる。
「 王必(おうひつ) が自分の屋敷に帰っている。丞相府よりも警備はゆるい。この機を逃してはならん」
「ついに決行するのですな。ならば夜明けまでに片をつけなければなりませぬ」
と 韋晃(いこう) が応じた。しずかな声には、しかし冬の冷気を寄せつけぬ熱量があった。
指揮官の王必を拘束するなり殺害するなりしてしまえば、許都の曹操軍は混乱して動けなくなる。
もちろん、一時的な混乱にすぎないであろうが、その空隙をつく以外の方法は、吉本たちには残されていなかった。
「ここに、陛下の 詔(しょう) がある」
吉本が 絹布(けんぷ) ―― 帛書(はくしょ) を懐から取りだし、広げてみせた。
「曹操を 罷免(ひめん) し、荀彧どのをあらたな丞相として朝政を執らせる。あわせて許都と 豫州(よしゅう) の兵権を我らにあずける、とのお言葉である」
朝廷を奉じる彼らにとって、その帛書は、まさしく天の声に等しい。
畏敬の念に打たれ、ある者は唾を飲みこみ、ある者は目を輝かせた。
士燮(ししょう) が感嘆の息をついて、
「なるほど……。どちらつかずの荀彧どのをどうやって味方に引き入れるのか。これが吉本どのの奥の手でございましたか」
「ふふふ、天子の詔とあらば、荀彧どのも嫌とはいえぬ。曹操軍の横槍も入らぬ」
吉本はしたり顔で笑った。
仮に、荀彧が曹操に義理立てするようであれば、数日間、彼を軟禁して説得をくり返す。そのあいだに、荀彧の名を借りて、吉本たちが動きまわればよい。
漢朝の権威と荀彧の名声が合わされば、許都を占拠するどころの話ではなかった。
まず確実に、 潁川郡(えいせんぐん) は支配できる。その流れは豫州から全土に波及し、曹操が支配する 冀州(きしゅう) においてすら、朝廷に味方する勢力があらわれるであろう。
そこまでいってしまえば、曹操は荀彧をけっして許さぬであろうし、両者の関係は修復不可能となる。荀彧も曹操と対立する以外に道はあるまい。
男たちが小声で話す。
「その荀彧どのはどこにいるのだ?」
「たしか、今夜はここに泊まりこむ日だったと思うが」
「先ほどお会いしたぞ」
荀彧が彼らと同じ外廷にいることを、もちろん吉本は把握している。
「誰ぞ、荀彧どのをこの部屋につれてきてくれぬか。用件は伏したままでだ」
「ならば、わしがつれてまいろう」
士燮が名乗りでた。
吉本がうなずいてみせると、士燮は一礼し、きびすを返した。使命感がそうさせているのか、退室する老人の足取りは軽快で、老いをまったく感じさせなかった。
「もうひとり、実働部隊への連絡役は――」
「それでは、私が」
吉本の言葉をさえぎって、韋晃が名乗りでた。
「実働部隊を率いるのは、吉本どののご次男でしたな」
「うむ。頼んだぞ」
韋晃が退室すると、吉本は枯葉のようにうすくなった唇に小さな笑みを浮かべた。
士燮と韋晃には 九卿(きゅうけい) の座を約束してあった。
ことが成就すれば、彼らも栄達は思いのままである。
吉本自身はというと、官職などもとめていない。
漢朝再興の名臣として 青史(せいし) に名を残す、という気持ちは否定できないが、彼が策謀をめぐらせているのはあくまで漢朝のためであり、皇帝 劉協(りゅうきょう) の身を案じているからである。
劉協は九歳で即位して以来、 董卓(とうたく) 、 李傕(りかく) 、曹操と奸臣に実権を握られ、形だけの天子として生きてきた。
「なんとお 労(いたわ) しい」
吉本は奥歯を噛みしめた。
荀彧であれば、天子をないがしろにはしまい。指導力と政治力においても、彼は曹操に対抗しうる唯一の男である。
ただし、一点、不安なのは荀彧と曹操の関係性である。
荀彧は漢朝の臣であるが、曹操の覇権をささえてきた人物でもあった。もし、荀彧が曹操との敵対をさけようとし、煮え切らぬ態度をとるようであれば。彼に代わって、吉本が宰相となる必要があるかもしれない……。
いかに忠臣であろうと、私心をすべて捨てさることのできる者がどれほどいようか。吉本の胸中で、忠義の 殻(から) におおわれていた欲求が鎌首をもたげはじめたとき、荀彧を呼びにいっていた士燮がもどってきた。
「士燮どの? その者たちはなんだ!?」
吉本は目を見ひらき、詰問の声をあげた。動揺が声を揺らしている。
士燮がつれてきたのは、荀彧ではなかった。
彼が背後にしたがえているのは兵士たちである。
それも 衛士(えいし) ではない。曹操軍の兵士のようであった。
「なんだと聞かれたら、答えてやろう」
士燮ではない、別の声が返ってきた。
兵士の列が左右に割れ、声の主が姿を見せる。
そこにいたのは、王必であった。
「げえっ!?」
吉本の顔から一気に血の気が引いた。乾いた唇は引きつり、見ひらかれた両眼は底知れぬ絶望に染まっている。
「ふふふ、どうした吉本。私に用があるのだろう? わざわざ出向いてやったのだ。歓迎してほしいものだな」
そう王必はいうと、思わせぶりに士燮に目配せをした。
「し、士燮! 貴様、裏切ったな!」
吉本はなじった。運命に見放された者の、悲痛な叫びであった。
「裏切ったのではない。 謀(たばか) ったのだ」
士燮の目には嘲笑がにじんでいる。
彼は、荀彧の密命を受けて吉本一派に潜入していたのであって、吉本の志に賛同したおぼえはなかった。
「吉本よ、とんだお笑い者であったな。貴様の深慮遠謀ぶりには、わしも笑いを押し殺すのに必死であったわ」
鼻で笑う士燮を、吉本はにらみつけた。だが、その視線にもはや力はない。
吉本たちは蒼ざめ、立ち尽くすばかりである。
彼らをざっと見まわし、王必は勝利を確信した声で命じた。
「この場に集まっている者を拘束せよ!」
一斉に、兵士たちが室内になだれこんだ。
荒々しい足音と甲冑のすれる音が、弱々しい抵抗をのみこんでいった。
そのころ、許都の 外城内(がいじょうない) の一角にある大きな屋敷の中庭で、吉本一派の実働部隊は決行のときを待ちわびていた。
人目を引かぬよう、かがり火は 焚(た) かれていない。
燭台のわずかな灯火だけでは闇は晴らせず、肉眼で人数を数えるのは困難であったが、ひしめく男たちは三百人にも達していた。
兵卒の姿もあるが、その多くは 破落戸(ごろつき) や農民のようである。
屋敷を訪れ、中庭に足を踏み入れた韋晃は、目当ての人物をさがしあてて声をかけた。
「 吉穆(きつぼく) どの、準備はできているようだな」
韋晃と同年代の男が、神妙な顔でうなずいた。吉本の次男、吉穆である。
「今夜決行する予定だと、父から聞いている。宮中の様子はどうなっている?」
「士燮どのが、荀彧どのを呼びにいった」
「そうか、動きはじめたか。ことは同時に起こさねばならない。我々も動くとしよう」
吉本の陰謀がついえたことを知るよしもなく、吉穆は堂々と歩きだした。
正房(しょうぼう) の階段をあがると、燭台の灯りが彼の全身を浮かびあがらせる。
吉穆は振り返り、階下に集まった手勢を見おろした。
お世辞にも練度が高いとはいえないが、丞相府をはなれた王必を襲撃するには十分な人数である。
「諸君、いよいよ決行のときがきた。漢朝再興のときである」
人々の視線を一身に浴びるなか、吉穆は腰の剣を抜くと、その刃を高く掲げた。
「我らの狙いは王必の身柄である。捕縛できれば最良だが、できぬようであれば殺害してもかまわん。絶対に逃しては――」
吉穆の演説は、強制的に中断させられた。
人々は見た。その瞬間を目撃した。
吉穆の左耳の下あたりに矢羽根が突きたち、右の首筋から 鏃(やじり) が突きでている。
それまでの力強い姿が幻であったかのように、吉穆は崩れ落ちた。
なんの意思も感じさせない、人形のような倒れかたであった。
「吉穆どのッ!?」
韋晃は階段を駆けあがった。
倒れた吉穆の横に膝をつく。
ふたたび、人々は目撃した。
二本目の矢が寸分の狂いもなく、韋晃の首をつらぬいたのである。
吉穆同様、韋晃の身体も力なく崩れ落ちた。
ふたりとも、ぴくりとも動かない。
彼らの生死を確かめようとする者はいなかった。
絶命しているのはあきらかであったし、近寄った者がつぎの死者となるのもあきらかであった。
おそるべき技量であった。
一矢一殺、たった二本の矢で、ふたりの人間を死に至らしめたのである。それも、もがき苦しむ間すらあたえずに!
矢の飛来した方向に、人々の視線は集中した。
隣家の屋根の上に、弓を手にした人影がある。
その人影が、人々を見おろし、 大音声(だいおんじょう) を発した。
「賊徒どもッ! 貴様らはすでに包囲されているッ! おとなしく縄につけぇい!!」
老人特有の枯れ声である。
「この 黄漢升(こうかんしょう) 、手向かう相手に容赦できる男ではないぞッ!!」
黄漢升―― 黄忠(こうちゅう) の 雷喝(らいかつ) が、夜の底にひびきわたると同時に、南の正門が破られ、曹操軍が突入してきた。
鍛えあげられた正規の軍勢である。
不意打ちを前提として集められた賊徒たちが、正面から戦える相手ではなかった。