軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第一六一話 スパイと麒麟児

許都の屋敷の一室に男たちが集まっている。その一室は屋敷の奥にあった。

とりたてて厳重な警備がしかれているわけではない。だが、近づく者はおらず、そこだけ都の喧騒から切りはなされたかのように、ひっそりと静まり返っていた。

燭台のかぼそい光を受け、四つの人影が壁に映しだされ、かすかに揺らめいている。老人がふたりに、壮年、そして青年の四人の影である。

青年の影が動いて、謝罪を述べた。

「申し訳ございません。孔明先生と鍾繇さまをお誘いしたのですが……」

恐縮する青年、 郭玄信(かくげんしん) に、老人のひとりが応じる。

「おぬしが謝ることも、恥じ入ることもない。もとより、彼らを味方に引き入れるのはむずかしいと考えておった」

老人は、 太医令(たいいれい) の 吉本(きつほん) といった。太医令とは宮中の医官を統括する官職であり、その仕事柄、吉本は皇帝 劉協(りゅうきょう) に最も近い人物であった。

「恥じ入るべきは、漢朝から受けた恩を忘れて、曹操におもねる忘恩の 輩(やから) だ。とくに最近の若者は、曹操の下で出世することしか考えていない」

壮年の男、 韋晃(いこう) が憤慨を吐きだした。

吉本は、経典を読みあげるかのような口調で、郭玄信に語りかける。

「そのような恥知らずにひきかえ、おぬしには見どころがある。漢朝への忠節を重んじるその姿勢を、天はかならずや祝福してくださるであろう」

「はっ、ありがとう存じます」

うつむき加減だった郭玄信が顔をあげると、韋晃は青年から視線を外して、

「それにしても、惜しい人を亡くしましたな。荀攸どのは仁智にすぐれた人物でございました」

韋晃の荀攸評はきわめて妥当なものであった。異を唱える者はほとんどいないはずであったが、吉本は、加齢によってたるんだ口元に、嘲笑を浮かべた。

「荀攸どのは、曹操に魏公となるよう勧進した人物のひとりでもある。曹操にすり寄ったあげく、その戦に参軍して命を落としたのだ。自業自得といえよう」

「天意にそむいた報い、ですか。……当然の末路かもしれませぬな」

韋晃がうなずくと、さらに荀攸をこきおろすかのように、吉本は別の人物を持ちあげた。

「その点、荀彧どのの忠心は、見あげたものよ。 伏皇后(ふくこうごう) の刑死こそふせげなかったが、皇子たちのお命を見事に守り抜いてみせた」

「とはいえ、荀彧どのにそれとなく誘いをかけても、 董承(とうしょう) の二の舞になるだの、天子のお立場が悪くなるだの、反応は思わしくありませぬ」

韋晃は、いかにも残念そうに首を横に振った。

吉本もため息をついた。

「いたしかたあるまい。荀彧どのの動向には、曹操も目を光らせていよう。うかつな動きを見せれば、曹操に殺されるだけだ」

室内に漂う重苦しい空気を振り払うように、もうひとりの老人が口をひらく。

「曹操を排除するためにも、その後の混乱をしずめるためにも、荀彧どのはなんとしても味方にしておかなければなりませぬぞ」

交州から逃れてきた 士燮(ししょう) である。

曹操を排除する。これほど困難なことはない。荀彧の声望と政治力を欠いたままでは、成功する可能性はきわめて低いように思われた。

「曹操の支配にほころびが生じて、許都の監視がゆるみさえすれば、荀彧どのも、きっとこちらにくみしてくれるであろう」

と、韋晃が士燮の言葉に賛同した。

「曹操の次の狙いは漢中だという。 秦嶺(しんれい) 山脈を越えて漢中に足を踏み入れたなら、もどってくるにも時間がかかる。我らがことを起こすのに、これ以上の好機はあるまい」

老人とは思えぬ精力的な声が、吉本の唇から流れでた。

その力強い声に、韋晃は、ぎょっとしたような顔で 反駁(はんばく) の声をあげる。

「時期尚早ではありませんか? 許都の同志は、皇子たちの幽州行きに同行したことで、二分されてしまった。劉備・劉璋・孫権といった外部の味方への根まわしも十分ではないし、あろうことか、劉備と劉璋は、このような危急存亡の 秋(とき) に争っている」

「韋晃どの、もはや悠長にはしておれんのだ。曹操は、自分の娘を皇后に立てた。いつ陛下が 弑(しい) されてもおかしくない」

吉本は、苦々しげに顔をゆがめた。

皇子たちが遠い幽州に追いやられたいま、皇帝が崩御すれば、朝廷の主人となるのは皇后となった曹操の娘・ 曹節(そうせつ) である。漢朝に忠誠を捧げる人々にしてみれば、これほど耐えがたいことはなかった。

「たしかに、吉本どののいうとおりです。もはや猶予はない。だが、いまの我々の手勢だけでは、あまりにも力不足では?」

問いかける韋晃の声も、切実そのものであった。

「許都で蜂起したところで、我らに勝機はなかろう。だが、地方ならばどうだ?」

吉本はぎらりと目を光らせた。

老いを感じさせぬするどい眼光に、韋晃は息をのんで、

「地方となると……幽州でしょうか?」

「うむ。皇子たちに決起していただく」

「皇子たちはどうしておられるのだ? 吉本どののご子息も同行していると聞くが?」

士燮が冷静に訊ねた。

皇子たちに流刑の判決が下された際、朝臣から数名が選抜され、皇子たちの幽州行きにつきしたがうこととなった。

わずか数名で、皇子たちの命を守らなければならないのだから、優秀な人物ばかりである。

そのひとりに長男の 吉邈(きつばく) が選ばれたのだから、吉本としても鼻が高い。

「幽州は貧しい。許都で暮らすようにはいかぬが、その分、監視の目はゆるいようだ。ひそかに兵を集めておる。いざとなれば、一万ほどの兵を動員できるだろう、と連絡を受けている」

「ほう。それは頼もしい」

士燮は感嘆してみせたが、すぐに眉をひそめ、首を横に振った。

「だが、一万ほどでは、とうてい曹操軍とは戦えまい。曹操軍は強大だ。主力が漢中で足止めされていようと、皇子たちが決起すれば、数万の軍勢をさしむけてこよう」

士燮の指摘に、吉本はくつくつと喉の奥で笑った。

「この私が、みすみす皇子たちの身を危険にさらすと思うか?」

自信ありげな声に、韋晃が目を輝かせる。

「吉本どのには、策がおありで?」

「皇子たちは、すでに 烏丸(うがん) と渡りをつけている」

吉本は誇らしげにいった。

烏丸と連絡を取り、協力を取りつけたのは、幽州に行った朝臣たちのはたらきによるものである。わずか数名で懸命に動きまわった成果であり、そこに長男が名をつらねているのだから、誇らしいのも当然であった。

「おおっ、 夷狄(いてき) の力を借りるのですな」

「そのとおりだ、韋晃どの。皇子たちには 金旋(きんせん) ・ 金禕(きんい) もつきしたがっておる。彼らと烏丸が力を合わせれば、張遼や徐晃のごとき下賤の輩におくれを取ることはあるまい」

吉本は断言した。

金旋・金禕親子の祖先は、西漢の功臣にして匈奴王の血を引く 金日磾(きんじつてい) である。金旋自身、各地を転戦して功績を残してきた才気あふれる人物であり、息子の金禕は、才気煥発と評判の麒麟児である。彼らなら、相手が曹操でさえなければ、そう簡単に負けはしまい。

「負けないだけでは、どうにもならぬ。それだけでは、曹操がもどってきたらおしまいではないか」

士燮の懸念が正しいことは、吉本も認識している。

「士燮どのの意見は、もっともである。だが、皇子たちが挙兵したと知れわたれば、心ある者が各地で呼応するであろう。彼らが蜂起するように、我々も手をまわさなければならぬ」

曹操の支配下にある領域は広大である。いかに曹操軍が強大であろうと、そのすべての地を、力でおさえつけることはできない。

皇子たちが決起し、各地に反乱が飛び火すれば、曹操軍はその対応に追われ、曹操が自由に動かせる兵力は激減する。

「なるほど。曹操領は広大だが、曹操に心服している地など、ごく一部にすぎぬ。広大な領土が、かえってあだとなるということか」

得心がいったのか、士燮はにやりと笑った。

もちろん、吉本の思惑どおりに曹操が動くとはかぎらない。

漢中からあわてて引き返してきた曹操は、ほかの反乱には目もくれず、幽州に全軍をさしむけてくるかもしれない。

そうなれば皇子たちの命は風前の灯火となってしまう。

だが、そうはさせない。吉本がさせない。

「むろん、我々も決起する。荀彧どのを味方に引き入れ、許都を奪還すると同時に、詔勅を出して孫権を北上させる」

吉本は、力強く宣言した。

許都が曹操の支配から脱却すれば、皇子たちの挙兵どころの騒ぎではない。曹操は、幽州にかまけている余裕など失い、かならずや許都に攻め寄せてくるにちがいなかった。

曹操軍の主力と戦うことになれば、吉本たちにも勝ち目はないが、それは曹操軍の主力がそのまま戦うことができればの話である。

「いまは曹操に媚びている者も、その権勢に陰りが見えれば、雪崩打つようにこちらの味方にまわる。 王莽(おうもう) や董卓がそうであったように、曹操の権勢など、しょせんはつかの間の栄華にすぎぬ」

皇子たちが立ちあがり、各地で波乱が勃発し、許都が独立を果たした状況で、どれほどの将兵が曹操に忠誠を誓うというのか。

天子に 刃(やいば) をむける曹操に、どれほどの将兵がつきしたがうというのか。

ましてや、曹操軍と引き分けたばかりの孫権軍も、北上してくるのである。

天下に満ちる反曹操の気運が現実のものとなったとき、曹操は、おのれの栄耀栄華が砂上の楼閣にすぎなかったことを思い知らされるのだ。

吉本の眼球がにぶい光をたたえて、同志たちの顔を見まわした。

士燮の顔には納得の色が、韋晃の顔には期待の色が、郭玄信の顔には緊張の色が、それぞれ浮かんでいる。共通しているのは、漢朝の危機を憂い、立ちむかおうとする気骨である。

「漢は滅びぬ。何度でも、力強くよみがえる。西漢が王莽によって滅ぼされようと、東漢としてよみがえったように」

吉本はいったん言葉を切ると、小さく咳払いをした。

彼は、漢朝が深刻な危機に瀕していることを、誰よりも重く受けとめていたが、絶望はしていなかった。

「天意は我らとともにある。漢朝は、単なる王朝ではない。すでに、我ら 諸夏(しょか) 民族の理念となっているのだ。形ある国家は滅ぼせるが、理念を滅ぼすことはできぬ。我ら民族が、よりよい国家をもとめるかぎり、その大いなる道は、聖漢へと通じているのだ」

曹操は気づいていまい。

皇子たちが流刑に処されたことで、朝廷はさらなる弱体化を余儀なくされた。しかし、僻地に追放された彼らこそが、曹操に対する反撃の 狼煙(のろし) となり、漢朝再興の 端緒(たんしょ) となるのである。

ほくそ笑む吉本であったが、彼こそ気づいていなかった。

吉本にそそがれる三対の眼は、一見すると義心にあふれているようであったが、そこには、冷ややかな感情を秘めたまなざしがまぎれこんでいたのである。

◆◆◆

そこそこ裕福に暮らして、美味しいものを食べ、おもしろおかしく、健康的に長生きしたい。

私の願いなんて、そんなもんだ。

そんなもんというには、ぜいたくすぎるかもしれないが、野心的な人物からすればたいしたことのない、きわめて個人的な願望である。

なので、やり残したことといっても、特別なことはなにもなかった。

郭嘉の遺書に関しても、特筆すべきことはないように思える。

北方異民族の侵略にそなえ、国力を増強し、儒教の変容をうながし、すぐれた将軍を育成するための教育システムを構築する。

そうした基本的な方針を司馬懿に伝えた時点で、私の役割はおおよそ果たし終えたといってもよいのではなかろうか。

……弟子に丸投げしているのではない。次世代にたすきをつないだのだッ!

とはいえ、鍾繇にああいった手前、私なりに考えてみた。

なにかやり残したことはないか。

私がやり残していること、私がやっておかなければならないことがあるとすれば、それは、歴史の流れを知る私にしかできないことではないだろうか。

そう考えてみると、思い当たることがあった。

ひとり、確保しておいたほうがよさそうな人材がいる。

本物の孔明の後継者。

天水(てんすい) の麒麟児こと、 姜維(きょうい) 伯約(はくやく) である。