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作品タイトル不明

第一二六話 徐庶の奇妙な想念

陸議(りくぎ) は確信していた。

藷蔗(しょしょ) 畑が人々にあらたな富をもたらしつつあるように。

いつの日か、海抜という概念は、この地域の住民を救うだろう。

「孔明先生は、海沿いで暮らした経験はなかったはずだが……。それでも、この地で暮らす人々に大きな恩恵をもたらしている」

最も大きな恩恵を受けているのは、むろん陳登である。

陳登は、孫家と浅からぬ因縁があった。

かつて孫策は幾度も広陵に侵攻し、彼の暗殺の裏には陳登の影があったという。

赤壁の戦いで孫呉水軍が大打撃を受けたのを見て、陳登が攻めこんできてもおかしくなかったのである。だが、陳登は動かなかった。

その理由は、あの 邑(むら) の住人たちの言葉から見てとれる。

「この邑は、これからきっと大きくなります」

「なんせ、陳登さまが十年かけてつくった邑だかんな」

石蜜の生産に成功すれば、経済的な利益もさることながら、陳登の名は文化人として数百年と語り継がれるであろう。

それに対して、孫権に勝利して得られるものは、ありふれた軍事的名声にすぎない。実益面においても、せいぜいが州牧の座程度であろう。

石蜜で得られるもののほうが魅力的だと、陳登は判断したのだ。

ある意味、孔明に感化されて、拡張政策から産業振興に舵を切ったともいえる。

もっとも、依然として、陳登の動きには警戒が必要である。

曹操軍が徐州方面から南下してくれば、陳登としても軍事的に同調せざるをえまい。

赤壁の戦いの直後に、曹操と孫権は和議をむすんだが、そんなものは互いに矛を収めるための口実にすぎなかった。しょせんは寸劇であり、かりそめの休戦である。

実際、曹操は 廬江(ろこう) の賊を討伐するために軍をさしむけ、そのついでに廬江郡・ 九江(きゅうこう) 郡の孫権領を侵犯し、占領してしまった。

もちろん孫権は 激昂(げっこう) したが、その彼にしても本心から和議を信じてなどいなかった。

領土を守れなかったのは、ただ単に軍事力が不足していたからである。

したがって、曹操にひと泡吹かせ、兄の仇である陳登を討つためにも、孫権はますます強兵策を進めているのであった。

陸議の心情は複雑だった。

じつのところ、彼は陳登に敵意を抱いていなかった。

陸一族を殺害してまわった仇は、むしろ孫策のほうなのだ。

心情だけでなく、立場も負けず劣らず複雑である。

本来、呉郡陸氏の 領袖(りょうしゅう) は 陸績(りくせき) という人物なのだが、足が不自由になったという名目で、彼は一線をしりぞいてしまった。そのために、傍系の陸議が代表者となってしまったのである。

やってられないなあ、というのが正直な陸議の気持ちであった。

孫権に対しても、曹操に降伏してくれたほうがありがたい、とすら考えていた。

だからといって、そんなことを口に出すわけにもいかない。

あの張昭ですら、降伏論を唱えてから、敵意とまではいかなくとも、隔意を持たれているのだ。

陸議ごときが降伏をすすめたらどうなるか。

彼個人のみならず、一族にまで累がおよぶのは、火を見るよりあきらかである。

こうした事情で、陸議としては孫権の意向に頭を垂れ、忠勤に励むしかないのだった。

主君にそむく反乱分子や 山越(さんえつ) 族を制圧するたびに、陸議は自分の行動に疑念を抱かされ、中途半端な忠誠心を自覚させられる。もし孫権と対立する道を選べば、彼らは味方になりえたのだ。

もし孫権と対立する道を選べば……。

一族に少なからぬ犠牲が出る以上、陸議はその道を選びたくなかった。

それならば、臣下としての節をまっとうしなければならないし、孫呉の将来を切りひらいてみせなければならない。

「まあ、悪い主君ではないさ。……状況が最悪に近いだけで」

つぶやいて、陸議は乾いた苦笑を浮かべた。

自分の言葉に納得してしまったのである。

なるほど、最悪そのものではない。

その言葉は、曹操軍が攻め寄せてきたときのために、とっておかなければならなかった。

江水の川岸に、小舟が係留されている。

そのそばで、三人の漁民が腰をおろして休憩していた。

漁民に扮した孫呉の兵士たちである。

陸議の姿を見て、彼らが立ちあがったそのとき、身を切るような風が吹いた。

かすかな潮の匂いを、残らず消し去るかのような、西北の風が吹きぬけていった。

いずれ江東の地に、軍馬のいななきを、鉄血の匂いをはこんでくる風であった。

「さて、そろそろ帰ろうか」

徐庶は従者に声をかけた。

すでに孔明と陳登への別れのあいさつは済ませてある。

「はっ」

「かしこまりました」

従者ふたりがそういって、徐庶達三人は、馬をあずけている厩舎にむかって移動する。

途中、徐庶は苦笑しながら、

「ついつい、長居してしまったな」

「しかし本当によろしかったのですか? いくら藷蔗畑に感激したからって、なにも徐庶と名を改めることは……」

「ははは、いかにも安直な名づけに思えるだろう?」

「いえ、そうとは思いませんが……」

「私が改名した経緯に、興味を持ってもらえればそれでいい」

話の種になってくれればいいのだ、と徐庶は説明をはじめた。

藷蔗畑に感動して徐庶と改名したと話せば、相手はその藷蔗畑がどのようなものか、興味を抱くであろう。

そこで、石蜜がどれほど巨大なものを陳登にもたらしたのかを、説明してやればよい。

話を聞いた人物は、自分もあやかれないかと考えをめぐらせるであろう。

藷蔗を栽培できる地域はかぎられているから、石蜜を生産できる人物はほとんどいまい。

だが、そうでない者も自分の領内で似たようなことができないものかと、模索しはじめる。

結果につなげられる人物は少ないのかもしれないが、そうしたひとつひとつの積みかさねこそが、国を富ませ、ひいては人々を救っていくのではないか。

「権力者たちは、『天意は我にあり』と、声高に叫ぶ。だが、実際に人々を豊かにしていくのは、孔明先生のような大地に根差した思想なのだろう」

徐庶は言葉を切った。

厩舎についた。

すぐさま 馬丁(ばてい) がやってくる。

用向きを伝えると、馬丁はほどなく彼ら三人の馬をつれてきた。

手綱を受けとり、滞在中、馬の世話をしてくれた礼を伝えて、徐庶たちは厩舎をあとにした。

角を曲がったところで、やはり手綱をひいた、ふたり組とすれちがう。

少年と呼ぶには、すこし大人びた若者たちだった。

ひとりは、女に生まれていたら傾国とでも評されていそうな美貌の持ち主である。

もうひとりは、母の腹のなかに愛想を忘れてきたような顔立ちをしていた。

「ものすごい美少年だったな」

「ああ、女たちが放っておかないだろうな」

従者たちの反応は当たり前のものだったが、なぜか徐庶の心は、無愛想な若者のほうに強く惹きつけられた。

数歩歩いて、はっと立ちどまる。

「ちょっとあずかっていてくれ」

従者の手に手綱を押しつけると、徐庶はあわてて道を引き返した。

ふたり組の若者に追いつくや、その背中に声をかける。

「そこの君!」

鄧艾(とうがい) と 石苞(せきほう) が足をとめ、振り返った。

「私は 高郵(こうゆう) 県長の徐庶、字は元直という者だ。君の名は?」

石苞が見知らぬ人物に声をかけられるのはよくあることだ。

だが、徐庶の目はあきらかに鄧艾に向けられていた。

「こ、胡、孔明先生、門下。せ、姓は鄧、名は艾、あ、 字(あざな) は、 士載(しさい) 、と申します」

「地図をつくっていたという、孔明先生の弟子かな?」

「は、はい」

「出身はどこだろうか?」

「け、荊州、南陽郡の、 棘陽(きょくよう) 県、です」

「……っ!? ……そ、そうか。いや、呼びとめてすまなかった。君はすばらしい師を得た。その縁を大切にするといい」

若者たちの怪訝な表情に背をむけて、徐庶は従者たちのところにもどった。

「どうしたんですか? 顔が真っ青ですよ」

手綱を渡しながら、従者が気づかわしげな表情をむけてくる。

「あ、ああ。なんでもない……」

徐庶は声をしぼりだした。

頭が痛い。額をおさえて、脈打つような鈍痛をこらえる。

南陽郡の棘陽県……。

曹操軍が荊州に攻め寄せてきたとき、徐庶は劉備の命を受け、棘陽県を含む新野周辺の住民に避難を呼びかけた。

諸葛亮と連絡を取り、いまではその策が諸葛亮の発案であったことを知っている。

徐庶たちのせいで、多くの流民が発生してしまったのだ。

そして、その流民のなかに鄧艾はいた。

徐庶はたしかに、あの少年の顔に見おぼえがあった。

「徐庶さま、大丈夫ですか?」

気がついたら城外に出ていた。

徐庶は深呼吸をして、顔を撫でまわすと、

「ああ、大丈夫だ」

と答えて、馬に乗った。従者たちも馬に乗る。

「さあ、すこし急ぐぞっ!」

従者たちにそういって、徐庶は馬を軽く走らせた。

彼は天意など信じていなかった。

世にあふれているそれは、しょせん権力者の都合で発せられた、利己的な天意にすぎない。

だが、いまだけは。

人の手ではとどかぬ、本来の意味での天意が存在するのだと思えてならなかった。

――ああ孔明。我が友、諸葛孔明よ。おまえは天意に選ばれた特別な人間かもしれない。だが、天意に選ばれたのは、おまえひとりではない。

荊州時代、徐庶は諸葛亮という若者に特別なものを感じた。

境遇と志に共感し、その才に強く惹きつけられた。

それと同質のものを、運命じみたなにかを、鄧艾という若者の身の上からは感じるのだった。

だとしたら……。

曹操の天下統一をはばむことに、劉備と諸葛亮が成功したとしても。

彼らの道もまた、あの若者によって 頓挫(とんざ) を余儀なくされるのではないか。

徐庶は馬の足を速めた。

空がたまらなく青い。

いまはただ、無性に馬を走らせたかった。

鄧艾は軍人としてのみならず、農政官としても頭角をあらわした。彼の師である胡昭は、「海抜」の概念を提唱した人物であり、海抜を実測した最初の人物が鄧艾である。

当時、淮南地域に派遣されていた鄧艾は、あたり一帯の収穫量を上げるために、水を引いて 灌漑(かんがい) しなければならないと考えた。そこで広陵、寿春の海抜の測量をおこない、併せて効率的な水路の位置を算出したうえで、「 済河論(せいがろん) 」を著し、水路・運河の重要性を説いた。

鄧艾 wiikiより一部抜粋