作品タイトル不明
第8話 団長のガチギレと、痛快なざまぁ
巨大な防壁の門前に流れる空気は、研ぎ澄まされた刃物より薄く、張り詰めていた。
王宮文官長代理――ディートリヒ・ヴァルトは、真っ赤な封蝋が押された書状を高く掲げたまま、引きつった笑みを顔に貼り付けている。だが、その笑みはもはや何の盾にもなっていなかった。辺境から吹き下ろす冷たい風と、黒鎧の騎士たちが放つ本物の殺気が、彼の薄っぺらい虚勢を一枚、また一枚と剥がしていく。
「最初から、許可していない」
レオンハルトの声は低く、そして短い。
短い言葉は、相手から一切の逃げ道を奪う。ディートリヒは王宮で常にその短い言葉を使って部下を追い詰める側だったはずなのに、今は完全に“使われ、追い詰められる側”だった。
「だ、団長殿。私は王命を――」
「王命だと言うなら、正式な手続きを経た『書面』で示せ。ここは戦場だ。貴族の口約束など紙屑以下の価値もない」
ディートリヒは、焦燥に駆られて手にした封書を突き出すように掲げた。
「これがその書面だ! 見えないのか! ……おいリアナ、さっさと来い! 今すぐ王宮へ戻れ。手違いで色々と混乱しているが、お前がいないと各省の業務が回らない!」
その言い方が、あまりにも身勝手で、あまりにも下劣で。
リアナの胸の奥に残っていた彼に対する“恐怖”や“トラウマ”が、一瞬にして全く別の感情へとすり替わった。
怒りではない。
道端に落ちている汚物を見るような、純粋な『嫌悪』だ。
「……王宮の業務が回らないのは、私の要領が悪いせいだったはずですが」
リアナが極めて冷ややかな声で事実を突きつけた瞬間、ディートリヒの顔が醜く歪んだ。
「お前はただの部品だ! 黙って上の命令に従えばいいんだよ!」
そして、彼は最悪の動きをした。
防壁の門の隙間から強引に身を乗り出し、リアナの細い腕を掴んで引きずり出そうと、乱暴に手を伸ばしたのだ。
その瞬間。
辺境の風が、ピタリと止んだ。
いや、止んだように感じただけだ。実際には、その場にいた全員の呼吸が、圧倒的な威圧感の前に凍りついたのだ。
レオンハルトが、音もなく半歩前に出た。
背の大剣は抜いていない。抜いていないのに、抜刃よりも遥かに恐ろしい。
彼の分厚く巨大な手が、ディートリヒの伸ばした手首を、空中でガシッと掴んだ。
メキッ……と、ディートリヒの手首の骨が軋む、嫌な音が響く。
「――触るな」
声が、地底の底まで落ちた。
「あ、ぁあっ……!?」
「だ、団長殿! 離せ、私の腕が……! 私は王宮の――」
「俺の騎士団の者に、俺の許可なく気安く触れるな」
レオンハルトの言葉の中に混ざっていたのは、団長としての管轄権の主張だけではない。
強烈すぎるほどの『所有欲』だ。
俺の宝に、薄汚い手を伸ばすなという、一切の妥協を許さない絶対的な防衛の意志。
門の内側の騎士たちが、チャキッ、と一斉に槍を構える音が、遅れて鳴った。周囲の空気が、完全に“敵を殲滅する戦場”のものになる。
ディートリヒの額から、脂汗が滝のように流れ落ちる。
辺境は、王宮とは違う。
ここでは身分を盾にした“脅し”や“体裁”は一切通じない。
通じるのは、圧倒的な武力と、筋の通った理屈と――完璧な『書面』だけだ。
そして、その最後の一つを、最強の事務官であるリアナが持っていた。
「団長、少しだけお待ちください」
リアナは、自分の前を塞ぐレオンハルトの黒い外套の袖を、ちょんと引いた。
ほんの小さな、羽虫が触れるような動作だったが、それだけで怒り狂っていた冷血団長の動きがピタリと止まり、ディートリヒの手首への圧が緩む。止まること自体が、周囲の騎士たちから見れば異常事態だった。
リアナは、脂汗を流すディートリヒを正面から見据え、氷のように静かに言った。
「書類で決着をつけましょう、ヴァルト代理。……それはあなたの最も得意とする『安全な分野』でしょう?」
ディートリヒの眉が、屈辱に跳ね上がる。
「お前に、何が分かる――」
「その王命だという封書を見せてください。中身だけでなく、封蝋の印章も含めて、です」
「私の命令書を、左遷された小娘に見せる必要などない!」
「あります」
リアナは即答し、一歩踏み出した。
「私はもう、あなたの体裁を守るためだけに黙って従う『部品』ではありません。現在の私は、王国軍辺境防衛騎士団の正規の事務総官です。当騎士団の人員移動に関する公文書が、法的に正規のものかどうかを監査・確認する絶対の権限を有しています」
権限。
その言葉を、リアナが堂々と口にするのが不思議だった。
王宮では、「権限」とはディートリヒが自身の無能を隠すために振り回す暴力だった。
だが今は、リアナが自分と、自分の大切な居場所を守るために行使する「正当な盾」となっている。
ディートリヒが、レオンハルトの殺気に耐えかね、震える手で渋々封書を差し出した、その瞬間。
リアナは受け取るまでもなく、赤い封蝋の模様をひと目見ただけで、呆れたように目を細めた。
「……王印ではありませんね」
ざわっ、と周囲の騎士たちが動く。
ディートリヒが裏返った声を荒らげた。
「そ、そんなはずが――」
「これは王家の紋章ではなく、王宮の『文官長代理印』です。つまり、あなた個人の権限の印ですね。王命を騙る文書に、一介の代理の印を使うおつもりですか? 形式不備で即刻無効です」
ディートリヒの顔が、土気色を通り越して青白くなる。
リアナはさらに封書の端を軽く指で叩き、容赦なく追及を続けた。
「さらに、王命による召喚状であれば必ず記載されているはずの『特務登録番号』がありません。宛名の爵位表記も、五年前の古い形式のままです。……王の承認を得る時間すら惜しんで、昨夜、ご自身で急いで偽造しましたね?」
ディートリヒが喘ぐように口を開こうとした時、リアナはそれを許さず、懐から丁寧に折りたたまれた一枚の書面を取り出した。
「ちなみに、私が一ヶ月前に『王命』で転属を命じられた際の正式な文書の写しが、こちらです」
王都特製の透かしが入った紙。右上に刻まれた正規の登録番号。そして、絶対不可侵の王印。
いつでも閲覧・照合できるように、リアナが自分を守る最後の保険として、密かに控えを取っておいたものだ。
「私のこの転属命令は、『事務官としての長期配置』であり、一時的な出向でも、解任でもありません。したがって、軍務局の承認と王の正式な署名がない限り、文官長代理であるあなた個人に、辺境騎士団の私を王都へ動かす法的な権限は、一切存在しません」
ディートリヒの唇が、ガクガクと見苦しく震える。
王宮であれば、ここで彼は「うるさい! 俺がルールだ!」と強引に押し通し、周囲もそれに媚びへつらっただろう。
だが、ここは最前線の辺境だ。法を無視して強引に押し通そうとすれば、それは文字通り『自殺』を意味する。
レオンハルトが、絶対零度の声で宣告する。
「……王命の、偽造か」
ディートリヒが反射的に叫んだ。
「ち、違う! これは形式を一部省略しただけだ! 緊急事態だから――」
「緊急?」
リアナが、ひどく冷たく、怜悧に笑った。
王宮の男たちが口にする「緊急」という言葉が、どれほど身勝手な不祥事でできているかを、彼女は骨の髄まで知っている。
「緊急なのは、国家の危機ではなく、あなた自身が追い詰められているからですね。私がいなくなって業務が回らなくなった。王と監査官の目が入った。あなたが今まで誤魔化してきた帳簿の綻びが破れてきた。……だから、穴埋め要員として、私を強引に連れ戻したい」
「だ、黙れ……! 黙れええっ!」
「黙りません」
リアナはさらに一歩前に出た。
背後には、巨大な防壁の門。私の愛する楽園の境界線。その内側に立つ今の自分は、もう以前のように理不尽に耐えるだけの悲しい社畜ではない。
「あなたが、私の作成した重要書類を横取りしていた証拠も、すべて揃っています」
ディートリヒの目が、限界まで大きく見開かれた。
「な、何をでたらめを――」
「先日の『新税制改善案』の原本です。私の手元に、すべての計算式と草案の控えがあります。私が提出前に作成した版、あなたが表紙を差し替えて“自分の名前で”提出した版、そして――王宮筆頭文官室の出入り口の記録に残っている、深夜の私の退室ログの不自然さ」
リアナは、もう一枚、分厚く整理されたファイルを突き出した。
それは、ただの薄い紙の束ではない。辺境の過酷な業務改善の中で鍛え直された、誰が見ても一目で不正がわかる「絶対に反論を許さない完璧な 証拠書類(ファイル) 」だ。
「この件に関する詳細な報告書は、王都の財務監査官殿宛てに、昨夜の急使ですでに送付しております。決定的な証拠の写しは、すでに提出済みです」
ディートリヒの喉の奥から、ヒュッ、とカエルが潰されたような音が漏れた。
送っている。提出済み。
それはつまり、彼にはもう、一切の逃げ道が残されていないということだ。
ディートリヒは最後の足掻きとして、狂ったように怒鳴り散らした。
「そ、そんなもの! お前の被害妄想だ! 誰が信じる! たかが辺境の薄汚い騎士団が、王宮の中枢に口を出すなど――」
「口を出す」
レオンハルトの重低音が、そのヒステリックな叫びを物理的に叩き潰した。
「出す。いや、出せる。俺たちにはその絶対的な発言権がある」
ディートリヒの顔が、ひきつる。
「な、何を根拠に――」
「数日前の魔物の歴史的大規模襲撃を、我が騎士団は『死者ゼロ』で完全に退けた。その驚異的な補給と兵站のシステム構築の報告書は、すでに国王陛下の御前にも上がっている。現在の俺の騎士団は、名実ともに王国防衛の最大の要だ」
レオンハルトの金の瞳が、死神のように鋭く光る。
「その『防衛の要』である最重要の事務総官を、あろうことか偽造文書で強引に連れ出そうとした。――それは明確な、王国への反逆と防衛線に対する重大な損害行為だ」
ディートリヒは、口をパクパクさせるだけで一言も反論できない。
そこへ、兵站班長のガルムが一歩前に出て、無骨な分厚い手で別の紙束を高く掲げた。
「令嬢。こっちの『裏付け』もバッチリだぜ」
「ありがとうございます、ガルムさん」
リアナはそれを受け取り、ディートリヒの目の前に突きつけた。
「当騎士団の過去の帳簿をすべて精査し、整えた結果、極めて“不自然な支出”が多数見つかりました。王都の武器・食糧商人へ支払われた名目で、過去二年間、複数回にわたり同一の架空口座に裏金が流れています」
ディートリヒの顔から、ついにすべての血の気が引いた。
リアナは、一切の感情を交えず、淡々と死刑宣告(追い打ち)をかける。
「その口座の最終的な名義は、あなたの親族が経営するダミー商会です。我が騎士団の騎士たちの『危険手当』が、慢性的に遅延し、未払いになっていた理由もこれで完璧に説明がつきます。王都からの予算の支払いの順番が――あなたの私腹を肥やすために、意図的に後回しにされていた」
その瞬間。
門の内側にいたすべての騎士たちの目つきが、完全に変わった。
危険手当。
それは、彼らが辺境の地で文字通り血と肉を削り、仲間の死体を乗り越えて稼いだ「自分たちの命の値段」だ。
それを、安全な王都のふかふかの椅子に座るこのクズが、私腹を肥やすためにピンハネして奪っていた。
チャキ……チャキ……ッ!
無数の殺意が、槍の切っ先となってディートリヒへ向けられる。
ディートリヒの顔に貼り付いていた笑みは、完全に崩壊し、絶望と恐怖に染まった。
「ち、違う……違う! 俺じゃない! それは部下が勝手に――」
「証拠なら、すべてここにあります」
リアナは冷徹に言い放つ。
「帳簿(数字)は、絶対に嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって愚かな人間だけです」
その言葉に、ディートリヒの表情が完全に歪んだ。彼はついに理解したのだ。
リアナ・アルフェルトは、王宮で自分たちの不正な帳簿の歪みを“完璧に整えて隠蔽してくれていた係”だった。
だからこそ、彼女は誰よりも「不正の隠し場所」と「帳簿の歪みの見つけ方」を熟知している。
そして今、彼女はその圧倒的な才能を、歪みを隠すためではなく、自分たちを“完全に破滅させる側”へと回して使ったのだ。
ディートリヒは、完全に理性を失い、声を荒らげて逃亡を図ろうとした。
「だ、団長殿! たかが辺境の文官が、王宮の高度な会計に口を出すなど明らかな越権行為だ! 俺は一度王都へ帰って、直接陛下に報告する! これは陰謀だ――」
「帰れない」
レオンハルトが、その場を一歩も動かずに遮った。
短く、そして決定的な死の宣告。
「……は?」
「王命文書偽造の疑い。軍資金の不正送金および横領の疑い。そして何より、王国辺境防衛への重大な妨害行為。――ここは戦場の最前線だ。緊急時における国家反逆の疑いがある者は、団長である俺の権限で、この場で即刻拘束できる」
ディートリヒが、ガタガタと震えながら後ずさる。
レオンハルトが一歩、重い足音を立てて踏み出す。
「俺の宝に、二度と触れるな」
その地鳴りのような低い声には、純粋で濃密な怒りが混ざっていた。
魔物と戦う時の戦闘の怒りではない。
自分がこの世で最も奪われたくない、たった一つの大切なものに、薄汚い手を伸ばされた男の激怒だ。
ディートリヒが、半狂乱になって叫ぶ。
「だ、誰が宝だ! あんな要領の悪い無能な女、ただの俺の――」
その言葉を言い切る前に。
鋭い銀色の槍の穂先が、ディートリヒの喉元のわずか一ミリ手前で、ピタリと止まった。
動かしたのは、歴戦の兵站班長、ガルムだった。
「ただの、何だって?」
「……ッ、ひぃっ……!」
喉元に冷たい死を突きつけられ、ディートリヒはすべての言葉を飲み込み、その場にへたり込んだ。
周囲を取り囲む騎士たちの目は、もはや“王宮の高位な役人”を見る目ではない。
自分たちの命を弄んだ、ただの汚らわしい『敵』を殲滅する目だ。
レオンハルトが、冷酷に最終宣告を下す。
「拘束しろ。地下牢へぶち込んでおけ。王都への引き渡しと報告は、俺が正式な書面で通達する。……もちろん、監査官殿へもな」
「や、やめろ……俺は文官長代理だぞ……! リアナ! お前からも何とか言え! 俺たち、婚約して――」
「婚約は、あなたがご自身の口で破棄されたではありませんか。では、王都の地下牢で、ご自身の帳簿の不備とゆっくり向き合ってくださいませ」
リアナの完璧な礼と冷たい一瞥を最後に、ディートリヒは巨漢の騎士たちに両腕を掴まれ、無様な悲鳴を上げながら駐屯地の奥深くへと引きずられていった。
王宮で常に他人を跪かせてきた傲慢な男が、辺境の泥と汚物に塗れ、初めて自分が無様に跪いた瞬間だった。(ざまぁ完了)
リアナは、その哀れな背中が消えていくのを見届けていたが、不思議と胸の奥は静かで空っぽだった。
ざまあみろ、という復讐の熱い歓喜ではない。
ただ、「ああ、やっとすべてが終わった」という、静かな実感だけがあった。
あの男の支配から、そして終わらない夜の地獄から、自分は本当に、完全に解放されたのだと。
◇◇◇
その夜。
静寂を取り戻した執務棟の机の上には、美しく整頓された二通の書面が置かれていた。
一つは、ディートリヒの身柄拘束と横領の証拠に関する、王都軍務局への正式な通達。
もう一つは、王都の財務監査官宛ての、決定的な証拠ファイルの目録だ。
リアナは最後の確認の署名に手を動かしながら、ふと、ペンを握る自分の指先が小刻みに震えていることに気づいた。
魔物に対する恐怖の震えではない。
張り詰めていた過去への緊張が完全にほどけて、心の奥底に残っていた 澱(おり) が、涙の代わりに外へ流れ出そうとしている震えだ。
コトリ、と。
レオンハルトが、無言で湯気の立つ甘いミルクティーの入ったカップを、リアナの机の端に置いた。
「……終わったな」
「はい。ですが、まだ気は抜けません。正式な裁定と処罰が下るのは王都の監査会議の後ですから」
「そういう実務的な意味で言ったんじゃない」
レオンハルトは、不器用な男なりに少しだけ言葉を探すように間を置いてから、極めて低く、優しい声で言った。
「お前が、あの腐った場所へ無理やり戻される危険が、物理的に減ったということだ」
リアナは、温かいティーカップを両手で包み込み、立ち上る湯気を見つめた。
減った。
これで完全にゼロになったわけではないかもしれない。
でも、確実に減った。
その“減った”という事実を、自分が安心できるように、誰かが自分のためにわざわざ口に出して言ってくれる。
その温かさが、リアナにはまだ少しだけ信じられなかった。
「……団長」
「なんだ」
「……今日は、少しだけ残業を申請します」
言った瞬間、レオンハルトの鋭い金の瞳が、スッと細くなる。
また「休め」と叱られる、と思った。
だが、彼はいつもの冷たい命令とは違う、甘い言葉を落とした。
「……月四十時間の規定範囲内か?」
「……はい。事後処理を含めても、範囲内です」
「なら、特別に許す」
「許す」というたったそれだけの言葉が、泣きたくなるほど怖いほどに優しい。
レオンハルトは一拍置いて、念を押すように付け足した。
「ただし、明日は絶対に休め。一日中、ベッドから出るな」
「はい」
リアナは素直に頷いた。
そして、今度はティーカップから顔を上げ、彼の金の瞳から逃げずに真っ直ぐに見つめ返して言った。
「……私を、絶対に捨てないって、言いましたよね」
「言った」
「本当に、何があっても捨てないでくださいね」
レオンハルトの大きな手が、机の端をトントンと叩く。落ち着け、と激しく鳴る心臓に命じる時の、彼の無意識の癖の動きだ。
それでも、彼は絶対にリアナから視線を逸らさなかった。
「死んでも捨てない。俺に二度同じことを言わせるな」
その不器用で、けれど絶対の誠意が込められた言葉に、リアナはたまらず、ふふっ、と小さく笑ってしまった。
笑った瞬間、せき止めていたものが溢れ出し、目の奥が熱くなった。
ずっと、自分の安寧な楽園(労働環境)を守るためだけに、必死に動いてきたはずだったのに。
気づけば、その楽園のほうが、自分という存在を丸ごと優しく守り、包み込んでくれている。
その奇跡のような事実が、温かい紅茶の匂いと共に、ようやく彼女の心の底に腑に落ちた。
◇◇◇
窓の外では、夜風が木々を揺らしている。
防壁の門の外にあった、王都の不穏な馬車はもう跡形もない。代わりに、辺境騎士団の誇り高い狼の旗が、月明かりの下で静かに揺れていた。
障害は、完全に消え去った。
残る作業は、王都からの正式な返答――これまでの不遇に対する謝罪と、莫大な横領金の補償、そしてリアナの今後の絶対的な処遇の確約を受け取るだけだ。
そして、何よりも重要な書類が一つ。
リアナの机の引き出しの奥に大切にしまわれている、彼女が確かに署名した、あの分厚い紙。
――『終身雇用契約(案)』という名の、生涯の誓い。
リアナはインクのついたペンを置き、背もたれに深く寄りかかって、静かに、そして幸せそうに息を吐いた。
「……団長。私、明日は思い切り休みます」
「当然だ。よく眠れ」
レオンハルトが、ぶっきらぼうに短く言った。
その短さが、今はもう少しも怖くない。
むしろ、この世のどんな美しい詩よりも心地よく響く。
夜が更けていく静寂の執務棟で。
不器用な二人の距離だけが、書類の束を越えて、少しずつ、しかし確実に甘く確かなものへと変わっていった。