軽量なろうリーダー

あなたの言うことが、すべて正しかったです

作者: Mel

本文

身内だけで執り行われた、形ばかりの式を終えた結婚初夜。

ようやく寝室に姿を現した私の夫――ナーシェン・トラヴィスは、冷ややかに言い放った。

「リディア、私に愛されるなどと勘違いしないでもらいたい。これはあくまでも政略的な結婚にすぎないことくらい、君も理解しているだろう? なにせ君は……そうだな。在庫処分間近の見切り品、というやつなのだから」

……どうしてこの人はこんなにも偉そうに振る舞えるのかしら? 在庫処分間近なのはお互い様でしょうに。

戸惑う私の様子が面白かったのか。彼はにたりと唇を歪めて、ワインを傾けていた。

――トラヴィス家への嫁入りの道中、頬を打つ冷たい風に晒されながら私はずっと考えていた。

なぜ私は、姉の結婚が破綻するのを待たねばならなかったのだろう、と。

なぜ私は、「姉が悲しみに暮れているのに先に嫁ぐなど不義だ」と言う両親の言葉に素直に頷いてしまったのだろう、と。

――気がつけば二十代も後半に差し掛かり、婚期などとうに逃していた。

『行き遅れの娘としては上出来な縁談だろう。由緒あるトラヴィス家に嫁げるなんて、そうそう無い話だぞ』

仲介人が誇らしげに語ったその言葉に引っ掛かりを覚えながらも、美しいわけでも若いわけでもない女に選択肢などあるわけがない。しかも相手はかつて一大商圏を築いた名門。扱う商品こそ古めかしいが、代々続く商会なだけあって中央の貴族を中心に安定した顧客を抱えていた。

実家であるグランフィールド商会にとっても販路拡大の足がかりとしては申し分ない縁談。両親もこの話に色めき立っていた。

そんな周囲の思惑に流されるように、私はまとまった財産を持参して嫁ぐことになった。――これも実家の商会のため。そう自分に言い聞かせながら。

だからこそ、夫婦として生きると決めた以上は跡継ぎのことだって責任を果たすつもりでいたのに。

それなのに――彼が一方的に申し渡してきたのは、いわゆる白い結婚というものだった。

「……心に想う人がいらっしゃるのですか?」

「そういうことだ。図々しいだけの女かと思えば、少しは気が回るじゃないか」

人を『見切り品』呼ばわりするだけあって、たしかに彼の顔立ちは整っている。私よりも年上のはずなのに、堂々とした立ち振る舞いと滲み出る自信は若さすら感じさせた。この容姿であれば愛人のひとりやふたりいたとしても不思議ではない。

――けれど、誠実さとか、年相応の落ち着きとか、そういったものは微塵も感じ取れない。寡夫というわけでもなく、いい歳になるまで独り身だったことを思えば納得がいくというものだ。

「私には愛する娘がいる。その娘を五年後に妻として迎えるつもりだ。だから君とはそのときに別れることになるだろう」

「そんな……。それなら五年後などと言わず、今すぐその方と婚姻すればよかったではありませんか」

「法さえなければ、そうしていたさ。……なにせ彼女はまだ、十一歳だからな」

ヒッ、と喉の奥で悲鳴が漏れかけた。

政略結婚に歳の差はつきものだけれど、「愛する娘」と平然と口にしたことに全身が総毛立つ。背筋を這い上がってくるのは寒気だけではない。理屈では説明のつかない、生理的な嫌悪感だった。

たしか、釣書には「商会長の仕事の傍ら、トラヴィス家と縁ある家の家庭教師も務めている」と書かれていた。

パイプ作りの一環かと思ったが、もしその娘とやらがその家の子女だとしたら……? 相手の年齢を考えれば、可能性は十分にある。

あまりの悍ましさに言葉を失っていると、彼はなぜかやれやれと首を振った。

「……まったく。真なる愛の前には、歳の差など取るに足らないことも分からないのか。それとも彼女の若さに嫉妬でもしているのかな? 気持ちは分からんでもないが、性根まで腐るだけだからやめたまえ」

「そんなつもりはありません。ただ……お相手のお嬢さんも、あなたのことを……?」

「当然だろう。我々は純粋に想い合っているのだ。彼女のように世俗に塗れていない無垢なる存在を正しく導くことこそ、私のような立場ある人間の責務と言えるだろう?」

きらきらと輝く真っ直ぐな瞳と迷いのない言葉。私の方が間違っているような錯覚さえ覚えてしまう。

「……だったら尚更、私と婚姻を結ぶ必要なんてなかったはずです。どうしてこの話をお受けになったのですか? 私に対して不誠実だとは思わなかったのですか?」

「私とて乗り気ではなかったさ。だが仲介人には世話になっていてな。顔を立てたまでのことだ。それに君は商会の仕事が好きなのだろう? 女の分際で仕事に精を出すとは身の程をわきまえないにもほどがあるが――まあ、せいぜいその手腕とやらで家の財布として役立ってもらおうか。君の持参金には驚かされたよ。グランフィールド商会は、実に太っ腹だ」

覚悟していたつもりだった。

けれど、まさかここまであからさまに雑に扱われるとは思っていなかった。

しかも五年後には離縁して、金だけせしめるつもりだなんて――馬鹿にするにもほどがある。

何よりも。

「……私のことを『見切り品』などと仰いましたけれど、あなたもそれなりのお歳ですよね。ご自身のことも、同じようにお考えなのですか?」

「何を馬鹿な。男は、歳を重ねるごとに洗練され、熟していくものだ。だが女は違う。若さこそが女の最大の価値といっても過言ではない。その観点で言えば――君はもう、とっくに旬を過ぎている。しかも婚歴はなくともどうせ中古品なのだろう? ……十年前の初物であれば、抱いてやってもよかったんだがな」

あまりにも下劣な物言いに開いた口が塞がらない。

そんな私の反応を彼は「納得した」とでも解釈したのか、すっと寝台の上へ一枚の紙切れを投げてよこした。

「離縁状だ。君の署名欄以外は、すでに記入済みだ。この五年のうちに書いておきたまえ。……なに、いずれ君も嫌でも思い知ることになるさ。私の言うことがすべて正しかった、とな」

鼻で笑い、ドアを開けて部屋を出ていく彼の背中を、私はただ黙って見送るしかなかった。

ろくに眠れずにひどい顔をしていたのだろう。

翌朝、食堂に通された私を見て、控えていた年若いメイドたちがくすりと笑った。

「……初夜だというのにお気の毒に。あんなに手が早い旦那さまが触れもしないなんて」

「やだぁ、私だったら恥ずかしくて部屋から出られないわ。歳を取るとあんなにも図太くなれるのね」

私が夫に軽んじられていることは、一夜にしてこの屋敷の隅々にまで知れ渡ったのだろう。食堂の隅で交わされる声は耳元で鈴を鳴らすように軽やかで、悪意を孕んで私の心を抉ってくる。

クスクスと漏れ聞こえる嘲笑に言い返すこともできず、視線は自然とテーブルの上の冷めたパンへと落ちていった。

――ああ。

愛されることはなくとも、せめて一人の人間として尊重されるものだと思っていたのに。

私はこの屋敷で誰にも顧みられず、ただ笑いものにされながら無為な時間を過ごすのだ。

そして五年が過ぎれば、夫は私を捨てて、花盛りの愛らしいお嬢さんを迎え入れるのだという。

……なんて惨めな話だろう。

言い返す気力もなく俯いていると、私の前にそっと一つの影が差した。

「……言葉には気をつけなさい」

彼女たちを静かに窘めながら、椅子を引いたのは――この屋敷で最初に挨拶を交わした執事長。

名前は、そう。ベネディクト。

灰色の髪を短く刈り上げた彼は、静かな目でメイドたちを見つめていた。

声を荒らげるわけでもなく、感情的でもない。ただ、それだけで場の空気がぴたりと張り詰める。有無を言わせぬその眼差しに、彼女たちがたじろいだのが分かった。

「奥様を軽んじることは屋敷の品位を貶める行為です。くれぐれも、肝に銘じて下がりなさい」

毅然としたその言葉に、メイドたちは唇を尖らせながらもそそくさと立ち去っていった。

……彼はただ、屋敷内の風紀を引き締めただけに過ぎない。

私を個人的に庇ったわけでもない。

それでも。この屋敷で私を貶める者をきちんと咎めてくれる人がいるという事実に、どこか心が救われた。

「教育が行き届かず、大変失礼いたしました。食事もすぐに新しいものをご用意いたします」

落ち着いた声でそう言うと彼は手際よく食器を下げていく。

本来なら、彼ほどの立場の人間がこんな仕事を担う必要はないはずだ。

使用人に任せれば済むことだというのに――彼は嫌な顔ひとつ見せず、湯気の立つ温かな料理を運び直してくれた。

*

あの宣言を受けて以来、夫の顔を見ることは無かった。金さえ入れば私に用などないのだろう。どうやら家庭教師を務める家の近くに部屋を借りているらしかった。

「旦那様は見た目がお若くいらっしゃるから選べる立場だったでしょうに。どうしてあんな年増を迎え入れたのかしらね?」

「お金だけは持ってるって話よ。いやあね、歴史と伝統を誇る当家に金で入り込むなんて」

「しっ、奥様に聞こえてしまうわ。……ふふ、『見切り品』だなんて、旦那様も面白いことを仰るわね!」

メイドたちの噂話は絶えることなく、じわじわと心を蝕んでいく。屋敷のどこにいても笑われているような気がして、気づけば彼女たちの艶やかな肌や髪と自分を比べていた。嫌味のようにピカピカに磨かれた鏡を見るのも億劫になる。私は夫の戻らぬ寝室にこもり、ただひたすらに涙を流すばかりだった。

あんな気持ちの悪い夫に愛されたいとは、これっぽっちも思わない。ただただ、今のこの状況があまりにも情けなかった。

しかもメイドたちは執事長の目を盗んで幼稚な嫌がらせを繰り返してくる。

新調したばかりのドレスには裏地に見えないよう針が仕込まれ、入浴のお湯はぬるすぎるか、熱湯寸前か。化粧水に汚水を混ぜられたこともある。

指摘をすれば「ごめんなさぁい」と心のこもらぬ謝罪が返ってくるだけ。主人が私を侮辱しているのだから、自分たちも同じように振る舞って構わないのだと。そんな思い上がりが彼女たちの態度を増長させていた。

こんな婚姻を結ばせた両親と姉にも、堪えきれないほどの怒りが込み上げてくる。

私は姉よりも早くから商会の帳簿に向かい、客先を回り、姉が「外に嫁ぎたい」と望んだからこそ、未来の後継としての責務を果たしてきたはずだった。

それなのに。嫁ぎ先で離縁された姉が実家に戻ってきた途端、私の人生の歯車は音を立てて狂い始めた。

不憫だ、仕方がない、やり直させてやりたい。

両親はそんな言葉を繰り返しては姉を甘やかし、ついにはグランフィールド商会の将来まで託してしまった。

婿として迎えられたのは、私が目をかけて育ててきた有望な従業員。……本来なら、私の伴侶となるはずだったのに。

その居場所まで奪われた私は誰にも惜しまれることなく、ただ政略の駒としてトラヴィス家に差し出された。

誰かを憎まずにはいられない日々が続く。

食事も喉を通らず、心労がたたったのか、ついには床に臥してしまった。

――街では流行病が蔓延していたらしい。

その時の私は熱に浮かされ、喉の痛みと悪寒に震えながらただただ寝台で耐えるしかなかった。意識は朧ろで、時間の感覚すら曖昧だった。

「申し訳ございません。奥様の部屋には近寄らぬようにと、ベネディクト様からのお達しでして……」

医者の話では、若い娘が罹患して重症化すれば、子が望めぬ身体になるかもしれないということだった。

ただでさえ私はこの屋敷で冷遇されている身だ。若いメイドしかいないこの場所で、私の看病を名乗り出る者などいるはずもない。

仕方なくナーシェンに知らせを届けてもらったが、私のために戻ってくるとは思えない。

こんな病、誰かに移してしまうのも本意ではない。

薬を飲んで一人で耐えるしかないのだと。そう、覚悟を決めざるをえなかった。

――それなのに。

熱に朦朧とする中で、私の額に、ふわりと冷たい布が置かれた。

ぬるくなるたびに何度も取り替えてくれて、薬湯がそっと口元へ運ばれる。

苦いはずの薬が、不思議と安心できる味だった。

寝具から投げ出された私の手は、やさしく包むように布の中へ戻される。

冷え切った部屋には、いつの間にか暖炉の火が灯っていた。

どこからかぱちぱちと何かを弾く音がする。

静かに、控えめに――誰かがずっとそばに寄り添ってくれていた。

「……どうして、今さら優しくしてくれるの……?」

ぼそりと漏らした呟きに、返事はなかった。

けれど、額に置かれたその手は少し大きくて、温かくて――。

私は信じて疑わなかった。

夫がようやく戻ってきてくれたのだと。

*

「……礼を言います」

熱が引いた翌日。久しぶりに屋敷に滞在していた夫を見つけた私は、思い切って話しかけた。

「……看病をしてくださったのでしょう? 本当にありがとうございました。あなたがそばにいてくれたこと、嬉しかったです」

「……何のことだ?」

夫は怪訝そうに眉をひそめ、不機嫌そうに首を傾げた。

「病気だと? お前が?」

病の便りは届いていたはずなのに、初めて聞いたとでも言わんばかりの態度だ。戸惑いながらも経緯を説明すると、彼は心底面倒くさそうにため息を吐いた。

「体調管理がなってないんじゃないか? 大の大人が寝込むなんて情けない。もし私のロロナにでも移ったらどうしてくれるんだ。……汚らわしい、私に近づかないでくれ」

「…………」

私は、言葉を失った。

じゃあ、あのとき私の手を取ってくれていたのは?

薬湯を用意してくれたのは?

夜通し布を取り替えてくれていたのは――。

少なくとも、私の夫ではなかったということだ。

「……そう」

そう絞り出すのが精一杯だった。

これまでも期待していなかったけれど、彼に対する感情が氷点下にまで冷え込んでいくのを感じる。書類上とはいえ、一応は妻である私の安否を気にする素振りすら見せないなんて。吐き気がするほどの冷たさだった。

――あんなロリコン、こっちから願い下げよ。

いつかは目を覚ましてくれるんじゃないかと、心の片隅に残していた微かな希望は完全に消え失せた。

もう彼の言葉に振り回されるのはやめよう。

確かに花の盛りは過ぎたかもしれないけれど、他人にそれを決めつけられて手折られる筋合いはないはずだ。

期待するのをやめた私は、ようやく屋敷の外へ目を向ける余裕を持てた。

病魔が去ったことで鬱屈した感情まで消えたのか、胸の内が驚くほど晴れやかだ。 窓の向こうに広がる景色までもが、これまでより少しだけ明るく見えた気がする。

もともと商家の後継ぎとして教育を受けてきたのだ。数字が読めた。物の流れが読めた。メイドたちが陰で笑っている間に、私はトラヴィス商会とやらの財政に目を向けてみることにした。

だってあのロリコンが年増と罵った私をわざわざ妻に迎え入れたくらいなのだから。この家の事情がどれほど切羽詰まっているかは、火を見るより明らかだった。

そうして少し調べただけで分かったことだが、トラヴィス商会の財政は危機的状況にあった。理由は簡単。当主であるナーシェンが教え子にかまけて家庭教師の仕事に注力し、商会の運営は各店舗の店長に任せきり。自身は収益を顧みずに放漫に使い込んでいた結果だった。

仲介人の言葉を鵜呑みにして「疑うような姿勢は失礼に当たる」などと、身辺調査すらしなかった両親に苛立ちが募る。

けれど、もっとも愚かだったのは――その言葉に何の疑問も抱かずに従った、私自身だった。

……帳簿を確認すれば、もっと深い事情が分かるはず。

幸い、屋敷内の行動まで制限されているわけではない。

私が書庫へ向かうと、そこには先客の姿があった。

「……おや、奥様。このような場所にいかがされましたか? お加減はもう宜しいのですか?」

そこにいたのは、執事長のベネディクトだった。

片隅の机に腰掛け、静かに算盤を弾いている。人目のない場所でも姿勢を崩さず、所作の一つひとつに年季の入った品格があった。

「おかげさまでね。いつまでも腐っているわけにもいかないから……帳簿でも見ようと思って。それが、そうかしら?」

「……ええ。ですが、奥様は何をお確かめになりたいのでしょうか?」

「私の持ち込んだお金がどのように使われているのか知りたいの。……そのくらいの権利は、あるでしょう?」

いきなり商会の帳簿を見せてほしいと言えば警戒されると思った。

だからあくまで私の持参金の使途という建前を用いたら――彼の表情がはっきりと曇った。

「……もちろんでございます、奥様。ですがこれは……お目汚しになるかと思いますが……」

そう前置きしながら、彼は申し訳なさそうに分厚い帳簿を差し出した。

丁寧に手入れされた革張りの帳簿。その中に記されていたのは、数字で綴られた無惨な現実だった。

「屋敷の金銭管理は基本的に私が担っております。ただし、私に与えられた裁量は……記録と支払い処理にとどまっております」

「つまり……実際に金を動かしているのはナーシェン。あなたはその後始末をしているだけ、ということね」

言葉を濁しつつも、ベネディクトは神妙な面持ちで頷いた。

「奥様のご持参金は、この数ヶ月だけでも幾度となく使途不明の支出に消えております。……家庭教師先の令嬢への贈り物、その家への寄付金。さらには旦那様が借りている部屋の家賃までも、持参金から支払われている状況です」

私は無言でページをめくった。

緻密に並んだ数字の羅列が、まるで流血の跡のように見えて仕方なかった。

「……主人の恥を晒すような真似、嫌だったでしょうに。ありがとう。包み隠さず教えてくれて」

「とんでもございません。むしろ力及ばず、恥ずかしい限りでございます」

全ての裁量を握っているわけではない彼が謝る必要などないというのに。長年仕えてきた家に責任を感じているのか、心から申し訳なさそうに頭を下げる。

……まだ年端もいかぬ少女に入れあげて商会を傾かせている誰かさんとは、大違いだこと。

私は帳簿をそっと閉じ、小さく息を吐いた。

「ベネディクト。この帳簿、写しを取っても構わないかしら。……それと、商会の帳簿も可能な範囲で確認したいわ」

「……もちろんです。ただ、どうするおつもりで?」

「実家の経理部に送るわ。商売の鬼の集まりだもの。こんな見事な赤字経営を見せたら、さぞや腕が鳴るでしょうね」

ベネディクトの目が見開かれる。驚きと――わずかな希望の色が見えたような気がした。

「まさか、奥様……」

「ええ。私ね、考えを改めたの。五年後に追い出されるのならその時のために備えようって。どうせ捨てられるなら、それまでに価値のある女になってやろうと思ったの」

さっさと実家に戻るという選択もあるけれど、婚歴に傷のある年増女を貰ってくれる相手などそうそういないだろう。

それに実家ではすでに姉が新たな婿を迎えている。後継ぎがいる以上、今戻ったところで煙たがられるだけだ。

だったら――。

「……社交の場に共に出られずとも、顧客筋への挨拶状くらいは出せる。商会を好きにしていいという言質も取っているわ。トラヴィス家の妻として名を使うことも禁じられていなかったわよね」

「左様でございますね。奥様の行動までは制限されておりません」

私のことを何もできないただの年増だと思っているのだろう。仮に咎められたとしても、収益が上がる分には文句も無いはずだ。

――都合がいいわ。私にとっても、彼にとっても。

「トラヴィス商会はすっかり飽きられている。でも、私の実家にはまだ目新しい商品が揃っている。……これほど都合のいい橋渡し役、他にいるかしら?」

「お見事にございます」

深く一礼するベネディクトに私は軽く頷いた。

この家の行く末を、きっと彼も案じていたのだろう。その瞳には、私と同じ炎が宿っている気がした。

――泣いてばかりいたって、誰かがハンカチを差し出してくれる年齢は、もうとっくに過ぎてしまった。

だったら、自分の手で拭って、さっさと立ち上がった方が早い。

そうよ。私は姉を出し抜いて販路を広げてきた女。

長女というだけで優遇されてきた姉の犠牲になっただけ。私には、私の力と、私の伝手がある。

「……とはいえ、私ひとりでは難しいこともあると思うの。協力してくれないかしら、ベネディクト」

彼はトラヴィスの人間だ。そう簡単に信じてはいけないかもしれない。

それでも――この屋敷でただひとり、私に敬意をもって接してくれた人。

私は、彼にひとつの賭けを打つことにした。

ベネディクトはわずかに目を伏せる。

そしてしばしの沈黙ののち、覚悟を決めたように口を開いた。

「……先代には大変お世話になりましたのに、託された旦那様を正すこともできず、引退を考えておりました。ですが――奥様が、私を必要としてくださるのですね?」

「ええ。あなただけが頼りなの」

「……かしこまりました。奥様がこの屋敷を離れるその日まで、どうか良きように私をお使いくださいませ。旦那様には……そうですね、商会長代理の印章も正式に預かっておきましょう。教務に夢中なご様子ですので、容易に手放すことでしょう」

どこかいたずらっぽく微笑む彼が、たまらなく頼もしく見える。

――こうして、私のトラヴィス家再建の日々が、改めて幕を開けたのだった。

ベネディクトがうまく言いくるめてくれたのか、商会長代理の印章は早々に届いた。

そこで私が最初に手をつけたのは――屋敷を蝕んでいた、無能な使用人たちの排除だった。

「来月から来なくていいだなんて……! 奥様、これは横暴です! 酷すぎます!」

「旦那様はご存じなんですか?! あんなに可愛がっていただいたのに!」

解雇を言い渡されたメイドたちは、食ってかかるように詰め寄ってくる。けれどその声色には真剣な焦りよりも、なおも私を侮る響きがあった。

どうせ夫がたまに帰った時の暇つぶしに構っていた程度の相手。真っ先に切り捨てるべき負債にほかならない。

……ほんの少しでも私に敬意を持って接してくれていれば、仕事が多少拙くても目をつぶったかもしれないのに。

夫に見下されようとも、私がトラヴィス家の正妻であることに変わりはなかったのだから。

その立場を浅はかにも見誤った――その代償として、彼女たちは職を失ったのだ。

「……私のこと、心が狭いと思うかしら?」

甲高い声で喚き散らしていた彼女たちの声が、まだ耳の奥にこびりついている気がする。

頭を振って振り払うように問いかけた私に、傍らのベネディクトは一切の迷いもなく応じた

「とんでもございません。屋敷の品位を保つためにも、奥様のご尊厳を守るためにも、当然の処置と心得ております。……むしろ、これまで幾度となく不快な思いをおかけしたこと、誠に申し訳なく存じます」

「いいのよ。あなたが叱ってくれていたのは知っているから」

彼女たちもナーシェンの慰め役だけは果たしていたから、ベネディクトも目を瞑っていたのかもしれない。

だが、今のナーシェンはさらに若くて張りのある肌にしか興味がないらしいから。お嬢さんに夢中になっている今、彼女たちにはもう何の価値もなかった。

能力不足と礼節を欠いた使用人たちは早々に解雇を言い渡し、代わって新たに雇った者たちは皆、堅実な働きぶりと誠実さを備えていた。

屋敷の改革を手短に済ませると、次は商会の立て直しに着手した。

古くからの顧客に挨拶状を出し、自らの足で店舗にも顔を出した。だが最初の反応は、どこも一様に冷ややかだった。

「今さらトラヴィスの商品に魅力はない」

「グランフィールド商会ごときの娘に何ができる?」

そんな辛辣な言葉を、何度となく浴びせられた。

けれど、私が持参した新しい見本や、仕入れ先の案内書に目を通した彼らは、次第にその表情を変えていった。

古き良き伝統を大切にしながらも、流行を取り入れる柔軟さ――。

そこに、かつてのトラヴィスにはなかった「新しい風」を感じ取ってくれたのだ。

「奥様、先方より『次も前回と同様の品質で』とのことです。注文数は倍となっております」

「ありがとう、ベネディクト。帳簿も確認しておいてちょうだい」

その頃にはもう、私は嫁いできた外様ではなく、商会の実質的な運営者として認められていた。売上は前年比で一割増。しかもまだまだ伸びしろはある。

ナーシェンでは滞っていた決裁も、私なら即座に判断し、対応できる。それだけのことで従業員に感謝されるのだから、これまでの経営は推して知るべしと言えた。

売れ残っていた古臭い織物は姿を消し、代わって実家から届いた新柄の刺繍布や香料、輸入雑貨が棚を埋める。

得意先の嗜好や季節感に合わせた品揃えに切り替え、屋敷付きの行商人を通じて王都の富裕層へと販路を広げていった。

流行遅れの雑貨は、大衆向けに安値で放出した。

『王都愛用品』の札を掲げれば、実家の顧客たちがこぞって買い求めてくれた。

ベネディクトの緻密な記録と私の実家で培った嗅覚とを組み合わせ、仕入れの調整、納期管理、顧客との関係再構築を地道に進めていった。

いずれの施策も、ナーシェンの関心の外にあった。

彼は愛し子への特別授業と自らの若き日の武勇伝を語るのに夢中で、市場の流行にも屋敷の財政にも目を向けようとはしなかった。

とはいえ、何ひとつ気がつかないというわけでもなかったらしい。

「……なんだ、あのメイドたちはどこへ行った?」

――まあ、その程度よね。貴方がこの屋敷で気にすることなんて。

「格式ある当家に勤めるには力不足でしたから、一新いたしました。報告書は提出済みですが、何か問題でもありましたか?」

「私には何の相談もなしに、か」

「旦那様の手を煩わせるほどのことではないと判断しました。それに、戻る暇もないほどお忙しいのでしょう?」

働きぶりだけ見れば今いるメイドたちの方が何倍も優秀だ。以前の者たちは、若さと顔だけで選ばれただけに過ぎない。

その事実を一番理解しているのは他ならぬナーシェン自身のはず。多少は不満げな素振りを見せたものの、商会の売上が上向き始めたことに気を良くしたのか、結局、彼は何も言い返してこなかった。

*

いざ動き出してみれば毎日は思った以上に忙しく、驚くほどあっという間に過ぎていった。

トラヴィス商会の再建に打ち込み続けて四年。気づけば、あの涙を流すだけの日々も遠い記憶になっていた。

そんなある日、すっかり存在を忘れかけていたナーシェンが、珍しく浮かれた様子で屋敷に現れた。

「リディア、聞け! 私の愛するロロナがまもなく十五の誕生日を迎える! いよいよ社交界デビューの時だ!」

手にしていたのは、王都でも屈指の格式を誇る会場でのデビュタント・パーティーの招待状。ひらひらとそれを見せびらかす彼は鼻息荒く興奮していた。

「その晴れの舞台のために、トラヴィス商会が総力を挙げて出資することになった! ロロナには最高の栄誉を与えてやらねばな。商会の威信をかけた祝祭にするつもりだ!」

ずっと彼女がデビュタントを果すを日を待っていたのだろう、完全に舞い上がっていた。

家計が潤い始めたことで気を良くし、その金を愛し子のために注ぎ込むつもりなのかしら。彼にとって商会の資金は、彼女への愛を誇示するための道具に過ぎないというわけだ。

「……素晴らしいご提案ですね、旦那様。ところで、そのパーティーにはどのような方々をお招きになるおつもりですか?」

私は内心の嫌悪を押し隠し、にこやかに問いかけた。ナーシェンは誇らしげに胸を張る。

「無論、王都の有力貴族たちだ。……そうだな、私も何かと忙しいからお前にも仕事をくれてやろう。彼女に相応しい客人を選び、祝福の舞台を整えるのだ」

「まあ、私にお任せいただけるんですの? でしたら、招待状の発送から調度品の選定まですべてお任せくださいませ。姉の挙式の際に手配を任されましたので、そういった段取りは得意なんです。……旦那様はお嬢様のご教育でお忙しいでしょうし」

私の殊勝な提案にナーシェンは最初こそ訝しげに眉をひそめたが、すぐに頬を緩めて頷いた。

「ほう……さすがに歳だけは重ねているだけあって、そういう世俗の雑事には長けているようだな。よかろう、任せてやる。だが――ロロナに恥をかかせる真似は絶対に許さんぞ。最高の設えを整えよ。金に糸目はつけん。トラヴィス商会の威光を知らしめるのだ! ……事前に確認はさせてもらうからな、余計な企みなどしないことだ」

そう言い残し、彼は意気揚々と愛し子の元へと消えていった。

かかる費用については本来であればロロナ嬢の実家が負担すべきものだが、彼はきっと恩着せがましく「すべてトラヴィス商会が支援しよう」などと言ってしまったのだろう。

私は静かにひとつ溜息をつくと、すぐにベネディクトを呼び寄せた。

「デビュタント・パーティーの件だけど、貴族関係には私もまだ疎い部分があるの。招待客のリストアップをお願いできるかしら? ……特に、若い令息たちの選定は抜かりなくお願いね」

「若い令息たち、でございますか」

ベネディクトは私の意図をすぐに察したのか、目元をほんの少しだけ緩めて応じた。

「かしこまりました。奥様のご期待に沿えるよう、手配させていただきます」

パーティーの準備は滞りなく進んだ。

私は王都の社交界の流行を調べ上げ、今もっとも洗練されている装飾、料理、音楽を手配した。

そして、ナーシェンが求めた「王都の有力貴族たち」を――中でも眉目秀麗と評判の将来有望な若き令息たちを、ベネディクトが厳選して招待した。

彼らは皆、ロロナ嬢と同年代。しかも華やかな家柄に恵まれ、次代の社交界を担う若者たちばかりだった。

パーティー当日。

会場は絢爛豪華な装飾で彩られ、王都の貴族たちが優雅に集っていた。

ナーシェンはロロナ嬢の傍に付き従い、まるで後見人気取りで上機嫌に挨拶回りをしている。

「参加は認めるが、私の傍に近付くな。分かったな」

年増の妻を紹介するのが嫌だったのか、ナーシェンはこれまで私を徹底して社交界から遠ざけていた。とはいえ、パーティーの手配を担い、今やトラヴィス商会の中枢にいる私を今回ばかりは無視することはできなかったのだろう。あるいはもし不手際があれば、その責任を私に負わせるつもりだったのかもしれない。

どちらにしても、私は正式にこのパーティーへの出席を許された。

有力貴族たちが一堂に会する華やかな場に参列するのはこれが初めてで、さすがに多少は緊張した。けれどそれ以上に胸に湧き上がっていたのは、商会の顔として得意先に名を売るまたとない機会だという確信だった。

ナーシェンに放っておかれたのを幸いに、私は会場を巡って勝手に挨拶を済ませていた。

ふと視線をやると、ロロナ嬢の傍を離れた彼の姿が目に入り――私はそっと彼女の元へと歩を進めた。

「初めまして、ロロナ様。此度はおめでとうございます」

私の挨拶に、ロロナ嬢はわずかに戸惑ったような表情を浮かべた。

「ありがとうございます。ええと……貴女は?」

「ナーシェンの妻、リディアと申します。今回の会場の手配などを担当いたしました。ご不便など、ございませんでしたか?」

「まあ。貴女がナーシェン様の奥様なのね。へえ……そうでしたの」

扇の陰で小さく鼻を鳴らした彼女は、その一瞬で私の値踏みを終えたらしい。

十五歳らしい無垢な優越感を滲ませた微笑みには、瑞々しい自信に満ち溢れていた。

「ふふっ、ナーシェン様を独占してしまってごめんなさいね。でも、私もいずれ商会の妻となる予定ですから、色々と学ぶことが多くて。……それに、ナーシェン様ったら本当に親身でいらして。いつも贈り物をくださるの。奥様には一度も差し上げたことがないって仰ってましたけれど……そんなこと、ないですよね?」

……どこかでまだ子どもだと思っていたけれど、十五歳ともなれば、立派に女の顔をするようになるらしい。

牽制なのか、哀れみか。どちらでもよかったけれど、私はにっこりと余裕をたたえた笑みを返してやった。

「欲しいものは自分で用意できますからお気になさらず。……それにしても、お若いのにしっかりなさっているのね。まだまだ夫から学ぶことも多いのでしょう? 私にお手伝いできることがあれば、なんなりとお申し付けくださいね」

「ありがとうございます。でも……それもあと一年くらいかしら。ぜひそれまで、年長者の経験を生かしてトラヴィス商会を盛り立ててくださいね、奥様?」

あと一年。その先は、自分が奥様の座に納まるつもりなのだろう。私のことを「お役御免のおばさん」とでも思っているに違いない。

ナーシェンの言葉を、何の疑いもなく信じているのだろう。その瞳に浮かんでいたのは、微かな悪意。そして、純粋な未来への希望だった。

でも――彼女はまだ、分別のつかないお嬢さんなのだから。

こんなふうに思い上がらせてしまったのは、周囲の大人の責任と言えるだろう。

「ええ、お任せくださいな。……あら、あちらにいらっしゃるのは、伯爵家のご子息ではなくて? ご挨拶してまいりますね」

「ちょっと」と小さな声で引き留めようとする彼女を無視して、顔立ちの整った若い貴族のもとへと向かう。

その後も数人の若い令息に商品案内と挨拶を手際よく済ませ、トラヴィス商会の顔として未来ある彼らと言葉を交わした。

――あら、お嬢さん。その視線は何を思っているのかしら。

年増女が若い男に媚を売っているように見えるのか。

それとも、『元・奥様』になる女の見苦しい足掻きにでも映っているのかしらね。

「待たせたね、ロロナ。どうだ、今日は最高の日だろう?」

上機嫌のナーシェンが戻ってきて、軽やかにロロナ嬢の手を取った。

彼女が応じるように嬉しそうに見上げた――直後。その口元が微かに引きつった。

私の周囲に集う若い令息たちと、隣に立つ彼とを比べるような視線がちらりと走る。

ナーシェンはそれに気づいたのか、それとも自分自身に絶対的な自信でもあるのか。

どちらにせよ、その視線はパーティーの終わりまで何度も繰り返されていた。

*

「奥様。本日のお取引、まことにお見事でございました。このベネディクト、長年この商会に仕えてまいりましたが、これほど鮮やかな交渉は初めて拝見いたしました」

ベネディクトは琥珀色の酒をグラスへ注ぎながら、いつもよりわずかに声音を和らげる。

今日は普段の業務報告書に加えて、ささやかな祝杯まで用意してくれていた。

「ふふ、ありがとう。これもあなたが用意してくれた資料があってこそよ」

グラスを受け取り、一口含む。いつもより少し強い酒がじんわりと喉を通り、頬を熱くした。

――今日は、あのデビュタントの会場で知り合った貴族との取引が、ついに正式にまとまった日。長く交渉を続けてきた成果が実を結び、業界内でも話題になるだろうと言われるほどの案件だ。商会の再生を象徴する取引と言っても過言ではない。

商会長であるはずのナーシェンは相変わらず屋敷に姿を見せないが、精神衛生上はその方が良かった。たまにふらりと帰ってきたかと思えば、私の顔を見るなり鼻で笑ってこう言うからだ。

「それなりに頑張っているようではないか。褒美にキスの一つでもしてやろうか?」

……何を勘違いしているのかしら。そんなもの、褒美どころか罰の間違いなのではなくて?

きっとロロナ嬢であれば、無邪気に喜んでみせるのだろうけれど――。

「……それにしても、不思議なものね。子どもといっても差し支えない年齢の相手を真剣な恋愛対象として見られるだなんて。私には正直理解しかねるわ」

お酒が進んだせいかもしれない。できるだけ夫の愚痴は控えていたのに、つい口を滑らせてしまった。

ベネディクトにとって主人はあくまでナーシェンだ。こんな話を向けたら、きっと困らせてしまうに違いない。

ちらりと視線を向けると、彼はいつも通りの控えめな表情でグラスをそっと卓に戻した。

「……申し訳ございません。私には分かりかねる質問でございます」

どこまでも誠実な態度。あまりにも模範的な回答すぎて――ふと、悪戯心が湧いてしまった。

取引の成功と強い酒に気が緩んだのかもしれない。いつも取り澄ましているその顔を、ほんの少しだけ崩してみたい。そんないけない誘惑に駆られた。

「たとえば、あなたはどうなの? 私たちもそれなりに歳は離れているけれど……私のこと、そういう目で見られる?」

ベネディクトの動きがぴたりと止まった。

わずかな沈黙ののち、彼の視線がゆっくりと私に向けられる。

いつになく真剣で、しかし明確な戸惑いの色が混じった眼差しが、私の探るような視線と絡み合う。

「……お戯れはお控えくださいませ、奥様」

絞り出すようなひどくかすれた声に、私は思わず苦笑した。

「そうよね。こんなにひねくれてて可愛げのない女なんて……歳の差以前に、そういう対象になるはずがないものね」

――嫌だ、またこんな言い方。

せっかく前を向けるようになってきたのに、気を抜くとまた卑屈な思考に囚われる。

口を噤もうとした、その時。

ベネディクトが、いつになく早口で言葉を継いだ。

「そうは申しておりません。奥様はこのような境遇にあってもなお、気高さと聡明さを失わずに商会を立て直されました。……その姿には心より敬服しております」

少し息をついて、彼は自らの手を見つめるように目を伏せた。

「私のような立場の者が申し上げることではございませんが……どれほど年が離れていようと、奥様ほどの方を魅力的だと感じぬ者など、この世にいないでしょう。……たとえ旦那様と縁が切れたとしても、奥様ほどの御方であれば必ずや新たな出会いがあるはずです」

「……そうかしら。もう結婚なんてこりごりだけれど」

「それは……少し、惜しい気がいたします。こんなにも……美しく、凛としていらっしゃるのに――」

言いかけた彼は、はっとしたように言葉を飲み込んだ。

自らの失言に気づいたようにぎこちなくグラスを持ち上げ、残った酒を一息に飲み干す。そして、盛大に咳払いをして、慌てたように視線を外した。

「……失礼いたしました。どうやら、随分と酔いが回ってしまったようです。今のは、どうかお忘れください」

「無理よ。聞いてしまったもの。……ありがとう。嬉しかったわ」

それは、久しぶりに受け取った純粋な賛辞の言葉。

彼の真摯な言葉は、私の乾ききった心に思いのほか優しく、そして深く沁み渡っていった。

*

そうして、五年という月日は音もなく過ぎていった。

約束の日は、もう目前。

なのに――ナーシェンの口から、肝心の『離縁』という言葉が出ることはなかった。

「……旦那様。約束の五年が経ちますね」

食後の静けさに紅茶の香りが漂う中、私はひと口含んでから、穏やかに切り出した。

「約束どおり、離縁の手続きを進めましょう」

彼の手が、カップを置く音と共に止まった。

「……それは、困るな」

ナーシェンはやや困ったような表情を作り、ゆっくりと口を開いた。

「リディア。あれは、若気の至りというか……その場の勢いで言ってしまっただけでね。君の働きには本当に感謝しているんだ。あの頃の私は未熟だった。だが今なら分かる。君こそが――真の伴侶だったのだと」

そう言って、目を逸らさずに微笑んでくる。まるで反省と愛情を込めて歌っているかのように。

「あら。あれほど溺愛していらしたロロナ嬢は、どうなさったのかしら?」

「あんなの、ただの気の迷いに過ぎないさ。……まさか、あんな女だったとはね。正直、失望したよ」

あまりの変わり身に、思わず笑い飛ばしそうになる。

――まあ、当然よね。今のあなたの立場では、たとえ守備範囲外の年増の妻であろうと、縋らずにはいられないのだから。

最近になって彼が屋敷に足を向ける頻度が増えた理由を、私はとっくに知っていた。

ロロナ嬢が、デビュタントを境に同年代の令息へと心を移し始めたことも。

年上の男との恋に酔っていた彼女がようやく外に目を向けられたのか、「手懐けられていただけだったわ。いい大人が、気持ち悪い」と親しい友人に漏らしていたことも。

――その先に何が起きたかも、もちろん知っている。

あろうことか、焦った彼が既成事実を作ろうとしたことも。

結果、ロロナ嬢のご両親の怒りを買い、かろうじて保たれていた関係に亀裂が入ったことだって。

本当に馬鹿な人よね。

家同士の繋がりと、なにより彼女自身の希望があったからこそ『真実の愛』にご両親も目を瞑っていただけだったというのに。

彼女の心が離れればどうなるか――そんな当然の結末すら、想像できなかったのだから。

賠償金も商会の金から手を付けているような有様なくせに、私の耳に入らないと本気で思っていたのかしら?

これまでの私への暴言も含め全てを「なかったこと」として、美談めいて言葉を飾り立てる姿には哀れみさえ感じた。

「……なあ。これからは、ちゃんと夫婦としてやり直さないか? 君は私の期待に応えてくれた。商会を任せたのだって君の手腕を信じてのことだ。君となら、残りの人生を共に歩めるはずだ」

見事な手のひら返しだけれど、その言葉だけならまだ良かったかもしれない。

だが彼は、にたりと唇を歪めてこう続けた。

「君の歳でも、子を産むには……まあ、まだギリギリ問題はあるまい? ――君との娘なら、きっと可愛いことだろう」

――胸の奥から突き上げるような嫌悪が、全身を駆け巡る。

ティーカップを置いた音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。

私は黙ってベネディクトに視線を向ける。彼は無言のまま、一通の封筒を私のもとへ差し出してくれた。

金の箔押しが施されたその封筒には、ナーシェン自身が五年前に用意した正式な離縁状が収められている。

私はそれを、そっと卓上に置いた。

「お断りいたします。――約束どおり、離縁いたしましょう」

ワインの香りが漂う室内で、ナーシェンは気取った手つきでグラスを揺らす。

「そんな可愛げのないことを言うものではないよ、リディア。君は私に振り向いてほしくて、ここまで必死に頑張ったんだろう? ……悪かったよ。これまでのことは謝る。だいたい、離縁したところで君には帰る場所なんて、もう残っていないんだろう?」

口角を吊り上げて笑うその顔は、五年前と何ひとつ変わっていない――ようでいて。

凛々しかったはずのその容貌は、確かに変わってしまっていた。

額の生え際は後退し、背筋もどこか頼りない。

かつて自信に満ちていた口元には酒と脂に溶けた締まりのなさが漂い、腹はパンツの上にだらしなく乗り出している。

若々しさなどとうに消え失せ、今やただの傲慢な老醜と化していた。

精神的な未熟さだって、若い頃なら見逃されていたかもしれない。

けれど――四十を超えた今では、それはただの痛々しさでしかなった。

ロロナ嬢も、きっと同年代の令息たちと過ごす中でようやく視野を広げることができたのだろう。

気づくきっかけは与えたけれど、最終的に彼女は自分の目で見て、感じて、気づいたのだ。祝福の拍手を送ってあげたい気分だった。

「帰る場所ならちゃんとありますからご安心を。……姉がまた離縁されまして。ようやく気づいたのでしょうね、自分では荷が重かったと」

ナーシェンの目元がぴくりと動く。

「それに、両親も私の働きを認めてくれました。トラヴィス商会のおかげで貴族との繋がりがずいぶん増えましたから。正式に、グランフィールド商会の後継を任せたいと申し出があったところです」

ワイングラスを持つ彼の手が、ぴたりと止まる。

小刻みに震えているのは悔しさか、驚きか。

それとも、まだ自分の掌中にあると思い込んでいた私が、いつの間にか指の隙間から零れ落ちていたことにようやく気づいたのかしら。

私は構わず、封筒の隣に添えていたもう一通の書類を手に取る。

「ちなみに、持参金の返還も財産分与も不要です。商会長代理の印章もお返しします。……どうぞ、お得意のやり方で好きなように運営なさってくださいな」

ナーシェンは金が残ることに安堵のような息を漏らしたが、すぐに私の意図を探るように見返してくる。

あら、ようやく商会長らしい顔つきになったじゃないの。

そうよね。商会は好調なんだもの。私を手放してもどうにかなる――そんな都合のいい皮算用でもしているのかしら?

でも、駄目よ。あなたには、何一つ残してあげない。

「……その代わりと言っては何ですが、グランフィールド商会への移籍を希望している従業員は、全員連れていきますね」

「なんだ、そんなことか。そんな連中は好きにしろ。不義を働く連中など我が商会に必要のない人材だ」

「それはよかった。では、手続きを進めますね。……ああ、もちろん執事長のベネディクトも連れて行きますから、そのつもりで」

その言葉にナーシェンと、背後に控えていたベネディクトがふたり同時に「えっ!」と叫んだ。

ベネディクトがそんなに狼狽えるなんて珍しい。いいものを見たかもしれない。

「そ、それはいったいどういうことだ! こいつまで引き抜くつもりか?!」

「そうですね。彼ほど優秀な人は他に知りませんもの。これからも私を支えてほしいんです」

「支える……? お前ら、まさか男女の仲に……!」

「下世話な想像はおやめください。そういう関係ではありません。まあ……私も独り身になるわけですし、今後のことは私たちの自由ですけどね。あなたが知ることでもありませんけれど」

目を瞬かせたベネディクトの顔が、じわじわと朱に染まっていく。

「……お、お待ちください奥様。いえ、リディア様、それは……立場というものが……」

「ええ、分かってるわ。でも私はもう『奥様』じゃないもの。立場も、役目も、全部脱ぎ捨てて新しい道を歩くつもりなの。だから――一緒に来てくれるわよね?」

私は、彼にそっと右手を差し出す。

かつて高熱にうなされた夜。

誰にも看病されずに放置されていた私にそっと触れてくれた、あの温もり。

あの手が誰のものだったのか――もうとっくに分かっている。

『……失礼な。私たちはそのような爛れた関係ではありません。あなたたちのような者に奥様をお任せ出来ない、と言っているだけです。理解したなら下がりなさい。奥様の部屋の立ち入りも禁じます』

何かを企んだ様子のあの子たちを真っ先に遠ざけたのだと。親しくなった料理長が愉快そうに教えてくれた。

あのとき誰よりも真っ先に私の命と尊厳を守ってくれたのが、他ならぬ彼だったのだ。

ベネディクトは差し出された手を一瞬見つめ、静かに息を吐く。

やがて、いつものように礼節を保った所作で私の手をしっかりと取ってくれた。

「……このような老骨の身をそこまで買っていただけていたとは、思いもしませんでした」

「貴方の意思も確認せずにごめんなさい。でも、その手で支えられてきたから私はここまで歩いてこられたの。だから……私には貴方が必要なのよ」

彼は目を伏せ、小さく頷いた。

握られた手はやはり大きくて、あの夜と何も変わらない温かさがあった。

私はくるりと振り返り、呆然と立ち尽くすナーシェンににっこりと笑いかける。

「そういえば、あなた前に言ってましたよね」

「……は?」

「男は歳を重ねるごとに洗練され、熟していくものだ――って」

彼の顔が、一瞬で引きつった。

「本当にその通りですね。……見事に体現してくださった方が、ここにいますから」

私は隣に立つベネディクトに目をやる。

白髪は増え、目元には疲れも滲んでいるけれど――まっすぐに伸びた背筋は誰よりも美しかった。

「あなたの言葉、ようやく理解できました。美しく歳を重ねるって、素晴らしいことなのね」

「ば、馬鹿な……こんなことは認めない! 我が商会の全力をもって、グランフィールドを潰してくれる!」

「あら、どうぞご自由に。でも、九割の従業員が移籍を希望しているようですから、独り相撲になると思いますけどね?」

私は肩をすくめて、にっこりと笑った。

トラヴィス商会を去る身として、礼儀の一つとして声をかけただけだもの。義理を欠くようなことなど、何ひとつしていない。

「ナーシェン様もこれで自由の身ですから。どうぞ真の愛に殉じてくださいませ。お相手も貴方と同じ気持ちであること、心からお祈りしてますね」

口をだらしなく開けたままの彼をそのままに、私はベネディクトと肩を並べて食堂をあとにした。

足取りは穏やかで、けれど確かな自信と希望に満ちている。

――なんとも惨めなものね。

――私たちも、お暇の準備をしないといけないわ。

控えていたメイドたちの笑い声は、当主様へと向けられていた。

*

「……これからどうされるおつもりですか?」

屋敷を出て、手配していた馬車に乗り込んだ私たちは御者に行先を告げた。

向かう先はグランフィールド家。姉を追い出すことを条件に戻ると決めた場所だ。

「まずはお客様にトラヴィス商会の商品取り扱い中止のご案内と、グランフィールド商会への移行通知ね」

「……やることが山積みですね」

「ええ。それともう一つ、大事な手続きがあるわ」

私が意味ありげに微笑むと、ベネディクトは訝しげに首を傾げた。

「再婚の手続きよ。……婿入りでもいいかしら、ベネディクト?」

冗談めかして問いかけると、いつも冷静な彼の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。かと思えば耳まで真っ赤に染め上げた彼は、またしても狼狽えた様子で言葉を探していた。

「そ、そんな……リディア様、それは旦那様と離れるための方便だったのでは……?」

「まさか。本気に決まってるじゃない。……私のこと、そんな不誠実な人間だとでも思っていたの?」

「い、いえ……! 滅相もございません……! ただ、私の年齢では子も望めませんし……リディア様に恥をかかせるのではと……」

「そんなことないわ。あなたほど思慮深くて、誠実で、頼りがいのある人なんて他にいないもの。……それとも、私のことを魅力的だって言ってくれたのは嘘だったの?」

私の悪戯な言葉に、彼は観念したように片手で顔を覆った。その指の隙間から、震えるような本音が漏れる。

「……お慕いしておりました。年甲斐もなく、貴女と過ごす日々は心が躍るようでした。……こんなこと、あってはならないことなのに。旦那様を窘める資格もございません……」

「いいじゃない。私は分別のつかない小娘なんかじゃないもの。……本気で、貴方に惹かれてしまったのよ」

耳まで赤く染めた彼の横顔が、たまらなく愛おしい。

満たされた心が、静かに胸の奥で波紋を広げていく。

跡継ぎは、姉の子を養子にすればいい。

こんなに誠実で優しい人と、もう一度巡り会えるなんて――きっと二度とないのだから。

――ああ、ナーシェンの言っていた言葉。

本当に、すべてその通りだったわ。

"真なる愛の前には、歳の差など取るに足らない"

「――あなたの言うこと、全て正しかったわね」

頬を撫でた風は、どこまでも穏やかで、やさしかった。