軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 私の帳簿は私のために

ベルナールとの冬季木材取引の契約書に最後の署名が入ったとき、番頭のオーギュストが珍しく拍手をした。

拍手といっても三回ほど手を叩いただけの控えめなもので、事務室の空気を壊すような真似はこの人はしない。ただその三回が、帳簿と向き合ってきたここ数ヶ月への評価として十分に重かった。

冬季の木材仕入れ価格を前期比七分の削減で確定させたのは、単価交渉だけの成果ではない。輸送経路を見直して運搬費を圧縮し、納品時期を二週ずらして閑散期の割引を引き出し、三年契約の約束と引き換えに安定供給の保証を取りつけた。帳簿の数字を読めるだけでは出てこない提案で、取引の全体像を見てどこに余白があるかを探す仕事だ。

ベルナールが帰り際に「デュヴァル商会の要ですな」と言ったのは社交辞令かもしれないが、半分は本気だっただろう。この人は値切られると不機嫌になる代わりに相手の実力を正確に測る商人で、嘘の褒め言葉は使わない。

契約書の控えを綴じながら、少し前まで同じ仕事を伯爵家のためにしていたことを思い出した。同じ能力、同じ手順、同じ種類の交渉。違うのは、あちらでは「伯爵夫人の仕事」としてヴィクトルの名前の下に消えていたものが、ここでは私の名前で残るということだけだ。その「だけ」がどれほど大きいかは、失ってみなければ分からなかった。

昼を過ぎた頃、オーギュストが事務室に来て少し困った顔をした。

この人が困った顔をするのは珍しいので嫌な予感がしたが、予感は当たった。

「お嬢様、ランベール伯爵がお見えです。お目にかかりたいとのことですが」

ヴィクトルが来た。使者ではなく本人が。

断ることもできたが、少し考えてから会うことにした。逃げているわけではないし、会ったところでもう揺れるものがないことは自分で分かっている。それに一度きちんと向き合っておいたほうが、この先の人生で後ろを振り返らずに済む。

応接間に通されたヴィクトルは、財産分与の交渉のときよりもさらに痩せていた。目の下に隈があり、服の襟元が少し乱れている。伯爵家にいた頃は身なりに気を遣う人だったから、余裕がなくなっているのが見て取れた。使用人の中に服装を整えてくれる者がいなくなったか、あるいは整える気力がなくなったか。

「マルグリット」

「ランベール伯爵。本日はどのようなご用件でしょうか」

肩書きで返すと、ヴィクトルは一瞬だけ目を伏せた。法務官の事務所のときと同じ反応だ。もう慣れてほしいのだが、この人は自分に都合の悪い現実への適応が遅い。

「すまなかった。僕が間違っていた。やり直せないだろうか」

やり直す。

離縁届が受理されて、財産分与が確定して、社交界が距離を置き始めて、領地の取引先が半分離れて、本家の兄に最低限の援助しかもらえなくなってから「やり直す」を持ち出すのは、順番が五つほど遅い。

でも怒りは来なかった。怒りの代わりに来たのはひどく澄んだ理解で、目の前のこの人が何を謝っているのかが手に取るように分かった。

「ヴィクトル」

名前で呼んだのは最後の礼儀だった。

「あなたが謝っているのは、帳簿を管理する人がいなくなったからです。取引先との交渉をする人がいなくなったからです。社交の段取りを整える人がいなくなったからです。あなたが取り戻したいのは私ではなく、私がしていた仕事です」

ヴィクトルが口を開きかけたが、言葉が出なかった。

「それが悪いとは言いません。ただ、それは謝罪ではありません。求人です」

求人。我ながらひどい言い方だと思ったが、これ以上正確な表現が見つからなかった。この人は妻を失ったのではなく従業員を失ったのだ。五年間の結婚生活で私が担っていた役割のうち、ヴィクトルが本当に惜しんでいるのは「妻」ではなく「帳簿管理者」だ。その区別がつかないこと自体が、この人の問題のすべてだった。

「それは——違う、僕は君のことを」

「お気持ちはありがたく存じます。ですが、もう終わったことです」

立ち上がって軽くお辞儀をした。社交で何百回と繰り返してきた完璧な角度のお辞儀で、この人に向ける最後の礼儀だった。

ヴィクトルが何か言いかけたが聞かなかった。応接間を出て廊下を歩いて事務室の椅子に座り、契約書の控えの束に手を置いた。指は震えていなかった。

夕方、セバスティアンと食事をした。

商会の裏庭のベンチではなく、侯爵邸に近い通りにある小さな食堂で、母が以前から贔屓にしている店だ。セバスティアンが「少し話がしたい」と言ったので、じゃあ食事でもしながらと返したら承諾された。こういうときに妙に律儀な人で、店には私より先に着いて席を取っていた。

注文を決めるときに迷って、結局伯爵家では一度も食べなかった鳩の煮込みを選んだ。伯爵家の厨房ではヴィクトルの好みに合わせた献立が出ていたので、私の好みが反映されることはほとんどなかった。五年ぶりに自分の食べたいものを自分で選ぶというだけのことが、こんなに新鮮に感じるとは思わなかった。

「鳩の煮込みがお好きなのですか」

「好きというか、久しぶりに食べたくなっただけです。伯爵家では出なかったので」

「弟は鳩が苦手でしたね」

「ええ。だから五年間一度も出ませんでした」

セバスティアンが一瞬だけ黙って、それから「それは長い」と言った。五年間好きなものを食べられなかったことへの感想としてはずいぶん短いが、この人の言葉はいつも短い分だけ正確だ。

食事をしながら仕事の話をした。来季の取引の見通しや、木材市場の動向や、ベルナールの交渉の癖について。食卓で数字の話をするのが楽しいと思える相手は限られていて、セバスティアンはその限られた一人だった。

デザートの焼き菓子をつまみながら、ふと言葉が出た。

「侯爵様の言葉に、何度助けられたか分かりません」

言ってから少し後悔した。感謝の言葉としては漠然としすぎているし、何より唐突だ。でもセバスティアンは驚いた顔をしなかった。

「どの言葉ですか」

「全部です。『見事です』も『事実を言っただけです』も『帳簿に書き込んでおいていい』も。あと法務官の事務所のお茶も」

お茶は言葉ではないが、言葉より雄弁だったので含めた。

セバスティアンは焼き菓子の皿を少しだけ私のほうに寄せた。好きなだけ食べろという意味だろう。この人は気遣いを言葉にしない代わりに、皿を動かしたり茶を用意したり書斎に残ったりする。不器用なのか計算なのか分からないが、どちらにしても私には分かりやすい。帳簿管理者は数字と行動で人を見る。言葉より動きのほうが信用できる。

「マルグリット嬢。明日、改めてお話ししたいことがあります」

「仕事の話ですか」

「いいえ」

いいえ、とこの人が言い切るのは珍しかった。仕事でないなら何だろう。聞き返そうとしたが、セバスティアンの顔がいつもの硬い表情とわずかに違っていて、その違いの正体に気づきかけたところで言葉が止まった。

「明日、伺います」

それだけ返した。

帰り道、秋の夜風が頬に当たった。明日、と言われて怖くなかった。ヴィクトルに「やり直さないか」と言われたときには何も感じなかったのに、セバスティアンの「明日」は胸のどこかを小さく叩いている。

怖くないのが嬉しいのか、嬉しいのが怖いのか。どちらかをまだ決められないまま、実家の門をくぐった。