軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 「王女殿下が忘れられないんでしょう?」

「ニコラス様。私達、この一年間で十分に、お互い義務を果たしたと思いますの」

王都の一等地を占める、格式高い高級レストランの完全個室。人目を完全に遮断されたその空間で、テーブルに飾られた深紅の薔薇と美しく磨かれたカトラリーが、どこか寒々しく見えた。

今日、私達は婚約一周年を迎えた。

目の前に座る若き王宮次官、ニコラス・トーラス侯爵令息は、相変わらず息を呑むほどに見目麗しい。夜の光を溶かし込んだような美しい漆黒の髪に、優しげに細められた極上のアメジストの瞳。

彼は、私が差し出した一周年記念のプレゼントを嬉しそうに受け取ってくれたばかりだった。

そんな彼に、私は精一杯の微笑みを張り付けて、最後の言葉を告げる。

「《《あのお方》》が忘れられないんでしょう?……いいえ、ビクトリア王女殿下への想いを抱えたまま、私のために無理をして優しくしてくださる必要は、もうありませんわ」

心が張り裂けそうだった。

この一年間、彼の完璧な優しさに触れるたび、私は彼を好きになってしまっていたから。

けれど、もうすぐ隣国からビクトリア王女殿下が一時《《里帰り》》をされる。社交界はその噂でもちきりだ。「かつて学園で《《悲恋》》に泣いた、二人の再会があるのでは」と。

心の中に別の高貴な女性を住まわせた彼を、私の家格や義務だけで縛り付けたくはなかった。

「ビクトリア王女殿下が忘れられないなら、私が身を引くべきですよね。……ニコラス様、今までありがとうございました。貴方のこれからの幸福を―」

私は席を立ち、深く頭を下げた。

彼を解放してあげられた。その満足感と、喉の奥からせり上がる泣き出しそうな衝動を抑え、席を立とうとした、その時だった。

「……ロクサーヌ」

低く、ひび割れたような声が、私の鼓膜を震わせた。

いつも耳に心地よかった、あの爽やかで甘い声とは、明らかに違っていた。

「待って。今、なんて言ったんだい?」

「え……? ですから、婚約を解消して、私が身を引くと―」

振り返った瞬間、心臓が跳ね上がった。

ニコラスの、あの優しげに細められていたアメジストの瞳が、完全に据わっていた。

光を失った泥のように暗く、濁った瞳。まるで獲物を値踏みする肉食獣のような冷徹な視線が、真っ直ぐに私を射抜いている。

ガタ、と激しい音を立ててニコラスが立ち上がった。

いつも完璧な貴族の所作を崩さない彼が、椅子を乱暴に蹴り飛ばすようにして、私へと歩み寄ってくる。

「ひっ……」

恐怖に足がすくみ、私は思わず後ずさった。けれど、数歩で背中が冷たい壁にぶつかる。

逃げられない。

あっという間に間合いを詰められ、ニコラスの両手が、私の顔の真横の壁にドォン、と激しい音を立てて叩きつけられた。

完全に、彼の長い腕の中に閉じ込められる。

「ニッ、ニコ、ラス様……?」

「あのお方? 忘れられない? 身を引く……? 誰が、誰から、何のために?」

至近距離から見下ろす彼の顔は、酷く歪んでいた。

怒っているのか、絶望しているのか。ただ一つ分かるのは、今目の前にいる男は、私の知っている「爽やかで優しい婚約者」ではないということだけだ。

「僕を捨てる? 本当に、僕から逃げられると思っているの?」

「……っ、だって、貴方は王女殿下を、今でも愛して……っ」

「そんなわけがないだろうッ!!」

鼓膜が破れるかと思うほどの怒声だった。あの冷静沈着な王宮次官が、声を荒らげている。

ニコラスは私の細い肩を大きな手で掴むと、骨が軋むほどの力で指を食い込ませた。痛い、と声を上げる隙すら与えられない。

「ビクトリア王女殿下とのことは、ただの……っ、クソ、なぜ君がそんな風に思い込んでいるんだ!? 僕がこの一年、どんな気持ちで君の隣にいたと思っている!?」

彼の額に青筋が浮かぶ。アメジストの瞳の奥で、ドロドロとした狂気じみた独占欲が渦巻いているのが見えた。

「行かせない。絶対に離さない。君の父親にどれだけの違約金を積まれようが、王太子殿下に首を刎ねられようが、君を僕の妻にする。逃げるつもりなら、今すぐ君を僕の屋敷の地下室にでも閉じ込めなきゃいけなくなる。……僕に、そんな真似をさせないでくれ、ロクサーヌ……!」

ハァ、ハァ、と荒い呼吸を繰り返しながら、ニコラスは懇願するように、けれど絶対に拒絶を許さない力強さで、私の額に自分の額を押し当ててきた。

(どうして……? 喜んで受け入れてくれると思ったのに……。なんで、こんなに怒っているの……?)

彼のあまりの豹変振りに、私の頭は完全にパニックを起こしていた。

完全に、彼の「執着スイッチ」を押し込んでしまったのだと気付いたけれど、もう遅い。

完璧だったはずの婚約者の、本当の姿。

なぜ、こんなことになってしまったのか。

時計の針は、今から一年前、私達が最悪の勘違いのまま婚約を結んだ「あの日」へと遡る。