軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

1、聖女は神の代弁者になることにした

「聖女様、本日の夕食です」

無表情な聖女補佐の女性が、石畳の床に直接、器を置いた。

もう冷めているのか、湯気は立っていない。水に近い透明な液体のスープと、拳ほどの黒ずんだパンがひとつ、床に転がっている。

「……ありがとうございます」

アリアは膝を折り、薄い布の上に腰を下ろす。

補佐が出て行くのを見送ってから、スプーンでスープを口に含む。ほんのわずかな塩気が付いている。

次に固いパンをちぎって口に入れる。

唾液でふやけると、舌の上でざらりとした感触が広がった。砂利混じりの小麦粉で焼かれたからだろう。

スプーンで掬えなくなれば、床に置かれたスープ皿に顔を近付けて、少しずつ啜る。

器を持ち上げることは許されていない。

聖女は驕ってはならないからだ。

ふと、思う。

この前入ったばかりの見習い神官でさえ、ずっとましな食事をしていた。

まだ神殿に対して何も寄与していないのに……。

「だめよ、アリア……考えるな」

口元を拭いながら首を振る。

聖女は疑問を抱いてはならない。

決して負の感情や欲望を覚えてはならない。

聖女の力は神の力だ。聖女の感情次第で、たちまちこの世は瘴気に覆われる。

そう教えられて育った。

だからアリアは、努めて何も考えないようにしながら、硬いパンを静かにちぎる。

八年前、七歳の洗礼式で神の御力を持つと判明し、両親は涙を流して喜んで、アリアを神殿へ差し出した。

決して驕るな、国と神殿に尽くせ、己を捨てよ。そう教え込まれ、アリアは百五十年ぶりの聖女となった。

瘴気は負の感情や欲望から生まれる。

清貧は美徳である。

他者に尽くすことこそ真理。

全てに誠実であれ。

その教義に疑問はない。

けれど――。

水のようなスープを見つめていると、そこにぼんやりと婚約者の姿が浮かんだ。

カイル殿下だ。国王の命によって婚約関係にある、次期国王。

三つ年上の彼はいつも華やかで女性に慕われている。

今日も私室で、最近お気に入りの男爵令嬢と過ごしているようだった。

「カイル様……」

小さい頃はよく会いに来てくださっていたが、殿下が学園に入られてからは多忙ゆえに顔を見ることが出来ず、内心気落ちしていた。

けれど昨年、数年ぶりに殿下からの呼び出しがあった。

未婚なのに孕んでしまって困っているという貴族女性に、カイル殿下が同情して、私に頼んできたのだ。

自分を思い出してもらえたことが嬉しくて、内心張り切って少女の体に負担がないよう処置を施し、未婚女性に相応しい体へと戻してあげた。

それが3回続いた。

女性たちはみんな違う人だった。

3回目のときには、そのお腹の父親がカイル殿下なのだと、水鏡で見て、もう知っていた。

指先をトンと動かすと、波紋と同時に今度は育ての親の神官長の姿が映る。

豪奢な食卓だ。赤ワイン、分厚い肉、異国の果物、繊細な料理の数々。

アリアが一度も口にしたことのない物が並んでいる。

常々、聖女の清貧を説く者は、自分は別だと疑いもしない。

「……おいしそう」

小さく呟いて、アリアは水鏡を消した。元のスープに戻った物をぼんやり見つめる。

彼らはアリアが何も知らないと思っている。

神殿に閉じ込め、世間を見せず、疑問を抱かぬよう育てたから。

実際、アリアはつい最近まで信じていた。

アリアは聖女だから特別厳しい生活だけど、他の人たちもそれぞれに己を律した暮らしを送っているのだろうと、本気でそう思っていた。

気まぐれに、こうして皆の様子を見るまでは。

教義を語る者たちが誰一人それを守るどころか、愚直に守るアリアを馬鹿にしていることを、その時、初めて知った。

「聖女様、もうよろしいですか?」

聖女補佐の女性が扉を開けて入ってくる。

朝は夜明け前から祈りを捧げ、国中の瘴気を祓った。

朝食を頂いた後は、昼から治療だ。

アリアは補佐と共に神殿の廊下を歩き出す。

治療は王族、貴族、富裕層が優先される。

彼らの願いはささいなことが多い。

飲み過ぎたから酒を抜け。顔のシミを取って。腰が痛い、膝が痛い。

あまり力を使わないから治すのは一瞬だが、それぞれの元に赴かねばならないから移動が大変だ。少しでも遅れればティーカップを投げつけてくる人もいるので、気が抜けない。

夕方になって神殿に戻り、ようやく一般信者の治癒が始まるが、ほとんど時間は残っていない。

彼らは貴族と違って重病の者が多く、今にも倒れそうな病に苦しみつつも、それでも己の番が回って来ないかと、毎日必死に列に並ぶ。

「時間です。本日はここまでです」

そう言ったときの彼ら彼女らの絶望に満ちた顔はいつも直視できない。

今日は「遠くから来たんだ!宿代がもうないから明日には帰らなければならないんだ!」と縋ってきた親がいた。

まだ幼い子供が厄介な肺病に掛かっていた。

でも、その子を特別に治せば、我も我もと他の人が殺到するのは今までの経験でわかっている。

断って部屋を出ようとする私の背中に物が投げつけられ、罵声が浴びせられた。部屋の外で待っていた聖女補佐の女性が、面白そうに赤い唇を歪めた。

その後は各地方からの嘆願や要望に目を通し、ようやく眠る頃には、もう朝が近い。

睡眠時間はほとんどない。

きっと栄養も足りてない。

なのに普通に暮らせるのは、無意識に自分へ癒しの力を使っているのかもしれない。

けれど、その癒しの力でも疲労感と飢餓感は消えないようで、私はいつもお腹を空かせて、ひどく疲れている。

8年もの間ずっと。

それが聖女の当たり前だと思っていた。

──でも

何故、私だけがここまでしなければならないのだろう。

「いけない……」

何故、教えを守っていない者たちに、教えを守れと言われなければならないのだろう。

「だめ……」

何故、私を尊重してくれない者たちに尽くさなければならないのだろう。

「考えては、だめなのに……」

呼吸が浅くなる。

最近ずっと、こらえきれない大きな感情が胸の奥で渦巻いている。

だって、何故、神に最も近い存在だからと誰よりも厳しい生活を送らなければならないの?

そんなことを誰が決めたと言うの?

そうしなければ瘴気が溢れる?

本当に?

でも、溢れて困るのは誰なの?

私は困る?

「……別に困らない」

冷え冷えとした部屋に、ポツリと温度のない言葉が響いた。

そうだ、私は困らない──。

困ると言う人がどうにかすればいい。

瘴気が溢れても、私はもうどうでもいい。

胸の奥に溜まっていた何かが、すっと形を成した気がした。

長年押し殺してきた感情。

名付けるなら、それは欲望だった。

不意に辺りを見回して、抱いた疑問を確認してから小さく頷く。

「……決めた」

神の名のもとに正そう。

自分だけが我慢を強いられる、この歪んだ状況を。

自分が教えを守らせる側であってもいいはずだ。

だって、聖女は神の代弁者なのだから。

静まり返った部屋で、目を閉じる。

どくどくと鼓動を打つ音が耳に大きく聞こえる。

本当にこんな大それたことをしてもいいのかと、自分の中の従順なアリアが怯えてる。

それを振り切るようにすっと息を吸い、次の瞬間、その声は国中に響き渡った。

成人を迎えたすべての人間の意識に、直接。

『本日より、託宣を下すことにしました』