作品タイトル不明
4.臨界の日(3)
同日、6月4日
夕方
「何度も呼び出してしまってごめんねぇ」
好々爺然(こうこうやぜん) とした笑顔の上で眉を八の字にさせて、申し訳なさそうにペリアン老人は椅子を勧めた。
朝に一度、次男とともに報告に上がった際は比較的すんなりと帰されたため再度の呼び出しは想定していなかったリジット伯爵は、汗を拭いつつ怪訝な顔で三度目の来訪となるペリアン外務卿の執務室を見渡す。
今はトールスの姿はなく、代わりに数名、同席の人数が増えている。
特に目を引くのは白髪に見まがうほど色の薄い金髪が高位貴族の血筋を感じさせる、服も佇まいも見るからに地位の高そうな三十手前の若者だ。
「あ、君らは初対面かな。リジット伯爵、こちらはコーヴェリアン外務卿。現役の外務卿六人の中で一番の若手だね」
「これは、コーヴェリアン侯爵家の……! お初にお目にかかります」
コーヴェリアンといえば生粋の上流の家柄だ。
宝飾品が主産物であるリジット伯爵家としてはこんな場面でなければ是非とも 誼(よしみ) を結びたいくらいである。
若き外務卿は口は開かず軽く黙礼を返す。
「伯爵、今朝の資料、ありがとうね。色々よく分かって助かった。残念ながら噂話は事実で、リジット伯爵家としては被害に遭っている女生徒の家に謝罪をしたいということだったと思うけれど」
「はい。ネキア男爵家には誠にお詫びのしようもなく……。あまり私どもでは男爵家のあるロキシデア方面に普段の付き合いがないもので、本日はご縁のある方がいらっしゃらないかと方々を訪ねていたのですが」
「うん、謝罪の意思はあるということで良いかな」
「は? あ、はあ、それは、もちろん」
「こちらのコーヴェリアン卿が先ほどタウゼント侯爵家に行ってきてくれてね。先方は話を聞くつもりはあるということを確認してくれた。なんなら明日にでも来てくれて良いと」
「………………は?」
唐突に増えた情報量にしばし伯爵はフリーズする。
「タウゼント、侯爵家……?」
+ + +
「レシェナ・ネキア。母親の名はアルティエンナ。ゲルトランは身分が低い後妻というようなことを言っていたが、ずいぶん美しい名前だ」
言い換えるなら貴族らしい名前と言える。
伯爵邸の一室。
資料を整理していたリジット家長男のデンダールはふとネキア男爵夫人の名を目にしてそんな感想を抱いた。先に広げていたロキシデア地方の地図の横で、彼はパラパラとページをめくる。
「……ん?」
貴族の名が並ぶ年鑑は、特に下位貴族に関しては淡々と事実を並べる部分が多く、必ずしも来歴などを網羅しない。年鑑付属の簡易地図を何気なく開いたところ、二つの地図で少し区割りが違う。
「領土の境界が変わっている……?」
年鑑は毎年最新版を購入しているが、地縁のない地域の詳細地図は十年以上買い替えていない。発行年に差がある。
「ああ、そうか、このあたりは確か、先の戦争で人を失いすぎて大きな再編が」
ふつりとデンダールの独り言が途切れた。
血の気が足元まで降りていくような薄寒い感覚に襲われる。
かすかだが、決定的な違和感。
「おい、誰か、もっと古い年鑑はどこにある?」
執事に資料を取ってこさせて、十年前の貴族年鑑を開く。古い地図にあったエルト領の名前を引く。
「アルティエンナ・エルト子爵夫人。子は男女ともに二名。娘の名前は、第一女、アルジェンヌ、第二女……レシェナ」
この家族だ。
毎年の年鑑を急いでめくっていく。
ある年のエルト子爵家の項目に、除籍事実と多少の経緯が記載されていた。アルティエンナ子爵夫人は夫と息子二名、ほか家臣の多くを戦火に失い、一時的に子爵家の当主を務めた後に爵位を国へ返上。本人は領土の一部とともに隣領ネキア男爵家へ次女レシェナとともに入った。
「長女アルジェンヌは、タウゼント侯爵家へ、養子縁組……」
タウゼント侯爵家!
国内でも指折りの有力貴族だ。
それも去年か一昨年に、別の意味で新聞を騒がせていた覚えがある。最早使用人を使うこともせずデンダールは書庫へ走った。記憶は明晰だったが、 一縷(いちる) の望みとして、デンダールの勘違いであってほしかった。
(父上とトールスが呼び出されたのは、なぜか、 外(・) 務(・) 局(・) だった)
学生同士の揉め事など明らかに国内の話題なのに。
嫌な確信ばかりが募る。
一、二年ほど前の新聞の控えを集中的にひもとけば、見たくなかった見出しがすぐに目に飛び込んできた。
「『タウゼント侯爵令嬢、隣国エンディオン第三王子に見そめられる。婚約成立の見込み』」
それはとてもおめでたいニュースとして報じられていた。
愕然と強張る両肩とは裏腹に、眼球は無意識に細かな本文を読み取っていく。続く文面には『アルジェンヌ嬢は元エルト子爵家令嬢であり、 小康(しょうこう) 状態の続くロキシデア地方の西部戦線においても政治的重要性と地理的優位が生まれ、戦況変化が期待される。』とも書かれていた。
エンディオン王子の国は大国だ。
こちらの国は五つの国と国境を接しているのだが、注釈なく「隣国」と言えばそれは彼の国のことになるほど存在感が強い。戦争においてはこの隣国が味方になるだけで敵国を挟み撃ちできる位置どりになるし、単純に国力だけ考えても段違いで友好国に認められれば経済面や政治面の恩恵は計り知れない。
(政治にうとい俺でも、分かる)
デンダールの手が震える。
(これは……アルジェンヌ嬢の婚約は、我が国が、手放せない 奇貨(きか) だ)
国内有数の侯爵家の養女にして、大きな力を持つ他国王子の婚約者。
アルジェンヌ・タウゼント。
デンダールの弟が手を出したのは、その彼女の妹だった。
彼女を、リジット家は敵に回したのだ。
+ + +
「ああ、リジット伯爵は知らなかったかな?
レシェナ・ネキア男爵令嬢の実のお姉さん、アルジェンヌ嬢と言うのだけど、タウゼント侯爵家に養子に入っていてね。隣国への花嫁修行に出ていたのが今は帰国中で、この王都のタウゼント侯爵邸にご婚約者と一緒に滞在されているんだよ。レシェナ嬢も呼ばれてタウゼント邸にいるそうだ。ネキア男爵夫妻は領地で国境を守っていて動けないから、今だけ、お姉さんのタウゼント侯爵家がレシェナ嬢の仮の後見のような立場だね」
するすると、飲みやすい水のような声でペリアン老人がやさしく説明をしている。
は、とか、へ、とか、意味のないかすかな呼気が何度もリジット伯爵家当主グイド・リジットの口から漏れたが、形を結ばずにあえなく散っていく。
タウゼント、と伯爵はようよう単語を紡いだ。
妹。
後見。
ちぎれたネックレスみたいに言葉の粒だけが落ちる。
由緒ある侯爵家 縁戚(えんせき) のコーヴェリアン卿を前にしただけで目の色を変えた小さな伯爵に、今をときめくタウゼント侯爵家の名は輝きが強すぎて、現実味がない。
「うん。だからね」
ぐるぐる目を回している小男をペリアン卿は微笑んで眺め、変わらぬ口調で続ける。
「君たちが謝罪に行くのは、タウゼント侯爵邸ということ」
は、と、また息が漏れた。
「親離れ前の子供同士の話だから、最初から国がどうこうというのではないのだけど、立ち会いは誰かいた方がいいと思うんだよねぇ。ま、つまり、コーヴェリアン君を同席させてねってことなんだけど。記録の書記官も付けようね。家具か何かだと思ってくれて良いよ」
「あ、は、あの」
「さっき言ったように、先方は明日でも良いんだって。――――いつにしようか?」
+ + +
某日
タウゼント侯爵邸
「あの男を、どうにかして、レシェナと同じ目に遭わせてやりたい。同じ苦しみを味わわせてやりたい。そう思ってしまうの」
何度目かにアルジェンヌがそう呟いた時、そこには初めて、被害者本人であるレシェナがいた。
レシェナはまったく予想外という様子できょとんとして、少し経ってから、不謹慎な冗談を聞いた時の貴婦人の仕草で弱々しく苦笑した。
「無理だと思います」
「どうして?」
「同じことをされても、きっと何か感じる人ではないから」
「そうなのね」
「あの人は男の人だし、自分の評判も家族も大切に思っていない雰囲気でした。
私のように周りにどう思われているのか心配になって、誰もが自分の噂話をしているのではないかと疑心暗鬼になって、廊下を歩くだけで息ができないほど心臓が嫌な音でどきどきする感覚は分からないと思います。
家族に迷惑がかかる怖さも、心配させてしまうのではないかと怯える気持ちも、家にどれだけ迷惑をかけてもいいと思っているあの人にはきっと分かりません。
噂がいつかお母様やお姉様の耳に届いてしまうのではないかと怖くて怖くてたまらないのに、でもどこかで誰かに知ってほしくて、それを知った誰かが颯爽と――今のお姉様みたいに颯爽と、何もかも一度にひっくり返して――助けてくれないかと想像して……、そんな空想に逃げる自分を見つけてしまったらどんなに惨めな気持ちか。彼には絶対分からない。
私――、
エンディオン様が助けてくれる空想もしました。
兵隊をたくさん連れてきて、あの男をこてんぱんにしてくれて、もう大丈夫だよって手を差し伸べてくれるの。それであの男は縄でぐるぐる巻きにされて、周りの生徒たちは恐れ入って頭を下げるのよ。一緒に私をからかった取り巻きたちは大慌てして、そんな高貴な方の妹だったなんて知らなかった、許してくれってぺこぺこするの。遠巻きに見ていたお友達も、みんな戻ってきて、ごめんなさいまた仲良くしてね、王族の方とお知り合いなのね、素敵だわって言ってくれる。そんな想像をしたことがあるんです。
なんて、
なんて浅ましい。
自分では何も言わずに口をつぐんで震えているだけなのに。馬鹿みたい。恥ずかしい」
ぽろぽろと大粒の涙を流しているのに、レシェナはその自覚もないかのようだった。
話しても話さないでも良いと告げたのがかえって気持ちを楽にさせたらしく、時折、レシェナはスイッチが入ると急に自分からこのように辛い思い出の話を始めることがあった。
「私、情けない。
本当は、エンディオン様のお顔もよく覚えていないんです。
何度かお会いしたけど、そんなに長くお話ししたわけでもないし。ただ、エンディオン殿下が私の知り合いの中で一番偉い方だったから」
現実ではありえないと分かっていたから、それは安全な空想だったのだろう。
まさか本当に姉が実力行使でその王子様を連れて来てしまうとはレシェナにとっても完全に想定外だったに違いない。
「お姉様がいらして、学園に行かなくて良い、寮に帰らなくて良いと言われてほっとしました。授業を休まなかったのは、一度休んでしまったら二度と行けなくなる気がしたのと、あと、もしかしたら、私が隠れていたら寮の中まで彼らが入ってきてしまうかもしれないと怖かったからです。人がいない時に寮の入口の近くでいたって聞いてから、怖くてたまらなくて、今思うと関係ないんですけど、私が学園で姿を見せていれば寮までは入ってこないからって、なぜかそう思い込んでいて」
なぜレシェナがそう考えるようになったのか、アルジェンヌは想像がつく気がした。
集めた証言の中にゲルトランがレシェナの部屋の場所を聞き出そうとするものがあったのだ。
あまりあからさまに逃げたり姿を隠すようなら自分から会いに行ってやらねばならないと脅かすような発言もあり、それらが組み合わさって、寮内に立て篭もると中まで押し入りかねないという印象を持たされたのだろう。
「曲がり角が怖いんです。
誰が先に立っているか分からないから。
あの人がいるかもしれないと思ってしまう。
暗がりがあると、そこに誰かいるような気がしてしまう。
……そんな怖さを、男の人が感じるとは思えません」
ゆっくりと涙が引き、レシェナの言葉は元の話題に戻ってくる。アルジェンヌはそれを見ながら思案げに顎に指を当てていた。
「それが、あなたの感じた恐怖なのね」
沈黙が長くなってきた頃、そっとアルジェンヌが言った。
返事を求める聞き方ではなかったがレシェナはこっくりと頷いて肯定する。
「もっと早く、自分から、ご相談するべきだったと思います」
唇を噛んで彼女は言った。
「わたくしは、レシェナが努力を怠ったとは思わないわ。あなたがどんなに苦しい思いで耐えていたか、想像もできないの」
呟けば、妹はかぶりを振る。
「怖かっただけ」
「そう……」
「家には黙っていてやるとか、あの人の、そんな言葉を、別に、信じたわけではないんです。ただ私が臆病で、事態が少しでも変わることが怖くてたまらなかった。
まるで、とてもとても熱い湯船に入っているようでした。
少しでも体を動かすとお湯が揺れて、熱くて痛くてたまらなくて、指一本でも、言葉ひとつでも動かせなくて、身じろぎもできなかった」
「いつか煮えてしまうと思わなかった?」
「思いました。このままじゃ耐えきれない日が来るって、分かっていても、動けなかった」
「そう」
姉妹はそれから長く対話をした。
姉アルジェンヌは辛抱強く、妹レシェナは気高かった。
アルジェンヌはレシェナにゲルトランに関する処遇の希望を尋ねた。レシェナは何も望まないと答えた。
「後は任せて」
アルジェンヌは言った。
美しい夏至前の夕暮れが迫っていた。