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余命わずかの伯爵夫人は、最愛の娘のために夫を××したい【電子書籍化】

作者: 名紗すいか

本文

アンジェが一歳になる誕生日の前日、母が死んだ。

父の嘆きようはそれは酷いもので、そんな父を献身的に支えた幼馴染と再婚するのは当然の流れだったらしい。

アンジェが物心ついたときには、継母が屋敷を取り仕切っていた。

父は多忙ながらも、亡き妻の忘れ形見であるアンジェをかわいがってくれていたが、それが気に入らなかったのだろう。それまでいい母親を演じていた継母は、父との間に子供ができるとすぐにその態度を豹変させた。

前妻の子など邪魔なだけとばかりに、父のいないところで陰湿にいじめられるようになったアンジェ。躾と称して服の下の見えない場所を鞭打たれ、食事すら与えてもらえない日が次第に増えていく。

隠れてアンジェを助けてくれていた者がひとり、ふたりと解雇されると、自らの保身のために、アンジェを助けてくれる使用人はひとりもいなくなった。

唯一の味方であった父は、屋敷の内情を知ることなく、数年後、事故であっけなくこの世を去る。

死に目にも会えず、アンジェが話を聞かされたときには、すでに荼毘にふされた後だった。

呆然として、それでも泣く暇さえ与えられず、アンジェの人生はそこからますます転落の一途をたどっていくことになる。

それまで最低限伯爵令嬢らしい貴族の暮らしをしていたアンジェだったが、唯一の味方の父がいなくなったことで虐待が日常化し、いつしか使用人の仕事をさせられるようになっていた。

日の出前に井戸水を汲み、屋敷の掃除に洗濯に料理と、休む暇なく働かされ続け、思い出したかのように継母からの折檻を受け、眠るのはいつも日を跨いだ後。ただその繰り返し。

そんな継母を見て育ったせいか、異母妹は母親に倣うようにアンジェのことを虐げ、母の形見や父の残してくれた遺産をはじめとしたすべてを奪い取り、継母と一緒に伯爵令嬢としてパーティーへと出かけて行く。

アンジェのあかぎれの目立つ指は到底伯爵令嬢には見えず、本来ふわふわしているはずの髪は洗っていないせいかベタついている。使用人ですら着ないようなボロを着せられ、空腹と労働で一日を終える痩せこけたアンジェは、生きるために庭の草木でさえ齧って食べた。

その姿を見た継母たちは手を叩いて笑っていたが、屈辱などとうになかった。生きるためにはなんでもした。

そしてあの寒い冬のこと、アンジェは風邪を拗らせて寝込むことになる。

看病してくれる人などいるはずもなく、自分たちに風邪が移ると困るとばかりに、壊れかけた小屋に追いやられたアンジェは、寒くてガタガタと震えながら朦朧としていた。もしかして自分はこのまま死ぬのではないかと、はじめて死ぬことへの恐怖を抱いた。

まだ死にたくはない。

だけど……だけどだ。

生きていてもいいことなんて、ひとつもない。

それならいっそこのまま死んでしまった方が幸せなのではないか。

震えていたはずの体はいつしかなにも感じなくなっている。

薄いくたびれた毛布にくるまったアンジェの朧げな瞳に、絵姿でしか見たことのない、儚げな母の微笑みが映った。母の周囲に幻想的なきらきらとした光の粒が舞っている。

「お母様……?」

もしアンジェの意識がはっきりとしていたのなら、そこにあるのは小屋にしまい込まれた母の肖像画であり、舞っているのがただの埃なのだと気づけただろう。

だが今のアンジェにとっては、それに気づけなかったことがなによりの救いだった。

(……ああ、お母様が迎えに来てくれた……)

天国にいる父と母と、今度こそ家族三人で幸せに暮らせる。

そう思ったらアンジェは死ぬことが怖くなくなった。

アンジェはかさついた口の端をどうにか少しだけ持ち上げて、慈愛に満ちた表情でアンジェを見つめる母へと、精一杯手を伸ばした。

「……家族、で……幸せ、に……」

そのひと言を最後に、アンジェは瞼を下ろし――……

「いやぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!」

ジェーン(・・・・) は絶叫しながら飛び起きた。

今にも止まってしまいそうなほど、心臓がどくどくと激しい音を立て脈打っている。体中汗で濡れて気持ち悪かったが、ジェーンは消毒液の臭いの染みついた寝台から転がり落ちるように這い出ると、裸足のまま子供部屋を目指して一目散に駆け出した。

伯爵夫人であるジェーンは幼い頃を除けば、こんな風に走ったことすらなく、さらにここ数ヶ月、病床についていたせいで筋肉はすっかりと衰えており、子供部屋にたどり着くまでに何度も足をもつれさせ、その度にみっともなく廊下を転がった。

ぼさぼさになった銀色の長い髪を振り乱し、廊下を転がり走るジェーンの姿はさぞ異様だったことだろう。使用人たちが悲鳴をあげながら慌てて助け起こそうとしてくれたが、その手を振り払って子供部屋のドアにほとんどぶつかるようにして室内へと飛び込んだ。

「アンジェ! アンジェッ……!!」

なんとしても、かわいい我が子の無事をこの目で確認しなければ安心できなかった。

それだけを原動力に、勢いよくベビーベッドを覗き込む。

そこには夫によく似た栗色の髪をした赤子が、やわらかな毛布に包まれてぐっすりとよく眠っていた。

子供特有のふっくらしたあどけない頰は血色がよくすべすべしていて、苦労の色はひとつもない。

穏やかなアンジェの幼い寝顔を見てようやく安堵したジェーンは、そのまま膝から崩れ落ちそうになった。

(ああっ、よかった! 神様、ありがとうございます……!)

全部夢だった。

すべては病に弱った心が見せた悪夢だった。

ジェーンは生きているし、アンジェもこうして健やかに育っている。

心底ほっとして、だけど胸の奥に嫌な引っかかりも覚えてもいた。

夢で見たアンジェは、成長したらこうなるのではないかという容姿そのものだった。あまりに痩せこけていたが、それでも母だからこそわかるものがある。想像だけでは補完できない細部まで、あれは確かにアンジェだった。

ジェーンは何度も頭の中で反芻して、気づいた。

―― アンジェが一歳になる誕生日の前日、母が死んだ。

ジェーンは信じられない思いでアンジェの寝顔を見下ろした。

アンジェが一歳の誕生日を迎えるのは……明日。

すっと背筋に風が吹き抜けたように冷えると、体がカタカタと小刻みに震え出した。

あれはただの夢などではなく、これから先のアンジェの身に起こることの暗示――予知夢なのだとしたら。

それは、つまり。

ジェーンの寿命は今日まで、ということにならないだろうか。

自分が近いうちに命尽きるだろうことはわかっていた。病のせいで最近では思うように起きることさえままならず、ここまで転がりながらも走って来られただけでも奇跡だった。

医者にも匙を投げられ、回復する見込みは限りなく低く。夫が名医を連れて来たが、それでもだめだった。

なにより自分の体のことは自分が一番よくわかっている。だからこそ、自分のことはもうとっくに諦めがついていた。

命尽きるその瞬間まで、優しい夫とかわいい娘を持てたことに満足して、静かに死にゆくつもりだった。

娘を残していくことへの未練だけがかろうじてジェーンをこの世に留めていたと言っても過言ではない。

だけど……。

だけどだ。

あんな残酷な娘の未来を見せられて、おちおちと死んではいられないではないか。

娘の行く末が不安で、このままでは死ぬに死ねない。

自分が死んだ後、夫が誰かと愛し合った末に再婚するのは仕方ない。

(だけど……よりにもよってあの女と再婚して、あまつさえ子供まで作るだなんて!)

ジェーンがどれだけあの女――夫の幼馴染であるカッシーナに辛酸を舐めさせられていたことか。

しかもアンジェが虐げられていることにも気づかず、事故で死ぬとは。なんて間抜けな男なのだろう。

昨日までは誰よりもジェーンを愛し、娘を愛してくれる、理想的な夫だと信じて疑わなかった。彼に任せておけば、母がいなくともアンジェは幸せに暮らしていけると思っていた。

なんて愚かな母だろうか。

「ごめんなさい、アンジェ……」

なにも気づかず、命より大切な娘を死ぬよりもつらい目に遭わせてしまうところだった。

(わたしの命があるうちに、アンジェを守らないと……!)

そのためになにができるか。

大切な娘のために。

たった一日

されど一日。

できることは、まだある。

(大丈夫よ、アンジェ。たとえ刺し違えてでも、お母様が命をかけてあなたを守り抜くと誓うわ)

ジェーンはすやすや眠る娘の額にそっと口づけると、子供部屋を後にした。

夫のエゼルとはいわゆる政略結婚だった。

伯爵家の次男だったエゼルと、同格の伯爵家のひとり娘だったジェーン。

貴公子然とした容姿と穏やかな性格のエゼルにジェーンはすぐに惹かれていったし、彼もジェーンを愛してくれた。

家同士の結びつきとしては理想的なものであり、そこに問題はなにも存在しなかった。

たったひとつ。

そう、ただひとつ。

エゼルの幼馴染であるカッシーナのことを除いては。

エゼルの実家の領地と隣り合う男爵領の娘であり、息子たちと年齢が近いことから、エゼルの家族はカッシーナを娘のようにかわいがっていた。

とはいえ血の繋がった娘ではない、赤の他人だ。

エゼルはあくまでも兄として節度ある接し方をしていたようだが、それでも、当然のように家族として振る舞うその関係性は婚約者だった当時から眉を顰めるようなものだった。

もちろんエゼルはジェーンとの約束をなにより優先してくれていたし、会えばいつもお姫様のように扱い熱心に愛を囁いてくれ、会えないときも心尽くしの手紙や贈り物を届けてくれた。

それでもたまに、ふとした拍子にエゼルの口から彼女の話が出る度に、どれほど煩わしく思ったことか。

もちろんそれを顔や態度に出すことはなかったが、きっとそれがよくなかったのだろう。ジェーンとカッシーナがお互い笑顔の下で罵り合っていることを、夫は未だになにも知らずにいる。

もちろんはじめからそうだったわけではない。ジェーンもエゼルが妹のように思っているのならと、彼女と打ち解けようと努力した。

だが、早々に諦めた。

エゼルはカッシーナを妹としてしか見ていなくとも、彼女は彼のことを愛していると気づいたからだ。

伯爵家の次男と、男爵家の娘。

カッシーナがひとり娘であり、そこに愛があればまた別だったのだろうが、エゼルにあったのはあくまでも家族愛のみ。

そうでなくともエゼルの両親は、伯爵家もしくは裕福な子爵家のひとり娘に婿入りすることを前提として、次男の婚約者を探していた。

そうして年齢や性格などを含めた一番条件に合ったのが、ジェーンだったわけだ。

つまりエゼルは我が家の入婿である。

夢の中で夫の後妻であるカッシーナが家を乗っ取り、その娘がアンジェに成り代わろうとしていたが、夫が入婿な以上それは不可能な話だった。

伯爵位を継承できるのは今のところジェーンの娘のアンジェだけ。

アンジェがもしどこかに嫁入りするなどして爵位を譲渡するというのなら、親戚の間で後継の話し合いになるだろう。

仮にジェーンが死に、夫と後妻の間に子が生まれたとしても、その子に継承権はない。

だから安心していた。

いや、慢心していた自分を罵りながら、ジェーンは食堂でエゼルを見つけると裸足のまま駆け寄った。

「――エゼル! エゼルレッド・モリス!!」

彼は突然現れたジェーンの姿に驚いた様子で、ナイフとフォークを動かす手を止めた。

「ジェーン、どうし――」

ジェーンはカトラリーからフォークを一本掴み取ると、そのままエゼルの皿の上の肉を、ザンッ! と突き刺した。

妻が死にかけているこのときに、よく食事など喉を通るものだという怒りを込めて。

あまりの暴挙と、それを行ったのが今にも息絶えそうな妻だったせいか、驚き過ぎたエゼルは声も出ないようで、丸くした目でただただこちらを見つめている。

ふぅ、ふぅ、と肩で息をするジェーンは、ボサボサになった髪の合間から、夫を睨みつけて言った。

「わたしと離婚してください」

エゼルはゆっくりと小首を傾げた。なぜそんなことを言われるのかまるで理解できないという顔をしている。

「……理由を、聞いてもいいのかな?」

「アンジェのためです」

「アンジェの……?」

「アンジェのために別れてください。今すぐに」

彼はしばらく言葉に迷ってからやんわりと反論した。

「……アンジェには父親が必要だと思うけれど」

(アンジェを苦しめる父親なんて、いらないのよ! この、裏切り者!)

ジェーンは怒りのままに、フォークに突き刺しっぱなしだった肉を、自分の口の中へと突っ込んだ。

数ヶ月ぶりに食べた肉は重たく、はっきり言ってくどかったが、それでもやわらかく焼かれていたのでどうにか噛み締め嚥下した。後で胸焼けを起こしそうだったので、そのままサラダを刺して無理矢理口に押し込んで中和させる。

そしてすべてを胃に送り込んだところで、ジェーンは一方的に要求を突きつけた。

「今すぐ離婚に応じるのなら、今後もアンジェに会うことを許します。離婚に応じないということでしたら……二度と娘に会えないと思いなさい!」

フォークを、ダン、とテーブルに置いて、ジェーンは踵を返した。

「え……? ジェーン……?」

ジェーンに残された時間は長くない。

それでも、やらなくては。

アンジェが安心して暮らせる土壌を作るためには、状況を飲み込み切れていない愚鈍な夫に構っている暇など一秒たりともないのだ。

首尾よく夫と離婚できればこれに越したことはないが、長期戦になるだろうことは想像にやすい。

それでもジェーンの意思は伝わったはず。

次なる一手を考えなくては。

いっそ夫を手にかけてしまえれば……と、一瞬恐ろしい考えも浮かびはしたが、さすがにそれは良心が咎める。

いくらアンジェのためとはいえ、アンジェを犯罪者の娘にしては本末転倒だ。

さっきフォークを握ったときチャンスはあったが、どれだけ理性を失っていても、夫を串刺しにする勇気はなかった。

それになによりジェーンはこうなってもまだエゼルのことを愛していた。そう簡単に嫌いになれるはずもない。

疲れが出たのか、寝室へと戻る前にふらつき、転倒しそうになったとき、横から誰かの手に体を支えられて思わずジェーンは身構えた。

「大丈夫ですか、奥様」

そう声をかけてきたのは、見覚えのない青年だった。

……いや、夫の秘書として雇われたと紹介された気もする。熱に浮かされていたときだったので、あまりはっきりとは思えていないが。

彼は愛想よく、ニコッと笑う。そうすると目が細くなり、どことなく胡散臭い狐っぽい印象になるが、清潔感のある身なりや、そのしゃんと伸びた姿勢には好感が持てた。

いかにもエゼルが好みそうな青年だ。彼の差金だろうが、その手を振り払う気力は今のジェーンには残されていなかった。

手を貸してもらいながらどうにか寝室へと戻ると、ジェーンはベッドへと腰を下ろした。しばらく立ち上がれそうにない。

「ありがとう。……えぇと」

「旦那様の秘書をしております、ヴィクターと申します」

「そう……そう、だったわね」

まったく聞き覚えはなかったが、悟られないように知っていた風にうなずく。

「あの人になにか言われて来たの? 離婚の件は撤回しないと伝えてくださる?」

「いえ。私は伝書鳩としての役割ではなく、私個人の問題について、奥様にご相談があってこちらへと参りました」

「……そうなの?」

「ええ。私は旦那様個人に雇われた秘書です。もし奥様と旦那様が離婚された場合、せっかく得たばかりの職を失いかねないと、恥を承知でお訪ねした次第です」

「離婚したからと言っても、夫の進めている事業は夫が引き継ぐという形にしてもらいますし、あなたがいきなり職を失い路頭に迷うということはないと思うけれども……」

「いいえ、箔の問題です。伯爵家に雇われている、というのと、伯爵家から放逐された方に雇われている、とでは、周囲の見方は大きく変わるでしょう」

「……それは……そうかもしれないわね」

「ええ。ですので、奥様が離婚を決意された理由を聞かないことには、私としても納得できないのです」

ジェーンは逡巡したが、荒唐無稽ではあるが夢の内容を語って聞かせた。ジェーンの死からはじまるアンジェの不遇な人生を。

信じなくとも別によかったが、ヴィクターは意外にも最後まで真剣に聞き終えると、納得したかのように深々とうなずいて見せた。

「……笑わないのね」

「そうですね。千年も昔には魔術というものが栄えていたのですから、そういう不思議なことが起きたとしても、別段おかしくはないかと。今でも魔術師が現存していることはご存知でしょう?」

魔術師。

ジェーンはこれまでに魔術師と名乗る人物に出会ったことはないが、なんとなく、思慮深く達観した年配者のイメージがある。

きっと本からの影響が大きいのだろう。物語に出て来る魔術師は、大抵がお爺さんである。

「この世には無数の世界線があるとも言いますし、そのひとつを奥様が見たという可能性を、私が否定するにも材料が少な過ぎますね」

頭から否定されなかったことにジェーンはやはり自分の考えが正しかったのだと背中を押された気分になった。

「ですが、その夢がこれから起こりうる未来なのだとしたら、旦那様と離婚するのは得策ではないかと思います」

「どういうこと?」

「アンジェ様のために今旦那様を切り捨てるというのは、あまりに短絡的であり、愚策です。旦那様はアンジェ様のためにも、このまま伯爵家に縛りつけて馬車馬の如く働かせておくべきでしょう。切り捨てるべきは旦那様ではなく、その種でございませんか?」

「種……って、え、種?」

「そうでございます。なにより不要な種をばら撒かないことこそが肝心なのではないでしょうか。ゆえに奥様がすべきは、離婚ではなく断種! これこそが最良の処置かと」

笑顔でなかなか恐ろしいことを言う秘書だ。

さすがのジェーンも冷静さを取り戻すほどの衝撃的な発言だった。

呆然としている間に彼は真剣な面持ちで、思いがけないことを切り出した。

「奥様。奥様が私を個人的に雇ってはいかがでしょうか?」

「わたしが、あなたを?」

「僭越ながら奥様は先ほどふらついていたように万全ではないご様子。私を手足として使ってはいかがでしょうか?」

確かにジェーンの病状はこの先どんどん悪くなる一方だろう。こうしてどうにか動けるのも、今だけかもしれない。

そんなとき使える人材があるとないとではアンジェのためにできることも変わってくる。

「もしこのまま志し半ばで奥様がお亡くなりになり、旦那様がもし再婚をしたとしても、子ができるような行為は全力で阻止しますし、不安でしたら今からでも旦那様に一服盛ってご覧にいれましょう」

ひと言に断種と言っても、その処置方法にはふた通りある。物理的に切り落とす方法と、薬を服用して種を殺す方法。前者は確実であるが処置の過程で痛みを伴い、合併症など死の危険も伴うが、後者だと長期間薬の服用が必要ながらも、体への負担は少なくて済む。ヴィクターがやろうとしているのはおそらく後者なのだろう。

「薬で寝入ったところをスパンと切り落とせば完璧です」

まさかの前者だった。

「もちろんこれは冗談ですが」

いまいち冗談がわかりにくいので反応に困る。

発言はとんでもないが、ジェーンの心はぐらりと揺れた。

自分が死んだ後、アンジェを守ってくれる人は多い方がいい。だがそれは、信じられる人間でなければ意味がない。この秘書が信用に足るかどうか、今の段階ではまだ判断し切れない。

「だけどあなたは、エゼルの秘書でしょう?」

「それはそうなのですが、私は金のためなら平気で主人を裏切れる秘書なので、その点は問題ありません。前払金さえいただければ、それに見合う働きをお約束いたしましょう。間違っても持ち逃げなどという卑怯極まりないことはいたしません。それは主義に反するので」

それは大丈夫なのかわからなかったが、きっぱりと言い切ったヴィクターはとてもいい顔をしていた。

ある意味正直とも言える。お金を前に誠実とも。

お金ならいくらでもある。どうせ死後の世界には持っていけないものだ。

化粧台の引き出しに隠していた金貨の詰まった巾着を取り出してテーブルにジャラッと載せると、ヴィクターの瞳がわかりやすく輝いた。

「金額に見合った働きをぜひご期待ください」

あっさり夫を裏切った秘書に、本当に大丈夫だろうか……と、大事そうに巾着を懐へとしまうヴィクターをうろんげに見やった。

「とはいえ、旦那様からも、万が一の際は旦那様より奥様やアンジェ様のことを優先して行動するよう言われていますので、旦那様を裏切るということにはならないかと思います」

「そうなの?」

「ええ。この有能で優秀な秘書である私がいる限り、アンジェ様が凄惨な目に遭うことはないと保証いたします。私、欲に染まった醜い大人はわりと平気で始末できますが、無垢な幼子には弱いのです」

本当に大丈夫だろうかと再度思いもしたが、エゼルがそばに置いているので有能で優秀というのはその通りのことなのだろう。普通自分で言うものではないと思うが。

「……ところで、奥様」

「なにかしら?」

「こちらの鏡なのですが」

ヴィクターの目線の先には、床に落ちて蜘蛛の巣状にひび割れた手鏡があった。黄色い薔薇の意匠の手鏡。夫からのプレゼントだったが、さっき悪夢に飛び起きた拍子に落ちて割れてしまったのだろう。

屈んで手に取ろうとしたジェーンをヴィクターが素早く制した。

「危ないので、私の方で片付けておきますね」

「そう? 助かるわ。エゼルからもらったものだったけれど……これも天啓かしらね。捨てておいてくれる?」

「ええ。ポイっとしておきますね」

ポイっとしたら破片が散らばらないだろうかと心配しつつ、ジェーンは横になりながら秘書を見送った。

すべてはアンジェのため。

アンジェのために残された時間を使わなくては。

命尽きるその瞬間まで。

くらりと眩暈がして、視界が波間に漂う船のように揺れた。

無理に動いたことで体に負担がかかり、限界が訪れたのだろう。

そのままジェーンはしばしの間、意識を失うように眠りについた。

**

エゼルレッド・モリスは困惑していた。

愛する妻に離婚を突きつけられたのだから当然だ。

去って行く妻の背中を呆然と見つめたまま、秘書としてそばに控えていたヴィクターへと問いかけた。

「……妻が元気になったことを喜べばいいのかな? それとも、離婚を突きつけられたことを嘆いた方がいい?」

「お好きな方で」

人の問いかけに一秒たりとも考えることなく、にこやかにそう言った秘書の方へと、エゼルは顔を向けた。シュッとした長身で姿勢がよく、さらりと長い黒髪をうなじでひとつに結んでいることで全体的に引き締まったクールな印象なのだが、笑顔だけがどうにも胡散臭い。

もちろんわかった上で雇っているエゼルは、気に留めることはないが。

「じゃあ……喜んでおこうかな。昨日までスープくらいしか口にしてくれなかったジェーンが、ステーキ肉を平らげた」

ついでにサラダも。ザクザク刺して、ガツガツ食べた。

妻のことが心配であまり食事が喉を通らなかったエゼルに、使用人たちから旦那様まで倒れてしまったらどうするのですかと泣きつかれて、仕方なく食事の席に着いたわけだが。

すべてが妻の腹に収まった。

これほど嬉しいことはない。

普段の儚げな印象はどこにもなく、目は血走ってさえいたが、そんな姿すらも愛らしく見えるのは惚れた欲目だろうか。たとえ鬼女となってもエゼルは彼女に愛を捧ぐだろう。

いきなり固形物、しかも脂っこいものを食べたことは心配だが、食を受けつけなかった日々が長かったせいかやはり安堵の方が大きい。

ジェーンは重病を患ったわけではないのに、アンジェを産んでしばらく経った頃から急に床に伏せるようになり、最近ではほとんど寝たきりの生活をしていた。

どの医者に診せても答えは同じ。体に異常はなく、おそらく心の病によるものだと。

だがエゼルはそれを信じなかった。

心の病と呼ぶには、妻の症状には違和感がある。

最初こそ毒の影響を疑い、妻の口に入るものはすべて毒見させていたが、結果は空振り。よくなるどころか悪くなる一方で。

だからこそエゼルは、バカ高い金を払ってヴィクターを雇ったのだ。

現存する魔術師の中でも、最高峰と名高い彼を。

病でもなく毒でもないのなら、別の要因のせいだと考えた。

どうやらそれは間違ってはいなかったらしい。

「病は気から、という言葉がありますが、それは呪詛にも言えることですからね」

気持ちが弱くなると呪いにかけられやすいのだとヴィクターは言う。

呪い。

それこそエゼルが疑っていたものでもあった。

「とはいえ、私にもまだなにが起きたのかわかりませんが、どうやら呪いが返されたようです。奥様にしつこくまとわりついていた怨嗟の澱みがほとんど消えかけていましたから」

「本当に?」

「ええ。なにがきっかけかはわかりませんが、奥様の中で呪いを打ち破るだけの気力が生まれたのではないでしょうか」

「それは、怒りとかでも?」

先ほどの妻はかなり憤慨した様子だった。エゼルはあれほど怒り狂ったジェーンを見たことがなかったので、ぽかんとしてしまったほどに。

「怒りなど、特にエネルギーを使う感情でしょう。奥様に呪詛をかけた魔術師は今頃再起不能となっているでしょうが、因果応報と言いますか、自業自得というものですね」

「……そう。それはよかった」

当然の報いだ。愛する妻を呪った相手にかける慈悲などかけらもありはしない。

「実は私、前々から一度言ってみたかった台詞がありまして。言ってもよろしいですか? 言いますね? “ざまぁ!”」

エゼルの気持ちも、そのひと言に余すとこなく集約されている。ざまぁ。

「だけど、きみがなにかしたわけではないんだよね?」

念のため確認すると、ヴィクターはバツが悪そうにさっと目を逸らした。

「……。確かに、まだ調査段階でしたが……」

「そうなると、きみを雇ったのは早計だったかなと、思ってしまうよね?」

ジェーンのためならいくら払っても惜しくはない。もちろんアンジェのためでもだ。それでふたりが健やかでいられるのなら、全財産はたいても後悔はない。

結果が得られるのなら必要な投資はいくらでもするエゼルだが、結果を出せない者に気前よく金をばら撒くほどお人好しではなかった。

「おやおや、そんなことをおっしゃってもよろしいのですか、旦那様? まだ奥様を呪った犯人が確定していないのに? よもやこの私を、トカゲのしっぽのようにお切りになると?」

ヴィクターの言うように、魔術師を雇い妻に呪詛をかけるよう依頼した犯人を叩かなければ、また同じことの繰り返しとなるだろう。

「そこまでは言っていないよ。きみの言う通り、肝心の犯人が確定していないからね」

「そうでしょうそうでしょう」

「成功報酬を倍にしたら、後始末までしてくれるかな?」

「さすが旦那様、話がわかりますねぇ。ええ、ええ。私にかかればちょちょいのちょいです。細切れにして庭の鯉の餌にしてくれましょう」

そこは鯉のためにも普通にやめてほしいところだが、それはそれとして。

呪いに関してはヴィクターに任せておけばいいが、問題はジェーンだ。

なぜ離婚という結論に至ったのかもわからないお手上げ状態で、途方に暮れている。

「離婚を撤回してくれるといいけれど……」

「ふむ。僭越ながら、ここは私が奥様と話して参りましょう」

「きみが?」

「他人が間に入った方が話が進むこともあります」

「……それもそうだね」

「では少々お待ちください。いい結果を持って参りますから」

胡散臭い笑みを貼りつけたヴィクターを、エゼルはあまり期待せずに見送った。

そうしてしばらく。

ヴィクターが妻の説得から戻って来ると、エゼルは期待のないまま成果を問うた。

「どうだった? 離婚を考え直してくれると?」

「いいえ」

(だろうなぁ)

儚げな見た目のジェーンだが、簡単に自分を曲げない強情な部分がある。そこもまたかわいらしいのだが。

いつもはエゼルが折れているが、さすがに今回ばかりは折れるわけにはいかない。

ジェーンと離婚なんてことになったら、本気で気が狂う自信がある。今でさえ彼女が病床についていることに気が狂いそうなところをギリギリ保っているのに。アンジェがいなければとっくに壊れている。

「ですがこの有能で優秀な私が臨機応変に論点をずらしてきたので、しばらくはそちらに集中なさるでしょう」

エゼルは顔を上げる。ヴィクターは我ながらいい仕事をしたとばかりの笑顔だ。

「論点を?」

「ええ。離婚するより、断種した方が断然お得だと助言して参りました」

「…………えぇと?」

聞き間違いだろうか。

「断種……?」

「ええ、断種です。去勢、と言った方がわかりやすかったでしょうか?」

「いや、それはどちらでもいいけれど……」

言い方などどうでもいい。なにがどうなったらそんな突飛な結論に至るのかの説明がほしかっただけだ。

「おや? 離婚の方がましでしたか?」

エゼルは無言でヴィクターを見た。同じ男なのに、なぜエゼルの心情がわからないのだろうか。

「奥様は現在、不安と混乱の最中にいらっしゃるご様子。すべては奥様の体を蝕んでいた呪いのせいでしょう。奥様を呪詛した犯人を捕らえ、健やかなる心身を取り戻せば、気持ちも落ち着くのではないでしょうか。この私がついている限り、今後呪いにかけられることもないと断言いたします」

お任せくださいとばかりにヴィクターが自分の胸を叩くと、ジャラ……、という、場にそぐわない金貨のぶつかり合う音がした。

「……」

「……こほん。こちらをご覧ください」

ヴィクターはなかったことにするらしく、エゼルは思うところはあったが、促されるままその手のひらに載せられたものへと目を向けた。

「手鏡?」

「呪詛の媒介となっていた品です。奥様は旦那様からの贈り物のような口ぶりでしたが……」

「これを? いや、僕ではないよ。こんな黄色い薔薇の意匠、妻には合わないだろう」

ジェーンが好むのは、かすみ草のような控えめに咲く白い小花だ。薔薇を贈ることもあるが、大抵は白か薄紅のものである。

「すでに鏡が割れているので、これはもう呪いとして機能しておりませんが、念のため私が預かっておきます」

「ありがとう、よろしく頼むよ」

ヴィクターが手鏡をハンカチで丁寧に包むと上着のポケットに収めた。

「奥様を呪詛した魔術師は今頃、塵芥となってこの世から消えているでしょうが、言い換えれば証拠自体が消えたということにもなります」

妻の呪いが解けたのはいいが、妻を呪った魔術師が死んだとなっては、証言する者がいなくなったわけで、このままこの件が表沙汰になったところで犯人の特定ができずに、うやむやになりかねないということだ。

「それは困ったね」

「ですが、安心を。私にはこういう小賢しいことを企む小物の思考回路が手に取るようにわかるのです。近いうちに、魔術師と連絡が取れなくなった犯人が慌てて奥様の様子の確認に来るはずです」

「……それが妻を呪い殺そうとした犯人?」

「断言はできませんが、その可能性が非常に高い、とだけお伝えしておきます」

「……そう」

椅子の背もたれに背を預けて、思案しながら肘掛けを指でこつこつと叩く。犯人をどうすべきか、エゼルはまだ決めかねている。

しかるべき場所に突き出して公正に裁いてもらうか、あるいは……。

「旦那様。もし、ですが、犯人がよく知る親しい人物だったら、どうなさいますか?」

「どう、とは?」

肘掛けに頬杖をついたエゼルは、艶然と微笑みながらヴィクターへと小首を傾げて見せた。そんなこと、言わなくてもわかるだろうとばかりに。

「人を呪わば穴ふたつ、だろう?」

エゼルは世間から、穏やかで温厚な紳士と評判を得ている。だが妻を殺そうとしていた相手に慈悲をかけるほど優しくはない。

理由がなんであれ、犯人が誰であろうと許す気はない。

……そう。誰であっても。

獲物を追い詰めた狐のような目をして口角を上げるヴィクター。エゼルの答えは満足いくものだったらしい。

待っていれば犯人が自ら足を運ぶ。

それならば急がずに待とう。

焦らずとも時間など、まだたっぷりと残されているのだから。

**

ジェーンが次に目を覚ましたとき、自分がまだ生きていたことにほっと安堵した。しかし貴重な時間を失ってしまったことに違いはなく、焦燥に駆られながら身を起こしたがすぐに動くことは叶わなかった。

時間がないというのに、やはり死へと着実に向かう病に蝕まれたこの体がついていかないのだ。

娘のために、今すぐにでも行動したいのに。

それでもどうにか奮起して身を起こすと、乳母に任せきりになっているアンジェの元へと赴いた。

「アンジェ」

ベビーベッドのアンジェはぱっちりとした瞳でジェーンを見上げながら、その小さな両手を精一杯に伸ばして抱っこを求めている。

そっと抱き上げると、さっきは気づかなかった娘の確かな成長を感じられて切なくなった。

「ごめんなさい、アンジェ……。わたしの体が弱いばかりに……」

最近ではこうして抱っこしてあげることもままならなかった。

娘に忘れられていても仕方ないと思っていたが、アンジェはきゃっきゃと笑みを見せており、ジェーンの涙腺が緩む。

「大丈夫よ、アンジェ。絶対にあなたを不幸にはしないわ」

そのためにも、エゼルには断種してもらわなくては。

腕の力がなく、少しの間しか抱いてあげられないアンジェを乳母へと預ける。

アンジェは不満そうにうーうー唸っていたが、また後で顔を見せに来ると誓ってエゼルの部屋へと足を運んだ。

夫は仕事をしており、秘書のヴィクターはなに食わぬ顔でその補佐をしている。だがジェーンに目を止めると、エゼルの視界に入らない位置で、ぐっと親指を立てて見せた。

まるで「任務完了☆」とでも言いたげな、とてもいい笑みつきで。

(まさか、もう一服盛って……?)

机の上には飲みかけのハーブティーが。

さすがに動揺したジェーンだが、夫と娘、天秤にかけるとどうしてもアンジェに傾く。

それに一度服用したくらいでは大した害はないだろう。あれは長期間の摂取が必要な薬なのだから。

それでも少なからず湧き上がる罪悪感をひた隠したまま、ジェーンは夫の前に立ったが、さすがに向き合うと平静ではいられなかった。

「ジェーン?」

「えぇと……その……」

どうしてもハーブティーが気になって、思考がまとまらずにうまく言葉が出て来ない。

「離婚はしないよ?」

「それはもういいの」

(断種の方がお得だとあなたの秘書が言ったから)

確かに一服盛ってくれたこの秘書は信じるに値するが、やはり、人に手を汚させるわけにはいかない。妻であるジェーンができる限り、この手で始末をつけるべきだ。

(アンジェのために……!)

その大義名分の下、ジェーンはエゼルの机からペーパーナイフを掴み取って夫へと先端を突きつけた。

「ごめんなさい、エゼル。アンジェのために……あなたを断種させてちょうだい!」

申し訳ない気持ちはあるが、娘のために、息子にさよならをしてほしい。

そう言った瞬間、ヴィクターがぐるんと顔を横に向け、大慌てでその口元を手で押さえ込んだ。笑っているのか憐れんでいるのかはわからないが、夫婦間のやり取りに口を挟む気はないようだ。

ペーパーナイフの先にいるエゼルはしばし目を丸くしていたが、すくりと立ち上がると、無謀にもジェーンの元へと歩み寄って来た。

「きみにならなにをされても構わないよ。心臓を貫かれても本望だ」

エゼルはペーパーナイフを握り締めて震えるジェーンの手を両手で包み込むと、刃先が自分の心臓の位置に来るように調整しながら囁いた。

「ナイフのように切れ味はよくないから、しっかりと力を込めて。肋骨の隙間を狙うようにね」

言葉の真意を探るように間近で見つめたエゼルの瞳はまっすぐで、そこに嘘も偽りもなにもない。ジェーンのよく知るいつも通りの夫の姿。その平静さに、ジェーンの頭もいくらか冷静さが戻ってきた。

「わたしにあなたを殺させないで」

「それなら話し合いをしよう。お互いの意見のすり合わせをしないと」

「いいえ、そんな時間はないの。わたしはもうすぐ死ぬわ」

「え?」

堪え切れずにジェーンの頰に一筋の涙が伝う。

本当は死にたくない。

愛する夫となによりも大切な愛娘。家族で一緒にしたいことがまだたくさんあったのに。

どれだけ残酷な運命だとしても、ジェーンに抗う術はもうこれしかないのだ。

短い残り時間、アンジェのために使う。そう決めたのだ。

「わたしの死後、あなたが誰と再婚しても構わない。だけどそれは、アンジェを大切にしてくれる相手にして。お願いよ、エゼル……」

本当は再婚なんて考えるだけで悲しくなる。だけど残されたエゼルにそれを求めるのは酷だとわかってもいた。それならばせめて、アンジェのために、真っ当な母親となってくれる人と再婚してほしい。カッシーナだけは論外だ。

エゼルがそれを了承してくれるまでジェーンは決して諦めない。

「え、いや、ちょっと待って? 再婚? なんでそんな話に――」

「だから! わたしはもうすぐ死ぬのよ!」

「いや、絶対再婚なんかしないし、なにより、きみは死んだりは――」

「キ、キャーー!!」

エゼルが焦ったようにジェーンの肩を掴んで言い募ろうとした言葉は、その甲高い悲鳴によってかき消されてしまった。

ふたりしてその声がした方向、戸口へと目をやる。そこに立っていたのは、見間違えもしない、憎き仇であるカッシーナである。

はたから見ればジェーンがエゼルを刺し殺そうとしている場面に相違はなく、ヴィクターのように笑いを堪えている方が実はおかしな反応なのだが、それでもカッシーナの悲鳴は場違いのように響いた。

エゼルを救うべくジェーンとの間に割り入って来ようとするカッシーナが、まるで、夫婦の仲を割くために遣わされた悪魔のようで。

このときジェーンの頭を占めたのは激しい怒りであり、なぜ彼女がここにいるのかという疑問すらなく、脳天を突き抜けるようにその感情が全身に迸った。

自分でも驚くくらいの勢いでペーパーナイフを投げ捨てると、獣のように飛びかかってカッシーナの髪の毛を情け容赦なく鷲掴む。

「よくここに顔を出せたわね、この恥知らずッ! よくもアンジェをあんな目にぃぃーー……!!」

皮膚ごと、いや、首から頭を引き抜く勢いで髪を引っ張ると、驚きと痛みにカッシーナは絶叫した。

「いやぁぁぁぁーー! 痛いっ、やめて、誰か……!!」

「今日という今日は許さないわ、この性悪女! わたしがこの手で地獄の果てまで引きずって行ってやる!!」

鬼女さながらの形相で、ジェーンは暴れるカッシーナを問答無用で引きずって行く。カッシーナは己の力では敵わないと悟ると、瞬きすら忘れて呆然としているエゼルへと助けを求めはじめた。

「エゼル! 助けて……!」

なにか言おうとした夫を、ジェーンは鋭く眼光で射貫いて最後通牒を突きつけた。

「この女を助けようとしてみなさい、今ここでそこの秘書に、あなたを断種させるわ!」

嬉々としてペーパーナイフを拾ったヴィクターを、エゼルは物言いたげに見やってからジェーンへと戻す。その段にはエゼルも落ち着きを取り戻しており、紳士らしく胸に手を当てて微笑んで見せた。

「愛しい奥様のお気に召すままに」

「う、嘘でしょう!?」

驚愕するカッシーナ。これまで妹のようにかわいがっていたはずのカッシーナをあっさり切り捨てたエゼルにジェーン自身も驚いたが、そのエゼルの心情の変化への疑問はこの際後回しだ。今はこの女を締めることが先だとばかりに、ジェーンはカッシーナの髪を掴んだまま廊下を引きずって行き、玄関まで来ると外へと蹴り出した。

「二度とこの屋敷の敷居を跨ぐことは許さないわ! 次その顔を見せてみなさい、髪を全部引きちぎってそれで首を絞めてやる!」

「あ、あなたっ、なんでそんなに元気なのよ!?」

それはなんの気なしに反論した言葉だったのかもしれないが、余命わずかのジェーンの逆鱗に触れるには十分過ぎる言葉であった。

「わたしの……わたしのどこが元気ですってぇぇ!? ……いいわ、わかった。そんなに殺されたいのなら今すぐ締め殺してやるッ!!」

逃げようとしたカッシーナの長い髪を掴んで首にぐるぐると巻きつけると、ジェーンは思い切り締め上げた。

「いっ、いやーー!」

いいぞ、やれやれー、というヴィクターからの煽るような声援がうるさい。

「このまま道連れにしてやるわ!」

カッシーナの命を奪わんとするジェーンを前に、一歩前へと出たエゼルが、この状況下に置いても普段と変わらない穏やかな口調で切り出した。

「ジェーン。締め殺す前に少しいいかな?」

「この女を助けようと思っているのなら、今すぐそれを切り落とすわよ?」

ジェーンの視線の先に苦笑して見せたエゼルは、肩をすくめながらも話を続けた。

「きみになら切り落とされても構わないから、その前に、彼女のその口から真実を語らせたい」

「真実……?」

「魔術師を雇ってジェーンを呪ったのは、きみだね?」

その言葉にびくりとしたのはカッシーナで、話についていけないジェーンはきょとんとして、締め上げる力を緩めるとエゼルとカッシーナを交互に見やった。

「呪った……?」

「そうだ。きみは原因不明の病などではなくて、呪われていたんだ。そこの、半分くらい意識を失いかけている、カッシーナにね」

エゼルが、そうだろう? とヴィクターを見やると、ええ、という首肯が返ってきた。

なにがなんだかわかっていないのは、どうやらジェーンだけらしい。

「術者でなくとも依頼した分の呪いは返っているので、わざわざ奥様が手を汚さずとも、今後は放っておいても落ちる一方かと」

その説明の意味がいまいち飲み込めずに、ジェーンはカッシーナを投げ捨てエゼルに詰め寄った。

「どういうことなの? 呪い? わたしは呪いのせいで、死ぬということなの……?」

地面に倒れ込んだカッシーナが咳き込むのを横目に、エゼルは慌てて首を振って否定した。

「ジェーン。違うよ。きみは死なない。そのためにこのヴィクターを――国一番の魔術師である彼を雇ったんだから」

「魔術師……?」

お金にがめつい胡散臭い秘書だと思っていたが、そんな大物だとは思わなかった。

正体を知ったところで胡散臭さはそのままなので、畏敬の念はどうにも抱けないが。

いや、そんなことよりも、だ。

「わたし、死なない……の?」

「そう言っているだろう? 呪いは返った。きみの代わりに、きみを呪った魔術師が死んだそうだよ」

それを聞いて、「嘘よ!」と悲鳴混じりの声を上げたのはカッシーナだ。

「呪いは同じ魔術師でも簡単に破れるはずがない! あの魔術師はそう言っていたのに!」

錯乱状態で自白したカッシーナを見るに、ジェーンを呪ったことは真実らしい。

まったく反省の色すら見られないその態度に、またぶり返してきた怒りでジェーンの手が小刻みに震えはじめた。

苦しんだのはジェーンだけじゃない。

(そのせいでアンジェは……アンジェは……)

夢に見たアンジェの最期が、眼裏に鮮明に蘇る。

ジェーンが死ぬところからすべて、なにもかも、カッシーナの企みだったのだ。

震えていた手を、ジェーンは血が滲みそうなくらいの強さで握り込んだとき、魔術師だと正体を明かしたヴィクターが、満を持して一歩前へと進み出た。

「ふふふ……今こそ私の真の実力を見せつけるとき! 呪いに手を出すような輩には、それ相応の罰を! “古より受け継がれし――”」

「こぉぉんの、アマァァァァ……!!」

ヴィクターが呪文を唱えはじめるのと同じタイミングで、我慢の限界を迎えたジェーンの拳がカッシーナの横っ面に炸裂した。

万全でないジェーンの一撃。

それでも恨みつらみのこもった渾身の一発。

すべてを拳に込めて怒りを昇華させたジェーンの目には、カッシーナが吹っ飛ぶのがコマ送りで見えたほとだ。

視界の端では、エゼルとヴィクターが揃って口を半開きにし、ぽかんとした表情のまま吹っ飛ばされたカッシーナを目線だけで追いかけている。

物理こそ正義だ。

呪いなどという卑怯極まりない手を使う性根の腐った相手には、この手で制裁をお見舞いしてやらなければ気が済まなかった。

どしゃり、と地面に落ちたカッシーナを放心状態で見つめていたふたりが、視線はそのままで言葉だけを交わす。

「……見せ場を全部、奥様自身に持って行かれましたが、私の報酬は減りませんよね……?」

「……後始末次第、かな」

報酬カットと言われなかったからか、どうにか気を持ち直したヴィクターが、改めて呪文を唱え、すっかりと伸びたカッシーナの上に手のひらをかざす。

見たことのない記号のような文字と幾何学模様の入り混じった光がふわりと地面から浮かんだかと思えば、それはすぐにすっと消えた。

「―― いい夢を(グッドナイト) 。嫉妬に狂った憐れなお嬢さん」

ヴィクターがなにをしたのかわからないが、ぴくりともしないカッシーナに、うっかり殺してしまったのではないかと内心不安だったジェーンの肩をエゼルが軽く抱き寄せた。

「死んではいないよ。彼に任せておけば大丈夫」

「ええ。善き魔術師は呪いなどという醜悪な魔術は使いません。我々は人々に夢を見させます。幸せな夢だったり、悪夢だったり」

(もしかして、わたしが見た夢は……?)

瞠目するジェーンに、ヴィクターは思わせぶりな仕草で、人差し指をそっと唇へと添えた。

ヴィクターが妙にうきうきしながらカッシーナをどこかへと運んで行った後、ジェーンはそれまでの気丈さが嘘のように全身の力が抜け、立っていられずその場にへたり込んでしまった。

「ジェーン! 人を殴るなんて無理するから……」

「だけど、殴らずにはいられなかったのよ」

なにも知らずに呪われておめおめと死に、アンジェにつらい思いをさせてしまうところだった。

これはジェーンの油断が招いた結果でもある。

あの夢を見るまで、カッシーナがそこまでするとは思っていなかったのだ。

カッシーナの悪意の底は、ジェーンが思うよりもはるかに深いものだった。

「とりあえず中へ」

エゼルに支えられて屋敷の中へと戻り、どうにかソファに腰を下ろしたが、さすがに今日はもう、指一本動かせそうになかった。

肩を並べるようにかけたエゼルが先に魔術師を雇うに至った経緯を話し、ジェーンは自分が見た夢の内容を詳細に語って聞かせた。

ジェーンが急に離婚や再婚などと言い出した理由をようやく理解したエゼルが、深々と嘆息する。

「ジェーン。もし仮にきみが死んでいたとしても再婚はしないし、まして妹だと思っていたカッシーナとの間に子供を作ったりもしない。その夢の中に出てきたアンジェの異母妹が、本当に僕の子だったのか甚だ疑問だよ」

アンジェは異母妹のことをエゼルとカッシーナの間にできた娘だと思っていたが、もしかしたら真実は違ったのだろうか。

「その証拠に、夢の中の僕は殺されているじゃないか」

「えっ?」

「考えてもみてごらん。たとえ事故で顔の判別ができないほど遺体が傷ついていたとしても、普通は家族なんだから最期の別れくらいさせてもらえるだろう。それなのにさっさと埋葬して事後承諾だなんて、見るからに怪しいじゃないか」

言われてみれば確かにそうだ。アンジェのことで頭がいっぱいで、そんな些細なことにまで気が回らなかった。

カッシーナはジェーンを殺しただけでは飽き足らず、エゼルまで殺したというのか。あれほど慕っていた相手を。

……いや、慕っていたからこそ、愛情が憎しみに変わったということも、あるのかもしれない。

「わたしはアンジェのことしか見ていなかったわ……」

アンジェのためになりふり構わず動いたことには後悔はない。

だが今さらながら羞恥心が込み上げてきている。

「今日のわたしを見て、色々と幻滅したでしょう……?」

今日一日で、普段の自分とは思えない行動ばかりを取った気がする。振り返って見ても誰か別の人格が乗り移っていたのではと思うほどだ。

「いいや、まさか! むしろ惚れ直したよ。僕の妻は美しいだけでなく勇敢でかっこいいのだと、上方修正したほどに」

あれだけ派手に暴れたというのに、夫がこちらを見る目はいつもと変わらず、それどころか以前よりもさらに蕩けそうな瞳で見つめてくるのでちょっと困っていると、エゼルは居住いを正しながら、こほんとひとつ咳払いした。

「それでなんだけど……誤解も解けたわけだし、断種は、もういいよね?」

ジェーンが死なないのならエゼルが再婚することもない。確かに断種は必要ないが。

「それは……どうしようかしら?」

そもそも、エゼルがカッシーナをさっさと突き放さなかったせいでこうなったのだ。少しくらい意地悪してもバチは当たらないだろう。

「きみが望むのなら、それもやむを得ないけれども――」

そこで思わせぶりに言葉を切って、くすりと笑ったエゼルがジェーンの耳元に唇を寄せて囁いた。

「アンジェだって、弟妹がほしいかもしれないだろう?」

「!?」

「もちろんきみの体調が万全になってからだけど」

耳を手で押さえたジェーンは頬を赤くしながら夫を恨みがましく睨めつけると、彼はしてやったりとばかりに笑った。

やり込めたつもりでやり込められてしまったようだ。

「でも、考えておいて。僕らにはまだまだたっぷりと時間が残されているんだから」

そのとき、ゴーン、と厳かな鐘の音が鳴った。屋敷にある振り子時計の音だ。たった今、零時を回ったのだ。

「アンジェの誕生日だわ」

「そうだね。一歳の誕生日だ」

感慨深く目元に涙を滲ませたジェーンだったが、すぐに大変なことに気がついて慌てふためきながら立ち上がった。

「アンジェが起きるまでもう半日もないわ! 急いで準備をしないと!」

ジェーンが寝込んでいたせいで、アンジェの誕生日を祝う準備がなにひとつできていない。

例の夢では、アンジェの誕生日のお祝いはジェーンの葬儀と重なり、その後に祝われることもなかった。

アンジェがこの世に生を受けて迎える、はじめての誕生日。

たとえアンジェの記憶に残らないとしても、盛大にお祝いしてあげたいと思うのが親心。

アンジェ。

(わたしとエゼルの最愛の娘)

これからもずっとそばにいて、その成長を見続けられることを神に感謝しながら、ジェーンはのんびりとしている夫を叱咤して誕生日パーティーの準備に取りかかったのだった。

**

呪い返しに遭った特殊な被験体をしかるべき機関に売り渡し……もとい、丁重に預け、方々からたんまりと報酬を得たヴィクターは、鼻歌を歌いスキップしそうになりながらも、どうにか気配を消して子供部屋へと忍び込んだ。

ベビーベッドではモリス家の娘であるアンジェが、すぅすぅと健やかな寝息を立てて眠っている。

ヴィクターはそっと忍び寄ると、その額へと指で触れながら囁いた。

「あまりおいたをしてはいけませんよ、お姫様?」

アンジェから漏れ出ていたわずかな魔力を封じ込みながらヴィクターは微笑む。

ジェーンにあの悪夢のような夢を見せたのはアンジェだろう。

ジェーン自身にその呪いを破らせるために。

おそらく母親を守ることで、本能的に自分の身を守ったのだ。

ジェーンの見た悪夢は、現実に起こりうる未来ではなくカッシーナの願望。

もしあのままジェーンが死んでいたとしても、エゼルは先述通り、再婚することはなかっただろう。

まあ、万が一していたとしても、約束通りヴィクターが粛々と処理していただろうが。

それはもう、嬉々として。

そう考えるとこの幼いお姫様は、母親の命だけでなく、父親のことも救ったことになる。

自我が芽生えぬうちからこれだけのことをしでかしたのだ。この子は将来有望な魔術師となるだろう。

ヴィクターがエゼルに仕えたのは、なにも金払いのよさからだけではない。

この小さな魔術師を見つけてしまったのが一番の理由。

善き魔術師が導けば善良な魔術師に。

悪しき魔術師が導けば邪悪な魔術師に。

ヴィクターは自他ともに認める善き魔術師だ。

少々金にがめついが、それはそれ。

この小さな魔術師を導くのがヴィクターの定めなのだろう。

「それにしても、おもしろかったですよ。あなたにも見せてあげたいほどのカオスっぷりでした」

母は強しと言うが、カッシーナの首を髪の毛で締め上げるジェーンの形相はそれはもう凄まじかった。そんな妻を見て幻滅するどころか惚れ直したエゼル。ヴィクターは仕える相手を間違えたかなと、ちょっと……いや、わりと本気で思ったりもした。

「あなたも将来、ああなるのでしょうかね」

それはそれでおもしろそうだ。

(ああ! これだから魔術師はやめられない)

たくさんの報酬に、才能豊かな弟子候補。そこで織りなされるのは悲劇ではなくきっと喜劇。

しばらく退屈せずに日々を楽しめそうだ。

「早く大きくなって、あなただけの素晴らしい物語を観せてくださいね、お姫様」

ふす、と愛らしい寝息で返事をしたアンジェに、ヴィクターは胡散臭いと言われる笑みを深めて、そのふっくらとしたあどけない頬を人差し指で突っついたのだった。